第7話 待つ、と書かれた紙

体育館裏のコンクリートは、夕方になっても熱を手放していなかった。

しゃがみ込んだ膝から、制服の布を通して熱が上がってくる。僕は額を腕に押しつけ、細く息を吐いた。吐いた息が、喉の奥でひっかかる。体育館の中で鳴ったマイクのハウリングが、まだ耳の奥に残っていた。高い音が、頭蓋骨の内側を薄く削っている。

職員室前の提出箱。

霧島先生の机に置かれた進路調査票。

母さんが夕食の皿を片づける音。

父さんが何も言わずに新聞を折る音。

それらが全部、ひとつの塊になって、喉の内側に貼りついていた。

僕は逃げた。

どこへ逃げるかを考えるより先に、階段を下り、昇降口を抜け、体育館の脇を曲がっていた。走っているあいだは、靴底の音が大きかった。校舎の壁に跳ね返った自分の足音が、誰かに追われているように聞こえた。

けれど、ここまで来ると、聞こえるのは遠い運動部の掛け声と、網の向こうで鳴く蝉の声だけだった。

「走るの、今日で何回目?」

背後から声がした。

僕は顔を上げなかった。透の声だと分かっていた。分かっていたから、余計に振り向けなかった。

「数えてるの」

「一応。朝の階段で一回、進路室を出てから一回。今ので三回目。おまえ、逃げ足だけは推薦枠に入れるんじゃない?」

いつもの軽口だった。

でも、笑いの温度が薄い。

僕は膝に置いた手を握った。爪が掌へ食い込む。痛みがあれば、まだ何かを考えずに済む。

「……別に」

「その“別に”、今日だけで何回目だよ」

「数えてるんじゃないの」

「こっちは趣味だから」

足音が近づき、僕の斜め後ろで止まった。透は隣へ座らなかった。少し離れた壁に背を預け、鞄を足元へ置いた。近づきすぎない。けれど、帰りもしない。その距離の取り方を、透は昔から知っている。

僕が本当に苦しいとき、隣に座られると逃げ場がなくなることも。

ひとりにされると、もっと遠くへ逃げることも。

「おまえさ」

透の声が、今度は少し低くなった。

「全部ひとりで抱えようとする癖、まだ直ってないんだな」

「抱えてない」

「じゃあ、何でここにいる」

「暑かったから」

「校舎の中のほうが涼しいだろ」

「体育館裏のほうが、静かだから」

「静かなところへ行きたい奴は、さっきみたいに靴音を鳴らして走らない」

返事ができなかった。

僕が黙ると、透も黙った。気まずさを埋めるための冗談を、今日は足さない。遠くでホイッスルが鳴り、誰かが「もう一度!」と叫んだ。体育館の壁が低く震える。

僕は顔を上げた。

空は夕方の色に変わりかけていた。校舎の屋上の縁が、橙色の光を受けている。雲の薄いところだけが、濡れた紙みたいに白く光っていた。

「……進路調査票」

やっと、それだけ言った。

「うん」

「書けない」

「知ってる」

あまりに早く返されて、僕は透を見た。

透は壁にもたれたまま、こちらを見ていなかった。学生鞄の内ポケットから、くたびれた定期券入れを取り出し、指先で何度も折り目をなぞっている。

「知ってるって、何を」

「白い欄があること」

「それは見れば分かる」

「じゃあ、何を聞いてるんだよ」

僕は言葉に詰まった。透の返事は、いつも一歩だけこちらへ来て、そこで止まる。核心に触れそうで触れない。その止まり方が、今日はひどく苦しかった。

「……演劇のことも?」

「何の?」

「僕が、放課後に稽古してること」

「それは知ってる」

「いつから」

「見つけたのは、去年の冬」

「見つけたって」

「体育館の裏口から入っていくところ。おまえ、誰にも見られたくないくせに、靴を脱ぐ場所だけ毎回同じなんだよ。見つけてくださいって言ってるようなもんだろ」

透は笑った。僕は笑えなかった。

「じゃあ、ずっと知ってたのに、何も言わなかったの」

「言ったら、おまえが逃げるから」

「逃げた」

「うん。今日みたいに」

風が校舎の角を回り、汗で首に張りついた髪を揺らした。どこかで水を撒いたらしく、土の匂いがした。僕は膝を抱え直し、制服の布へ顔を伏せる。

「言えばよかっただろ」

「何を」

「演劇のこと。俳優になりたいとか、そういうの」

「それを俺が言ったら、おまえの言葉じゃなくなる」

透の返事は静かだった。

「おまえが自分で言うまで、俺が先に言うつもりはない。知ってることを、相手の口から奪うのは違うから」

その言葉を聞いて、胸の奥がかえって痛んだ。

透はいつも、僕の言葉を待っていた。待っているふりではなく、本当に待っていた。だから僕は、いつまでも言わずにいられた。透なら分かってくれると思った。分かってくれるから、言わなくても許されると思った。

それは信頼ではなく、甘えだったのかもしれない。

「……霧島先生に聞かれた」

「何を」

「本当に行きたい場所はあるのかって」

「あるって言った?」

「言えなかった」

「そっか」

「俳優になりたいって、言いかけた。でも、声に出したら、すごく薄くて。台本を持ってるときみたいに、何も出てこなくて……」

喉の奥がまた詰まった。僕は水筒を取り出したが、蓋を開ける指に力が入りすぎて、ねじ込み式の蓋がうまく回らない。透が手を伸ばしかけ、途中で止めた。

代わりに、足元へ置いた鞄から一枚の紙を取り出した。

何度も折られ、伸ばされた跡がある。端には、小学生の頃に使っていた色の剥げたキーホルダーが挟まっていた。

「これ」

透が差し出した。

僕は受け取った。紙は湿気を吸って、指の腹にやわらかく触れた。

開く。

子どもの字が二つ並んでいた。鉛筆の線は薄く、ところどころ擦れている。文章になっているのかも分からない。

高校に入っても。

一緒に。

何かを。

その下に、透の字で小さく書き足されていた。

――待つ。

たった二文字だった。

「これ、持ってたの」

「ずっと」

「何で今さら」

「今さらじゃない。おまえが今日、逃げたから出しただけ」

「僕が演劇を選んだら、約束を破ることになる」

「何で」

「高校に入っても一緒に何かをやるって言っただろ。僕が県外の専門学校へ行ったら、今みたいに帰り道を歩けない。文化祭が終わったら、僕はもっと先のことを考えなきゃいけない。演劇を選んだら、たぶん、今までと同じではいられない」

「同じじゃなくなったら、約束が破れるのか?」

透の声から、軽さが消えた。

「おまえは、何かを選ぶたびに、何かを捨てたことにするよな。大学へ行ったら演劇を捨てる。演劇を選んだら俺を捨てる。家を出たら家族を捨てる。そうやって、選ぶ前から全部を別れにする」

「だって、変わるだろ」

「変わるよ」

透は紙片を見つめたまま言った。

「変わることまで、なかったことにするなよ。俺たちが小学生のときに書いた“何か”は、同じ帰り道を永遠に歩くって意味じゃない。おまえが何かを選んだとき、それを言える相手でいるってことだったんじゃないのか」

「そんなの、後から都合よく言い換えてるだけだ」

「そうかもな」

透は否定しなかった。

「でも、子どもの頃の約束なんて、最初から都合よくしか残らないだろ。内容が曖昧だから、あとから何度でも考え直せる。おまえはその曖昧さを、ずっと自分を縛る鎖にしてる」

僕は紙を握った。紙の端が掌へ食い込み、細い痛みが走る。

「じゃあ、透はどう思ってるんだよ」

「何を」

「僕が演劇をやること」

透はすぐに答えなかった。

いつものように、答えの前に間を置く。けれど、僕の間とは違う。透の沈黙は逃げるためではなく、言葉を選ぶためにある。

「俺は、おまえが舞台に立ってるときの顔を知ってる」

「……」

「声の大きさとか、才能があるとか、そういう話じゃない。おまえは普段、誰かに嫌われないように、変に思われないように、言葉を出す前に相手の顔を見るだろ。でも舞台に立つと、先に言葉を置く。聞くかどうかを相手に返して、自分はそこに立ってる。あの顔をしてるおまえが、大学名を書くためだけに全部消えるのは、俺は嫌だ」

胸が詰まった。

「じゃあ、演劇へ行けって言えばいいだろ」

「言わない」

「何で」

「俺が言ったから行くなら、おまえはまた誰かのために選ぶことになる。母さんのためでも、先生のためでも、俺のためでもなく、おまえが決めろ。俺は賛成も反対もする。心配もする。たぶん、何か言い方を間違えておまえを傷つける。でも、その権利まで先に取るな」

透はそこで、ほんの少し目を伏せた。

「俺だって、言ってないことがある」

「……家のこと?」

「それもある。進路のこともある。おまえに言ったら、気を遣わせると思った。おまえはすぐ、他人の問題まで自分の責任にするから」

「透も、僕を守って黙ってたの」

「守ったつもりだった」

透は苦く笑った。

「でも、黙ってると、相手を守ってるのか、自分が傷つかないで済む場所にいるのか、分からなくなる。おまえの沈黙を待つことも、たぶん同じだった」

紙片の上の「待つ」という字が滲んだ。

夕暮れの光が弱まり、校舎の窓に蛍光灯が一つずつ灯っていく。白い光が、体育館裏の壁まで細く伸びてきた。僕たちの影が、コンクリートの上でゆっくり薄くなる。

「……待ってたの」

「うん」

「ずっと?」

「ずっとって言うと、重いだろ」

「重いよ」

「なら、重いままでいい」

透は紙を返せとは言わなかった。

僕の手の中に残したまま、壁から背を離した。

「今日は、これ持ってろ」

「僕が持ってていいの」

「おまえの約束でもあるんだから、半分だけ返す」

「半分?」

「紙は一枚だけど、約束は二人分だろ」

立ち上がろうとした。けれど、足がすぐには動かなかった。長くしゃがんでいたせいで、膝が痺れている。透は手を貸さなかった。貸さない代わりに、僕が立ち上がるまで先に行かずに待った。

僕は壁へ手をつき、ゆっくり腰を上げた。

体育館のほうから、またマイクが鳴った。今度はハウリングではなく、柚木先生の声だった。

「舞台袖、誰か見てくれ」

誰かが返事をする。部員たちの足音が重なり、床板を踏む音がこちらまで届いてくる。

「行く?」

透が聞いた。

「うん」

「逃げない?」

「……分からない」

「それ、今日は正直でいいな」

透は先に歩き出した。数歩進んだところで、いつものように振り返る。僕がついてくるのを確認してから、体育館へ向かう。

廊下へ戻る階段は、夕方の熱をまだ抱えていた。手すりに触れると、金属がぬるい。上へ進むにつれて、体育館の音が大きくなる。靴音、台本をめくる音、照明器具の金属音。僕はポケットの中の紙片を確かめた。

「待つ」。

たった二文字が、未送信のLINEより重い。

階段を上りきると、屋上へ続く扉の向こうに、駅前のバスターミナルが見えた。行き先表示がいくつも灯り、バスが入っては出ていく。どこへでも行けそうな光景なのに、僕の足はまだ校舎の中にある。

透が扉の前で足を止めた。

「屋上、寄る?」

「稽古は?」

「五分くらいなら、柚木先生は待つ」

「透がそう言うと、先生に怒られる気がする」

「怒られるなら、二人で怒られればいい」

透は扉を押し開けた。

湿った風が吹き込み、汗の残る肌を撫でた。僕たちは屋上へ出た。夕暮れの下で、バスターミナルの表示板が緑色に明滅している。発車するバスの赤い尾灯が、街の向こうへゆっくり遠ざかっていった。

僕はフェンス際まで歩き、ポケットの紙を取り出した。

「これ、返す」

「いらない」

「でも」

「今すぐ答えを出さなくていいって書いてあるだろ、それ」

「書いてない」

「俺にはそう見える」

透はフェンスに背を預け、風の向こうを見た。

「待つって、何もしないことじゃないからな。おまえが言うまで、俺は勝手に決めない。でも、おまえが言ったあと、聞かなかったことにもしない」

僕は紙を見つめた。

いつか、これを返す日が来るのだろうか。返すとしたら、約束を終わらせるためではなく、別の言葉を書き足すためかもしれない。

スマートフォンを取り出す。

透とのトーク画面を開く。未送信の下書きが残っている。

《俺、本当は大学に行きたいんじゃなくて、舞台に立ちたい。ずっとそうだった。でも、それを言ったら、たぶんおまえとの約束も変わる気がして、》

僕は続きを打とうとした。

《待っていてほしい》

入力する。

違う気がして消す。

《待たせて、ごめん》

それも消す。

《舞台に立ちたい》

そこまで打って、送信欄を閉じた。

透は僕の画面を見ていなかった。見ていないふりをしているのか、本当に見ていないのかは分からない。

「送らないの?」

「今日は、まだ」

「そっか」

透はそれ以上、何も言わなかった。

夕方の風が、校舎の屋上を抜けていく。遠くでバスの発車案内が鳴り、光る数字が一つ消えた。次の行き先が表示されるまで、ほんの短い空白がある。

僕はポケットの中で、紙片を折り直した。

白い欄は、まだ埋まっていない。

下書きも、まだ送っていない。

それでも、今日は何も書かれていないわけではなかった。透の字で記された二文字が、僕の指先に残っている。

待つ。

待たせる。

待っているあいだに、いつか自分の声で言う。

僕はスマートフォンを閉じ、透の隣で屋上の風を受けた。バスターミナルの光は、行き先を示しながら、まだどのバスにも僕を乗せてはいなかった。

← 横にスクロールして読み進められます