第4話 帰り道の、言い直し

進路指導室を出てから、僕は階段を一段飛ばしで下りた。
急いでいるつもりはなかった。けれど、足が勝手に先へ出た。踊り場を曲がるたび、靴底が古い床を叩く。窓から差し込む夏の光が、階段の手すりに細長く貼りついていた。そこを横切るたび、僕の影も伸びたり縮んだりする。
廊下へ出ると、体育館のほうからマイクのハウリングが聞こえた。
きいん、と耳の奥を細い針で引っかかれるような音がして、そのあとに誰かの声が重なる。
「そこ、もう一度。照明が遅れてる」
柚木先生の声だった。
僕は足を止めた。
体育館の扉は半分開いている。隙間から、黒い布と仮設舞台の端が見えた。照明器具の熱で、床に溜まった空気が揺れている。舞台の上では、部員の誰かが台詞を読んでいた。
名前のない役の声が、体育館の広さに押し返され、少し遅れて僕のところまで届く。
その声を聞いていると、さっき霧島先生の前で口にした言葉が戻ってきた。
俳優。
演劇。
声に出してしまった。なのに、自分の言葉ではないみたいだった。口から落ちたあと、床に転がって、誰かに拾われるのを待っているようだった。
「佐伯」
背後から呼ばれて、肩が跳ねた。
振り返ると、透が廊下の端に立っていた。片手を鞄のポケットへ入れ、もう片方の手には、飲みかけのペットボトルがある。僕を待っていたのか、たまたま通りかかったのか、表情だけでは分からない。
「何してるの」
「それ、こっちの台詞。進路室から出てきた顔じゃないだろ」
「どんな顔だよ」
「返事を考える前に三秒くらい逃げてる顔」
透は笑った。けれど、目が僕の肩越しに体育館の扉へ動いた。僕が何を聞いていたのか、もう分かっているらしい。
「稽古、見ていく?」
「……今日はいい」
「そう」
透はそれ以上誘わなかった。僕の隣を通り過ぎ、体育館の扉を閉めるでもなく、開けるでもなく、そのまま廊下の先へ歩き出す。僕は少し遅れてついていった。
放課後の校舎は、昼の熱を壁の内側に閉じ込めていた。窓は開いているのに風がない。廊下の蛍光灯だけが先に点き、まだ明るい外との境目で白く浮いている。遠くの教室から、机を引く音がした。誰かが笑い、すぐに扉が閉まる。
透は階段を下りながら、売店のパンについて話し始めた。
「今日の焼きそばパン、昨日より麺が少なかったと思わない?」
「昨日も食べたの」
「食べた。昨日は麺が多かった」
「誤差だろ」
「誤差で済ませるから、世の中から焼きそばパンの尊厳が失われるんだよ」
「尊厳って」
「食べ物にもあるだろ。たぶん」
僕は返事をしながら、階段の手すりを見ていた。銀色の塗装がところどころ剥げ、下の黒い鉄が覗いている。僕の言葉も、あんなふうに上塗りを重ねてきたのかもしれない。大学へ行く。安全なところへ行く。潰しが利くようにする。何度も塗り直して、元の色が何だったのか分からなくなっている。
昇降口で靴を履き替えた。
外へ出た瞬間、湿った熱気が顔にまとわりついた。校舎の中にいたあいだに冷えていた腕が、じわじわ汗ばんでいく。アスファルトから立ち上る匂いに、校庭の土と、部活動で使ったゴムのマットの匂いが混ざっていた。
透は僕より少し先を歩いた。
いつもそうだ。先に歩くくせに、角を曲がるときには必ず振り返る。僕がついてきているかを確かめるような、確かめていないような目をする。
校門を出て、駅前へ向かう坂道に入った。
日中の熱を吸った道路は、靴底からじわじわ体温を奪うどころか、逆に押し返してくる。坂の両側に植えられた街路樹は葉を広げているのに、影は薄かった。夕方の風が吹くたび、乾きかけた葉が擦れ合い、細い紙を何枚もめくるような音を立てる。
「そんなに慎重に歩いたら、転ぶ前に老けるぞ」
透が振り返らずに言った。
「別に、そんなつもりじゃない」
僕は少し遅れて答えた。
言葉が出るまで、また一拍あった。
透の歩幅が緩む。
「じゃあ、どんなつもりなんだよ」
責める声ではない。だから、余計に困った。
僕は路肩の雑草へ視線を落とした。熱で葉先がしなびている。誰かに踏まれた茎が、折れたまま土へ沿って伸びていた。それでも先端だけには小さな緑が残っている。
「進路のことを考えてただけ」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、聞くなよ」
「聞かなかったら、おまえはずっと考えてるふりをするだろ」
「考えてるふりじゃない」
「そうだな。考えてる。考えすぎて、何も言えなくなってる」
透はそこで足を止めた。
坂道の途中だった。下のほうを路線バスが走り、窓ガラスに夕日が一瞬だけ反射する。車内には、制服姿の高校生や買い物袋を抱えた人が見えた。誰もこちらを見ていない。バスは坂の下へ消え、エンジンの音だけが遅れて残った。
「霧島先生、何か言った?」
「別に」
「その“別に”は、今日何回目?」
「数えてるの」
「おまえの返事は、数えたくなる種類なんだよ」
透は笑った。僕は笑えなかった。喉の奥に、進路指導室の冷たい空気がまだ残っている。
「本当に、別に大したことは言われてない」
「ふうん」
「大学の候補を見せられて、志望理由をちゃんと書けって。それだけ」
「それだけで、その顔になる?」
僕は返事をしなかった。
透の視線がこちらへ向いた。目を合わせたくなかったが、逃げる先もなかった。僕が嘘をつくとき、相手の目を見ずに窓や道路の端を見ることを、透は知っている。学校にいるあいだなら、窓があった。坂道には、路肩と空しかない。
「……演劇のことを、少し聞かれた」
言ったあと、胸の奥が縮んだ。
透の顔から笑いが消えた。けれど、驚いた顔はしなかった。ずっと前から知っていることを、僕がようやく別の場所へ運んできたのを見ているようだった。
「そっか」
「それだけ」
「それだけじゃないだろ」
「先生が、舞台に立つときはよく話せるって」
「見てたんだな」
「見られてたみたい」
「柚木先生?」
「霧島先生も」
透は道路の先を見た。駅前のビルの向こうに、バスターミナルの行き先表示が見え始めている。夕方の光を受けて、まだ文字は読めない。けれど、何本もの線がそこから伸び、どこかへ向かっていることだけは分かった。
「で、何て答えたの」
「何も」
「何も?」
「俳優になりたいとか、演劇をやりたいとか、言葉にはしたけど……そういう名前を出しただけ。答えたわけじゃない」
「名前を出したなら、一歩じゃん」
「一歩じゃない。口から落ちただけだよ」
「落ちたなら、拾えばいいだろ」
「簡単に言うなよ」
声が少し大きくなった。
坂道の下から、自転車のベルが鳴った。僕たちは端へ寄った。自転車に乗った中年の男が、こちらを見ないまま通り過ぎる。風が起きて、汗で張りついたシャツの背中を撫でた。
「簡単じゃないから言ってる」
透は自販機の前まで歩いた。古い機械の照明が、まだ明るい空の下で不自然に浮いている。彼は小銭を取り出し、二本の炭酸飲料を買った。缶が落ちる音が、機械の内部で何度も跳ね返る。
「ほら」
一本が僕の手に押しつけられた。
冷たい。缶の表面に浮いた水滴が、掌の熱で細く流れる。
「また炭酸」
「水はおまえが持ってるだろ」
「飲めるか分からない」
「進路よりは決めやすい」
僕はキャップをひねった。炭酸の泡が喉を細かく刺す。冷たいのに痛くて、痛いのに目が覚めた。
「安全にやるしかないんだよ」
自分でも、言い訳だと分かっていた。
透は缶を口元に当てたまま、飲まずに僕を見た。
「安全、ね」
「母さんが望んでるし。父さんも、たぶんそのほうがいいと思ってる。学校だって、大学へ行く前提で話してくる。僕だけ好きなことを言って、みんなに心配させるわけにはいかないだろ」
「みんなって、誰」
「家族とか、先生とか」
「俺は?」
「……透は関係ない」
「関係ないことにしたい、の間違いじゃなくて?」
言葉が止まった。
透は缶を持ったまま、少しだけ首を傾けた。
「おまえの“安全”って、たいてい誰かに見せるためのやつだろ。家族が安心するように。先生が納得するように。俺が変な顔をしないように」
「透は変な顔しないだろ」
「そこじゃない」
初めて、透の声から軽さが抜けた。
「俺が何を思うかを、勝手に決めてるって話。おまえが演劇やりたいって言ったら、俺が困ると思ってる。約束を破られたみたいに感じると思ってる。だから言わない。そうやって俺の分まで答えを作って、何も渡してこない」
「そんなつもりじゃない」
「その言葉も、もう聞き飽きた」
透は怒鳴らなかった。声を荒げないぶん、言葉がそのまま胸へ入ってくる。
「おまえはいつも、誰かを傷つけないために黙る。でも、黙ったまま相手の気持ちまで決めるのは、優しさじゃない。俺が何を思うか、何を言うか、選ぶ権利まで取るなよ」
僕は缶を握りしめた。アルミがわずかにへこむ。
「だって、言ったら壊れるだろ」
「何が」
「約束が」
声にした瞬間、胸の奥に押し込んでいたものが、ひどく古い形のまま出てきた。
「小学校のとき、高校に入っても一緒に何かやろうって言った。僕だけ別のことを選んだら、あれをなかったことにするみたいで……透が、ずっと同じ場所にいると思ってるわけじゃない。でも、僕が舞台に行くって言ったら、そこから先は、たぶん一緒にいられない」
「なんで?」
「だって、そうだろ。演劇の学校なんて県外かもしれないし、金もかかるし、今までみたいに帰り道を歩けない。文化祭が終わったら、僕はもっと先のことを考えなきゃいけない。そうなったら、あの約束は……」
「約束は、どこへ行くんだよ」
透が言った。
「進路が変わったら消えるような約束なら、最初からそんなに大事じゃなかっただろ」
「でも、僕は」
「おまえは、何かを選ぶたびに、何かを捨てたことにしたがる」
言い返せなかった。
透は一度、視線を下げた。片手をポケットに入れる。その仕草は、話を終わらせるときのものだった。でも、今日はすぐに歩き出さなかった。
「俺だって、言ってないことはある」
「……」
「家のこととか、進路のこととか。おまえに話したら、たぶん気を遣わせる。おまえはそういうの、すぐ自分の責任みたいに背負うから。だから言わなかった」
透は缶を見つめた。炭酸の泡が、透明な液体の中を上っている。
「でも、言わないでいると、相手を守ってる気になるんだよな。実際は、ただ自分が傷つかない場所にいるだけなのに」
その言葉は、僕にも向けられているようだったし、透自身にも向けられているようだった。
「透も、何かあるの」
「ある。でも今は、おまえの話をしてる」
「ずるい」
「何が」
「僕には言えって言うのに、自分は言わない」
「言えって言ってない。言わないなら、言わない責任を持てって言ってる」
「同じだろ」
「違う。言葉は渡すものだから。引きずり出すものじゃない」
透はそこで黙った。
夕方の風が坂を上ってきた。生ぬるい風だったが、汗ばんだ首筋には少しだけ気持ちよかった。遠くでバスの停車案内が鳴る。機械の女性の声が、街の雑音に混ざって途切れる。
僕は缶の飲み口を指でなぞった。
「……俺、本当は」
言いかけた。
透は口を挟まなかった。
言葉が出てこない。喉の奥まで上がってきているのに、そこから先へ動かない。僕は視線を外し、駅前の表示板を見た。行き先の文字が一つずつ明るくなっていく。出発時刻を過ぎたバスの表示が消え、次の便の数字が点滅している。
「本当は、舞台に立ちたい」
言った。
声は小さかった。けれど、さっき霧島先生の前で言ったときより、自分の喉に近かった。
「俳優になりたいって、思ってる」
透は何も言わない。
沈黙が長く続いた。僕はその長さに耐えられなくなり、言葉を足した。
「でも、なれるかは分からない。才能があるとも思わない。家族がどう思うかも分からない。進学するより、たぶんずっと不安定で、うまくいかなかったら、僕は何も残らない。だから、大学へ行くって言っておけば、少なくとも誰も困らないし、僕も途中で考え直せる。演劇をやりたいって書かなければ、失敗したことにもならない」
言葉が止まらなくなった。
「それに、透との約束を壊したくない。僕が勝手に別の道へ行って、あとから仕方なかったみたいな顔をするのが嫌なんだ。だから言えなかった。言わないほうが、まだ同じ場所にいられる気がした」
口の中が乾いた。炭酸の甘さが舌に残り、飲み込んでも消えない。
透はしばらく、駅前の表示板を見ていた。
「それで、今まで俺に何を話してた?」
「……何って」
「大学の話。模試の話。潰しが利くとか、安全だとか。あれ、全部嘘だったのか」
「嘘じゃない。嘘じゃないけど、本当でもない」
「それが一番困るんだよ」
透は笑わなかった。
「おまえが大学に行きたくないなら、俺は大学へ行けとも、演劇へ行けとも言わない。でも、何も言わずに隣にいることだけは、友情みたいに扱うな。俺は、おまえが何を選ぶかを決められない。決められないけど、聞くことはできる。心配もできる。反対もできる。応援できない日だってあるかもしれない。それを全部、俺から先に奪うな」
胸の奥が痛んだ。
僕は、透に理解してほしかった。反対しないでほしかった。驚かないでほしかった。僕が夢を口にした瞬間に、昔の約束も、今までの帰り道も、何も変わらないと言ってほしかった。
でも、それは透に気持ちを渡すことではない。透の返事を最初から決めて、都合のいい形で受け取りたいだけだった。
「……ごめん」
ようやく出た言葉は、簡単すぎた。
透はすぐには返さなかった。
「謝るのも、ちょっと違う」
「じゃあ、どうすればいい」
「知らないよ」
透は肩をすくめた。けれど、その声には投げ出した感じがなかった。
「知らないから、これから話せばいいだろ。今日で全部片づけろなんて言ってない。おまえはすぐ、一回の会話で結論まで出そうとするから疲れるんだよ」
「結論を出さないと、また逃げる」
「じゃあ、逃げたら戻せばいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。だから、戻る場所くらい作っとけって言ってる」
透は空になった缶を近くのゴミ箱へ入れた。今度は一度で入った。軽い音がして、缶がほかの空き缶にぶつかる。
僕は手の中の缶を見た。まだ半分以上残っている。飲み口から立ち上った泡が消え、表面に小さな水滴だけが残っていた。
「帰る?」
透が言った。
「うん」
僕たちは坂道を下り始めた。
さっきまで、透の歩幅に合わせることばかり考えていた。今度は僕が一度、歩く速度を上げた。台詞を覚えるときのように、足が少し速くなる。透が隣に並び直す。
「速い」
「別に」
「それ、今は本当に別に?」
僕は少しだけ考えてから、言い直した。
「……帰りたいだけ」
「どこへ?」
透の問いに、僕はすぐ答えられなかった。
坂の下には、駅前のバスターミナルがある。いくつもの行き先表示が灯り、バスが入っては出ていく。どの車両も誰かを乗せて、どこかへ向かっている。けれど僕は、まだそのどれにも乗らない。
「家に」
まずは、それでよかった。
透は何も言わず、僕の半歩前を歩いた。交差点の信号が青に変わる。車が途切れ、夕方の街に短い空白ができた。
僕たちは並んで横断歩道を渡った。
駅前の風は、学校より少しだけ乾いていた。バスの排気ガスに混じって、パン屋の甘い匂いが流れてくる。人の声、発車案内、靴音、信号機の電子音。その全部の中で、僕の胸だけがまだ遅れていた。
スマートフォンがポケットの中で震えた。
透からのメッセージだった。
《今日は、ちゃんと言い直したな》
僕は画面を見たまま立ち止まった。
透は数歩先で振り返っている。送った本人なのに、何でもない顔をしていた。
僕は返信欄を開いた。
《まだ途中》
打って、消した。
《ありがとう》
それも消した。
しばらく迷ってから、短く入力した。
《うん。まだ途中》
送信ボタンを押す。
たったそれだけのことなのに、指先が熱くなった。画面の上で、送った文字が既読になる。透はスマートフォンを見て、口元だけで笑った。
「何だよ」
「別に」
「それ、さっきから便利に使いすぎ」
「おまえに言われたくない」
透は片手をポケットに入れた。
「じゃあ、言い直し。今日は、少しだけ前に進んだな」
真正面から言われると、やっぱり言葉がなくなる。僕は駅前の表示板へ目を向けた。次のバスの行き先が、明るい緑色で点滅している。
どこへでも行けそうで、まだどこへも行けない。
けれど、僕はもう、何も知らないふりをしてその場に立っているわけではなかった。手の中には、飲み残した炭酸の缶がある。ポケットには、送信したばかりの短い文字がある。
明日になれば、また進路調査票の白い欄を見ることになる。
そのとき、今日の言葉をなかったことにしないために、僕は缶を握り直した。冷たさが掌へ食い込み、そこに残った熱を少しだけ奪っていった。
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