第6話 赤ペンの入った台本

体育館の扉を開けると、熱気がまとわりついてきた。
外の暑さとは違う。閉め切った空間に、何人もの身体と照明器具の熱が重なっている。床に敷かれた黒い布は汗と埃を吸い、少し湿った匂いを放っていた。古い扇風機が首を振るたび、ぬるい風が舞台袖の暗がりまで届く。遠くで誰かが発声をしていた。
「ま、み、む、め、も」
声が体育館の壁に当たって戻ってくる。
僕は入口で立ち止まった。
鞄の中には、霧島先生から返された進路調査票が入っている。第一志望欄はまだ白い。その白さを見ないように、クリアファイルごと教科書の間へ押し込んできた。けれど、歩くたびに紙の角が鞄の内側へ触れ、そのたびに指先まで熱が戻ってくる。
舞台の上では、照明係の部員が脚立に上っていた。仮設のライトが二つ、黒布の上に白い円を落としている。光の外側には、木枠やコードや段ボールの箱が雑然と重なっていた。完成にはほど遠い。なのに、舞台の中央だけは、そこに立つ人間を逃がさない場所に見えた。
「遅かったな、佐伯」
舞台袖の折りたたみ椅子に、柚木先生が座っていた。白髪の混じった髪が照明の端で銀色に光っている。膝の上には、何度も開かれた台本があった。赤ペンの跡と、先輩たちの書き込みと、僕が余白へ小さく書いた呼吸の印が重なっている。
「すみません」
「謝るほどではない。来たなら、こちらへ」
柚木先生は台本を閉じ、表紙の端を指で揃えた。紙の擦れる音が、体育館の喧騒の中でも妙にはっきり聞こえた。
「今日は、立って読む」
「立って、ですか」
「座って読むと、身体が言葉の責任から逃げる」
胸の奥が少し縮んだ。
「そんなつもりは……」
「つもりの話ではないよ。身体は、本人より正直だからね」
柚木先生は僕の返事を待たず、台本を差し出した。
受け取った紙は、体育館の湿気を吸って柔らかくなっていた。赤ペンで引かれた線がページの端から端へ走り、台詞の上には、声を落とす場所、息を置く場所、相手を見てから言う場所が細かく示されている。
進路調査票の空欄とは違う。
台本には、迷った跡が残っている。誰かが一度書き、消し、また書いた跡がある。言葉を置くために紙を傷つけた痕が、恥ではなく手がかりになっている。
「三十七ページ」
僕はページを開いた。
舞台の上では、次の場面の準備が進んでいた。机を一つ運ぶ音。照明のコードを引く音。誰かのスニーカーが床を擦る音。すべてが耳に入ってくるのに、台本を持った瞬間、音の遠近が変わった。
僕は一度だけ息を止めた。
「始めます」
最初の一行を読む。
声が、思ったより遠くへ届いた。
喉の奥がひらく。胸の浅いところで止まっていた呼吸が、背中まで落ちていく。日常の会話では、相手の表情を見てから語尾を選ぶ。嫌われないように、変に聞こえないように、途中で言葉を細くする。けれど台本の中では、言葉はすでに置かれている。僕はそれを、自分の身体で受け取って、前へ渡せばいい。
次の台詞が来る。
僕は相手役の部員を見た。
視線が合った。
その瞬間、言葉が遅れずに出た。
声に熱があった。強く出そうとしたわけではない。照明の熱で首筋に汗が流れ、シャツが背中に張りついている。口の中は乾いていた。それでも、声だけは妙に澄んでいた。
相手役の台詞を受け、僕が返す。
その呼吸が、身体の奥で噛み合った。
教室で透に返事をするときには、あれほど時間がかかるのに。進路指導室で「俳優になりたい」と言ったときには、言葉が床へ落ちていったのに。ここでは、誰かの台詞が僕の中へ入り、僕の言葉が相手の中へ向かっていく。
うまく演じているのかは分からない。
ただ、逃げずに立っていられた。
読み終わると、体育館の奥で誰かが小さく息を吐いた。柚木先生はすぐには何も言わなかった。台本を受け取るでもなく、僕の肩を見ている。
「先生、どうでしたか」
訊いてから、喉が少し震えた。
柚木先生は、僕ではなく舞台の中央を見た。
「今、何をしていた?」
「台詞を……読みました」
「それだけかね」
「役を、演じたつもりです」
「つもりではなく、何をした」
答えられなかった。
柚木先生は椅子から立ち上がった。背中を伸ばすと、年齢のわりに姿勢がまっすぐだった。疲れが消えたわけではない。右手を腰に当てる仕草には、長い一日の重さが残っている。それでも、舞台の上を見る目だけは若かった。
「君は、相手の台詞を待っていた。自分の台詞を言うためではなく、相手から受け取るために」
「それが、演技なんですか」
「その一部だよ。声を出すことなら、教室でもできる。大きな声を出せば、体育館の後ろまで届く。だが、届いた声が相手に何を残すかは、声量では決まらない」
柚木先生は、僕の手の中の台本を指した。
「君は、台詞を自分のものにしたあと、もう一度相手へ返した。そのときだけ、声に体温があった」
「体温……」
「自分で置いた言葉を、自分で受け取った顔をしていた」
赤ペンの跡が、照明の光を細く反射している。
僕はページの余白を見た。そこには以前、柚木先生が書いた短い言葉があった。
“急がず、逃げずに。”
いつ書かれたものか思い出せない。けれど、その二つの言葉は、今の僕に向けられているようだった。
「先生」
「うん」
「演劇を進路にする人って、最初から覚悟があるんですか」
口にすると、急に場違いな質問に思えた。周囲では、別の部員が小道具を並べている。誰かが照明の角度を確認し、舞台の上に細い影が伸びた。
柚木先生は、すぐに答えなかった。
「覚悟という言葉は、便利すぎる」
「便利……ですか」
「何かを諦めることを覚悟と呼ぶ人もいる。失敗しても平気な顔をすることを覚悟と呼ぶ人もいる。だが、本当に必要なのは、怖いまま続ける方法を探すことだ。怖くなくなるまで待っていたら、いつまでも始められない」
「でも、演劇だけで食べていけるかは分からない」
「分からないね」
あまりにあっさり言われて、僕は顔を上げた。
「先生は、そこを否定しないんですか」
「否定して何になる。舞台に立つ人間が皆、迷いなく生活できるわけではない。教師だって同じだ。私も若い頃、演劇を続けるか、別の仕事を選ぶかで迷った。結局、教壇に立った。だが、演劇を諦めたから教師になったわけではない。言葉を使う場所が、舞台から教室へ変わっただけだ」
「先生も、舞台に立ちたかったんですか」
「立ちたかった。立てなかった。立たなかった。どれが本当か、今でも時々分からなくなる」
柚木先生の声はかすれていた。けれど、そのかすれは弱さではなく、長い時間を通ってきた音に聞こえた。
「だから君に、舞台へ行けとは言わない。大学へ行けとも言わない。ただ、舞台に立つときの君を、進路の話をするときの君が、最初から無かったことにしないでほしい」
体育館の奥で、金属の棒が床に落ちた。からん、と乾いた音がした。
「役を演じることは、自分を偽ることじゃない。むしろ、普段なら言えないことを、自分の声で言えるようになるための稽古だ。君は今、その入口にいる」
言葉が胸の奥へ沈んでいく。
僕は進路調査票の空欄を思い出した。白い欄に触れようとすると呼吸が遅れる。何を書いても、自分ではない誰かを安心させるための文字になる気がする。
けれど、この台本には赤い線がある。言葉を削った跡も、残した跡もある。誰かが迷いながら、それでも次の一行へ進んだ証拠だった。
「もう一度、同じところを」
柚木先生が言った。
「今度は、台詞のあとに残るものを見てみよう」
僕は台本を開き直した。
舞台袖の狭い空間に、照明の熱がこもっている。汗がこめかみから頬へ流れ、顎の先で止まった。僕は手の甲で拭わなかった。台本を持つ指を離したくなかった。
最初の一行を読む。
今度は、さっきより低くなった。
相手役の目が動く。
その動きを受けて、次の言葉を置く。
間が生まれた。沈黙が、台詞と台詞のあいだに細く伸びる。その沈黙を埋めようとせず、僕は待った。待ったあとで、言葉を出した。
声が客席の暗がりへ滑っていく。
何もない場所へ投げたはずなのに、暗がりの向こうから、誰かが受け取った気配がした。

読み終えたあと、柚木先生は小さくうなずいた。
「今のほうがいい」
「どこがですか」
「自分を見せようとしなかった」
「……」
「声が届く人間は、自分の声を聞かせたい人間ではない。相手に届く場所を探せる人間だ。君は今、相手のいるところへ言葉を置いた」
それは演技の話のはずなのに、僕には進路の話にも聞こえた。
僕はこれまで、家族が安心する場所、先生が納得する場所、透が困らない場所ばかり探していた。自分がどこへ行きたいのかではなく、誰かが受け取りやすい言葉を選んでいた。
そのことが、急に恥ずかしくなった。
「先生。僕は、舞台に立ちたいです」
今度は台本を見たままではなかった。
柚木先生の顔を見て言った。声は大きくない。けれど、途中で消えなかった。
「俳優になれるかは、分かりません。どこへ行けばいいのかも、まだ調べている途中です。でも、舞台に立ちたいと思っていることだけは、本当です」
体育館の音が、少し遠のいた。
柚木先生はすぐに頷かなかった。赤ペンを台本の上へ置き、僕の言葉が落ち着くのを待っているようだった。
「それを、進路調査票にも書けるかね」
喉の奥が詰まった。
「……分かりません」
「そうか」
「怖いです。書いたら、家族にも学校にも、もう隠せなくなる。演劇を選んで失敗したら、最初から無理だったって思われる。僕自身も、そう思うかもしれない」
「失敗しないために、書かないのか」
「失敗したことにしないために、書かないんだと思います」
柚木先生は、台本の赤い線を指でなぞった。
「それでは、成功したことにもならないね」
胸の奥で、固いものが崩れた。
「舞台には、立たなかった役の記録は残らない。立って失敗した芝居なら、次に直せる。立たなかった理由は、いつまでも直せない」
言葉は静かだった。声を荒げていないのに、舞台の奥まで届いた。
「進路も同じだよ。書いたから決まるわけではない。だが、書かなければ、自分がどこへ向いているのか、誰にも、自分にも見えない」
柚木先生は台本を閉じた。
「赤ペンを入れるのは、間違いを笑うためではない。届く形へ近づけるためだ。君の言葉も、書いてから直せばいい。最初から完璧な一行などない」
僕は進路調査票の入った鞄へ目を向けた。
白い欄は、まだそこにある。
けれど今は、白いまま僕を責めているのではなく、赤ペンの入った台本のように、次の言葉を待っているように思えた。
柚木先生が、体育館の奥へ目を向ける。
「来月の文化祭、ひまわりホールで通し稽古をする。客席は学校の体育館より暗い。舞台袖は狭い。照明も古い。客の顔はほとんど見えない」
「はい」
「それでも、声は届く」
その一言で、身体の奥がわずかにひらいた。
「君を主演候補に入れる」
僕は息を止めた。
「僕が、ですか」
「他に誰がいる」
「でも、進路のこともあって……」
「だからだよ」
柚木先生は、少しだけ目を細めた。
「舞台の上で言える言葉を、舞台の外でも持つ。その練習を、文化祭までに始めなさい」
返事をしようとした。
けれど、すぐには声にならなかった。真正面から期待を渡されると、僕はいつも言葉を失う。代わりに、台本を胸の前で握りしめた。紙の端が掌へ食い込み、汗でページが少し波打つ。
柚木先生はそれを見て、何も言わなかった。
舞台の上では、別の部員が照明の確認を始めていた。白い光が一度消え、次に青く灯る。黒布の上に、夜のような色が広がった。
僕はその光の中へ一歩出た。
床板が、かすかに鳴る。
客席にはまだ誰もいない。暗がりの向こうにあるのは、積み上げられた椅子と、体育館の壁と、消えかけた窓の明かりだけだ。それでも、僕はそこへ向かって台本を開いた。
最初の一行を読む。
声が出る。
喉がひらく。
呼吸が揃う。
汗で張りついたシャツの背中に、照明の熱が重なった。身体の内側から何かがほどけ、声が自分の外へ出ていく。舞台袖にいる柚木先生の姿は、もう見なかった。
僕は台本の先にいる誰かへ、言葉を渡した。
読み終えると、体育館の暗がりから、透の声がした。
「……それ、普段も出せばいいのに」
いつからいたのか分からなかった。舞台袖の柱にもたれ、片手をポケットへ入れている。軽口の形をしているのに、目だけは真剣だった。
「聞いてたの」
「聞こえた。廊下まで」
「勝手に入るなよ」
「顧問に入っていいって言われた」
透はそう言って、僕の手元を見た。台本の赤い書き込み、汗で波打ったページ、握りしめた指。
「主演候補だって?」
「……うん」
「そっか」
透は笑った。けれど、すぐには何も続けなかった。
「何か言ってよ」
「何を?」
「おめでとう、とか。すごい、とか」
「そういうの、言われると困るんだろ」
僕は返せなかった。
透は舞台の端まで歩いてきた。照明の外に立ったまま、僕を見上げる。
「でも、今のはよかった」
「それも困る」
「じゃあ、困ってろ。俺は本当にそう思ったから言う」
透の声には、からかいがなかった。
「舞台の上のおまえは、誰かに許可を取らない。言うことを決めて、そこに立って、相手が聞くかどうかを待ってる。なのに、舞台を降りると、何もかも先に諦めた顔をする」
「……舞台の上だからできるんだよ」
「じゃあ、舞台の外を少しずつ舞台にすればいい」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない。でも、舞台の上でできるなら、最初からできないわけじゃないだろ」
透はそこで言葉を止めた。
無理に励まさない。僕が真正面から褒められると、かえって身動きが取れなくなることを知っている。だから、できるとも、頑張れとも言わない。ただ、僕が今立っている場所を見ている。
「進路調査票、まだ白い?」
「……うん」
「そっか」
透はポケットから、折れた紙片を取り出した。けれど、今日はそれを開かなかった。指先で紙の角だけを撫でている。
「白いなら、まだ書けるな」
その言葉は軽かった。
なのに、舞台の照明より長く、僕の中に残った。
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