第5話 霧島玲子の机の上

進路指導室へ呼ばれたのは、三時間目と四時間目のあいだだった。

教室の前の扉から、女子生徒が顔だけを覗かせた。

「佐伯くん、霧島先生が呼んでる」

その声を聞いた瞬間、僕の右手が机の下へ落ちた。親指の付け根を爪で押す。乾いた痛みが、皮膚の下に細い線を引いた。

「今?」

「今すぐだって」

周囲の何人かが、こちらを見た。視線はすぐに散ったけれど、いったん集まった熱は、肌の上に残る。僕は鞄から進路調査票を取り出し、クリアファイルの奥へ押し込んだ。

第一志望欄は、まだ白い。

昨日の夕方から一晩あったのに、何も書けなかった。家へ帰ってからも、机の上に紙を置いたまま、鉛筆を持っては離した。母が台所で皿を洗う音が聞こえ、父が帰ってきて靴を揃える音が聞こえた。そのたび、書きかけの紙を教科書の下へ隠した。

隠したところで、白い欄は消えない。

廊下へ出ると、窓から夏の光が流れ込んできた。体育館のほうから、笛の音と、誰かの掛け声が響いている。

「一、二、三、四!」

声は揃っているのに、僕の足音だけが遅れていた。

職員室の前を通る。青い提出箱が、壁際の机に置かれていた。中には何十枚もの紙が重なっている。誰かが提出するたび、紙が箱の底へ落ちる乾いた音がする。その音を聞かないように、僕は視線を床へ落とした。

進路指導室の扉を開ける。

冷気が、シャツの隙間から入ってきた。廊下の熱を背中に貼りつけたまま来たせいで、冷房の風は薄い刃のようだった。皮膚が粟立つ。紙と古い木と、少し渋い茶の匂いが混ざっている。

霧島玲子は机の向こうに座っていた。

眼鏡を外し、僕の進路調査票を両手で持っている。机の上には模試の成績表、評定平均、推薦条件の一覧、大学案内の冊子が並んでいた。どれも端が揃っている。赤ペンと青ペンは、机の縁と平行に置かれていた。

その整然とした机の上で、僕の調査票だけが歪んでいる。

第一志望欄の周囲には、鉛筆の跡と消しゴムの擦れが残っていた。紙の表面が毛羽立ち、何度も触れた指の油で、そこだけわずかに光っている。

「座りなさい」

玲子先生は、僕の顔ではなく椅子を見た。

僕は椅子を引いた。脚が床を擦り、冷えた部屋に乾いた音が残る。座ると、背中が少し丸くなった。丸くなったことに気づき、背筋を伸ばす。今度はその動作が不自然に思えて、また肩に力が入った。

「この欄だけ、何度も書き直したでしょう」

「……はい」

「その割に、まだ埋まっていない」

玲子先生は紙から目を上げなかった。

「書こうとした大学名は三つ。県内の国立、駅から通える私立、推薦条件に届く県外の大学。いずれも成績上は妥当です。通学費や下宿費も、極端に現実離れしているわけではない」

僕は喉に残った水の味を飲み込んだ。

「よく調べているじゃないですか」

「調べたのはあなたでしょう」

「……そうです」

「では、なぜ書かないのですか」

窓の外で、グラウンドからホイッスルが鳴った。僕の耳には、室内の扇風機の音のほうが大きく聞こえた。首を左右に振る羽根が、一定の速度で空気を切っている。

「まだ、決めていなくて」

「その言葉を便利に使わないこと」

声は低く、短かった。

「本当に何も決まっていない生徒と、決まっているのに書けない生徒は違います。あなたは後者です」

僕は親指の付け根を爪で押した。

「先生は、僕が何を考えているか分かるんですか」

「分かりません」

玲子先生は即答した。

「分からないから聞いています。教師が生徒の内面を勝手に分かったつもりになるのは、指導ではなく手抜きです。私はあなたの代わりに答えを出すつもりはありません」

その言葉には、思っていたより逃げ道があった。けれど、逃げ道があることは、逃げていいという意味ではなかった。

「本当に行きたい場所を書きなさい」

「行きたい場所が、大学じゃない場合は」

口から出た。

言った瞬間、扇風機の羽根が一度止まったように感じた。実際には回り続けている。冷房の風も、紙の匂いも変わっていない。ただ、僕が自分の声を聞いてしまったせいで、部屋の輪郭が少しずれた。

玲子先生は眼鏡を机へ置いた。

「続けなさい」

「大学じゃない場所を書いても、調査票の意味がないと思います」

「意味がないのではなく、学校が用意した欄に収まらないだけです。欄に収まらないものを、なかったことにする必要はありません」

「でも、僕は高校三年で、周りは大学名を書いていて、学校もそれを前提にしていて……」

「周りの話は聞いていません」

玲子先生の指が、机の端を軽く叩いた。

「あなたの話をしています。進路調査票は、未来を完全に決める契約書ではない。今の時点で、あなたが何を考えているかを学校が把握するための書類です。変更もできる。書き直しもできる。だからこそ、誰かを安心させるためだけの名前を書く必要はありません」

「でも、嘘を書くつもりはありません」

「嘘でないなら、あなたはその大学へ行きたいのですか」

答えが出なかった。

行きたくないわけではない。大学という場所を嫌っているわけでもない。授業を受けることも、知らない町へ行くことも、別の人間関係を作ることも、想像すれば少しは心が動く。

ただ、その大学名の中に、舞台へ向かう自分の姿がなかった。

名前だけを紙に置けば、僕の中から演劇の部分だけが切り取られる気がした。

「……分かりません」

「分からないのか、言いたくないのか、どちらですか」

玲子先生は、僕が逃げる時間を与えるように黙った。沈黙は長かった。長いのに、圧力で押しつぶすものではない。僕が自分で言葉を選ぶまで、机の上に置かれている。

「言いたくない、です」

声は低く、かすれていた。

「誰に」

「家族に。学校に。透に……」

「三枝君にも?」

心臓が跳ねた。

「透には、知られていると思います」

「何を」

「僕が、演劇をやっていること」

「それだけですか」

僕は答えなかった。

玲子先生は、机の上の進路調査票を裏返した。白い欄が見えなくなる。見えなくなったのに、そこにあることは前よりはっきりした。

「演劇を進路にしたいのですか」

僕は安全な大学名を口にしかけた。

県内の、普通の大学。

その言葉は舌の上まで出てきていた。言ってしまえば、面談は終わる。玲子先生は候補を整理し、僕は頷き、紙にその名前を書く。帰り道で透に聞かれても、「大学にする」と答えればいい。

喉が動いた。

けれど、声にならなかった。

代わりに、別の言葉が出た。

「俳優になりたいです」

小さかった。

自分で言ったのに、誰か別の人間の声を聞いているみたいだった。台本を手にしたときのように身体の奥から響くこともなく、机と冷房の音に押されて、床へ落ちていく。

玲子先生は驚かなかった。

「続けてください」

「……演劇をやりたいです。舞台に立ちたい。できれば、俳優になりたい」

「できれば、というのは?」

僕は唇を噛んだ。

「なれたらいいと思っています」

「願望ですね」

「はい」

「では、進路ではない」

胸の奥が、鋭く痛んだ。

「夢だって、最初は願望じゃないですか」

「最初はそうです。ですが、願望を言葉にしたあと、調べ、選び、費用を計算し、失敗した場合の暮らしまで考える。そこまで進めて、ようやく進路の候補になります」

「全部できていません」

「十七歳で全部できている生徒はいません」

玲子先生は赤ペンを指先で転がした。

「しかし、できていないことを理由に、最初から存在しないことにする必要もない。あなたは演劇を軽い憧れとして扱われるのが嫌なのでしょう」

返事ができなかった。

「だったら、自分で軽く扱わないことです。俳優になりたい、と言うだけなら誰でもできます。どこで学ぶのか。劇団へ入るのか。専門学校へ行くのか。大学で演劇を学ぶのか。費用はどうするのか。生活費をどう確保するのか。演劇を続けながら、何を仕事にするのか。分からないなら調べる。調べたうえで、まだ分からないなら、分からないと書く。それが言葉に責任を持つということです」

責められているのに、胸の奥の別の場所が熱くなった。

演劇を、「好きなだけのもの」として片づけられなかった。

「夢を書くなら、夢を守る覚悟も書きなさい」

玲子先生はそう言って、赤ペンのキャップを外した。

「逆に、覚悟を持てないなら、まだ迷っていると書けばいい。空欄は、迷っていることの説明にはなりません。空欄は、他人に意味を任せる記号です」

赤ペンの先が、調査票の余白へ近づく。

僕は反射的に手を伸ばした。

「書かないでください」

「なぜですか」

「僕の代わりに書かれると、また自分の言葉じゃなくなるから」

言ったあと、部屋が静かになった。

玲子先生の手が止まる。赤ペンの先端は紙に触れていない。僕の手だけが、机の上で進路調査票を押さえている。指先が熱く、紙の湿り気が掌へ移ってきた。

「その程度には、自分の言葉を守る気がある」

「……」

「なら、守るために書きなさい」

玲子先生は赤ペンを机へ戻した。

「本音を言うことと、誰かを裏切ることは同じではありません」

その言葉を聞いたとき、透の顔が浮かんだ。夕方の教室で、炭酸の缶を机の上で回していた顔。僕の下書きを見てしまったあと、何も聞かずにスマートフォンを伏せた顔。

「ただし、本音を言ったあとに生じる責任から逃げれば、裏切りになることはあります」

「責任……」

「家族が心配する。友人が戸惑う。教師が別の道を勧める。あなたが舞台を選んだことで、周囲の予定や期待が変わる。それを全部、誰かが受け止めてくれると思ってはいけない。自分で説明し、自分で調べ、自分で選び続けることです」

冷房が効きすぎているはずなのに、背中に汗が流れた。

「選び続ける、って……一回書いたら終わりじゃないんですか」

「進路は、紙に名前を書いた瞬間に終わるものではありません。むしろ、そこから始まる」

玲子先生は、僕の調査票をこちらへ返した。

「今日の時点で、第一志望を決めきれないなら、決めきれないままの自分を正確に書きなさい。演劇に進みたい気持ちがある。必要な情報を集め、家族と話す。それでも決められない。そう書けばいい」

「そんな書き方で、先生は納得するんですか」

「私を納得させる必要はありません」

眼鏡をかけ直し、玲子先生は僕を見た。

「あなたが、あとで自分の紙を見返したときに、誰かのために書いたのではないと言えるかどうかです」

白い欄が、机の上でこちらを向いていた。

さっきまでそれは穴だった。何も書けない自分の証拠だった。けれど今は、書く内容を決める前の余白に見える。空白のままでも、僕がそこから目を逸らさなければ、まだ何かを置くことができる。

「先生」

「何ですか」

「僕が演劇を選んだら、学校の実績には……」

「あなた一人の進路を、学校の実績のために決めるつもりはありません」

初めて、玲子先生の声の底にわずかな硬さが混じった。

「進学校である以上、現実的な選択肢を示すことは私の仕事です。けれど、現実的という言葉を、学校にとって都合がいいという意味にすり替えるつもりはない。夢を勧めることもしない。夢をやめさせることもしない。あなたが選んだものを、あなたが持ちこたえられる形にする。そのために、情報と条件を出します」

「持ちこたえられる形……」

「舞台は、気持ちだけで立ち続けられる場所ではありません。だからといって、気持ちを捨てれば立てる場所でもない。両方を持っていく方法を考えなさい」

その言葉は、柚木先生の声に少し似ていた。

舞台は逃げ道ではない。けれど、現実から逃げるためだけに立つ場所でもない。

僕はようやく、机の上の調査票を自分の手で引き寄せた。

「今日中に、書き直します」

「大学名を?」

「……まだ分かりません」

「では」

玲子先生は、志望理由書の用紙を一枚こちらへ滑らせた。

「分からないことを、分からないまま放置しない文章を」

紙が机の上を滑る。赤ペンで線を引かれた箇所は少ない。けれど、余白が広い。僕の言葉を待つための空白に見えた。

僕は紙を受け取った。

指先に、冷えた紙の感触が触れる。調査票は冷たい部屋の中で、僕の体温を吸い込んでいるようだった。

「佐伯」

扉へ向かいかけた僕を、玲子先生が呼び止めた。

「はい」

「夢を夢のままにしておくのは自由です。誰にも責められない。ですが、夢を選択肢にするなら、言葉にしなさい」

僕は振り返った。

玲子先生は、もう別の書類へ目を落としている。赤ペンを握った指先が、紙の余白を測るように止まっていた。冷たい人に見えるのに、その手は、空欄を埋めるためではなく、僕が自分で書き始めるのを待っているようだった。

「……ありがとうございました」

声に出してから、少し驚いた。

僕が面談の終わりに、こんなふうに自分から礼を言うことはほとんどなかった。玲子先生は顔を上げず、短く返した。

「礼は、書いてからでいい」

扉を開ける。

廊下の熱気が一気に身体へまとわりついた。冷えていた喉が乾き、シャツの背中に汗が戻ってくる。遠くの体育館から、マイクのハウリングが響いた。

きいん、と高い音が校舎の壁を震わせる。

僕は足を止めた。

進路調査票の第一志望欄は、まだ白い。けれど、その白さを、もうただの空欄とは呼べなかった。

白いままなのではない。

僕がまだ、最初の一画を置いていないだけだった。

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