第3話 霧島玲子の机

翌日の朝、進路調査票はまだ僕の鞄の底にあった。

折り目をつけないようにクリアファイルへ挟み、そのファイルを教科書のあいだに入れ、さらに弁当箱の横へ押し込んだ。隠したつもりでも、鞄の中身はいつもより重かった。歩くたび、紙が内側から鞄を叩いてくる。

第一志望欄は空白のままだ。

白い欄を見るたび、昨夜の透の声が戻ってくる。

――黙って消えるのだけは、なしだから。

朝のホームルームで、担任が提出箱の話をした。

「今日の放課後までに、必ず職員室前へ。未提出の人は、明日の朝に呼びます。第一志望と第二志望、それから志望理由も忘れないように」

教室のあちこちで、紙をめくる音がした。誰かが「まだ書いてない」と小さく呻き、別の誰かが「去年の先輩はこの時期にもう推薦決まってたらしい」と囁く。黒板の横には、今春の合格実績を並べた大きな紙が貼られていた。国立、難関私立、医学部。数字は整然と並び、生徒の顔よりも長く教室に残っている。

僕は鞄の上に置いた手を、膝の下へ隠した。

担任が教室を出たあと、前の席の男子が振り返った。

「佐伯、もう出した?」

「まだ」

「意外。おまえ、こういうの早そうなのに」

「書くところは決まってるから」

言ってから、返事が遅れたことに気づいた。男子は気に留めず、「俺、県立の経済」と言って前を向いた。口に出した瞬間、それがもう自分の未来であるかのように、彼の声には迷いがなかった。

僕は教科書を開いた。文字が目に入らない。行間の白さばかりが増殖して、ページの上に第一志望欄を作っていく。

二時間目が終わる頃、教室の前の扉から女子生徒が顔を出した。

「佐伯くん、霧島先生が呼んでる」

胸の奥が、音を立てずに沈んだ。

「進路指導室?」

「うん。今すぐだって」

立ち上がると、椅子の脚が床を擦った。教室じゅうの視線が一瞬こちらを向き、すぐに散っていく。その短い視線の集中だけで、喉が乾いた。

廊下へ出ると、窓から夏の光が流れ込んでいた。体育館のほうから、笛の音と掛け声が聞こえる。廊下の端には、昨日の夕方から置かれたままの提出箱があった。青い箱の中には何枚もの紙が重なり、上に乗った一枚の端が、冷房の風に細かく震えている。

僕はそこを見ないようにして、進路指導室へ向かった。

扉を開けた途端、冷気がシャツの隙間へ入り込んだ。廊下に貼りついていた暑さが背中から剥がれ、代わりに薄い刃のような冷たさが皮膚を撫でる。扇風機が首を振り、古い木の机と紙の匂いを混ぜていた。

霧島玲子は机の向こうに座っていた。

眼鏡を外し、僕の調査票を両手で持っている。赤ペンと青ペンが机の右端に平行に並び、何冊もの進路資料は背表紙の高さまで揃えられていた。机の上のものはすべて整っている。その中で、僕の調査票だけが、第一志望欄の白さを抱えたまま異物のように置かれていた。

「座りなさい」

声を荒げていないのに、逃げる方向がなくなる。

僕は椅子を引いた。脚の底が床を擦り、乾いた音を立てた。

「この欄だけ、何度も書き直したでしょう」

「……はい」

「紙が毛羽立っている」

玲子は空欄の脇を指でなぞった。そこには鉛筆の跡と消しゴムの擦れが薄く残っている。僕の指先の熱まで、紙に移ってしまったようだった。

「志望校の候補は三つ。いずれも成績上は妥当。通学条件も悪くない。あなたが書こうとした形跡もある」

玲子は机の上の別紙を一枚めくった。模試結果、評定平均、大学の資料。数字の並びは、僕の迷いなど最初から存在しないように見える。

「なのに、第一志望だけが空白です」

「まだ、決めていなくて」

答えたあと、いつものように目を窓へ逃がしかけた。けれど、玲子の視線が先に僕を止めた。

「まだ決めていない、という言葉を便利に使わないこと」

「……」

「本当に何も決まっていない生徒と、決まっているのに書けない生徒は違います。あなたは後者です」

冷房の風が首筋を通り抜けた。肌は冷えているのに、紙を握った指だけが熱い。

「先生は、僕が何を考えているか分かるんですか」

「分かりません」

即答だった。

「分からないから聞いています。教師が生徒の内面を勝手に分かったことにするのは、指導ではなく手抜きです」

その言葉に、少しだけ息が戻った。見透かされていると思っていた。けれど、玲子は僕の中身を決めつけているわけではない。決めつけない代わりに、僕自身へ返そうとしている。

「本当に行きたい場所を書きなさい」

「行きたい場所が、大学じゃない場合は」

口から出てしまった。

言った瞬間、部屋の空気が変わった気がした。扇風機の羽根が回る音だけが、妙に近くなる。僕は自分の声を聞き返した。小さく、低く、途中で消えそうな声だった。

玲子は驚かなかった。ただ眼鏡を机へ置き、僕の顔を見た。

「続けなさい」

「……大学じゃない場所を書いても、調査票の意味がないと思います」

「意味がないのではなく、学校が用意した欄に収まらないだけです。欄に収まらないものを、最初からなかったことにする必要はありません」

「でも、僕は高校三年で、進路を決める時期で、周りはみんな大学名を書いていて……」

「周りの話をしているのではありません。あなたの話をしています」

玲子の声は淡々としていた。強くない。だから、言葉の一つひとつが逃げずに残る。

「進路調査票は、未来を完全に決める契約書ではありません。学校が今の時点で把握するための書類です。変更もできる。書き直しもできる。ですが、だからといって、嘘を書いていい理由にはならない」

「嘘って……」

「あなたが本当に行きたいわけではない名前を、誰かが安心するからという理由だけで書くなら、それは少なくとも、あなた自身の言葉ではない」

僕は親指の付け根を爪で押した。乾いた痛みが広がる。痛みがあるあいだだけ、椅子に座っていられる気がした。

「安全なところを書けば、あとで考え直せます」

「安全なところとは、誰にとって安全ですか」

「家族にとって。先生にとって。僕にとっても……たぶん」

「たぶん、を三つ並べて進路にはできません」

胸の中で何かが跳ね返った。

「先生は、夢なら何でも書けって言うんですか。俳優になりたいとか、演劇をやりたいとか、そういうのを?」

とうとう言葉にした。

俳優。

声に出した途端、その言葉は思っていたより小さかった。教室で台本を読むときのように、身体の奥から立ち上がってはこなかった。机と椅子と冷房の音に押され、薄い紙片のように床へ落ちた。

玲子はすぐには返事をしなかった。眼鏡をかけ直し、僕の調査票を一度伏せた。

「何でも、ではありません」

「……」

「夢という言葉で、考えることをやめてはいけないという意味です。俳優になりたいなら、どこで学ぶのか。何を身につけるのか。費用はどうするのか。卒業後にどんな働き方を考えるのか。演劇を続けるために、何を諦め、何を諦めないのか。そういうことまで考えて、初めて夢は進路の候補になる」

僕は顔を上げた。

「そんなの、まだ全部は……」

「全部分かっている十七歳などいません。ただ、分からないことを分からないままにしない姿勢は持てる。夢を大事にしたいなら、夢の名前だけを抱えていてはいけない」

責められているのに、なぜか胸の奥の別の場所が熱くなった。演劇を「好きなだけのもの」として扱われなかったことが、怖いほど嬉しかった。

「僕が演劇をやりたいって書いたら、先生はどうしますか」

「あなたに確認します」

「何を」

「それが逃げるための選択なのか、向き合うための選択なのか」

冷房の風が、調査票の端をわずかに揺らした。

「舞台に立つとき、あなたは日常よりよく話せるのでしょう」

心臓が跳ねた。

「……見ていたんですか」

「体育館の隅で台本を読んでいたことなら。見ていたというより、何度も見えました。あなたは人前で話すとき、相手の反応を先に読もうとする。だから言葉が遅れる。でも台本を持つと、相手の反応を待たずに言葉を置く」

玲子は赤ペンを手に取った。キャップを外す音が、狭い部屋の中でやけに鮮明に響いた。

「演劇を選ぶことが正しいとは言いません。大学へ行くことが間違いだとも言いません。私が言っているのは、あなたが自分で選んでいない名前を、第一志望として提出するなということです」

「選ばなかったら、どうなりますか」

「何も書かなければ、誰かが代わりに意味をつけます。教師は未定と読み、家族は迷っていると読み、あなた自身は、いつか本当に何も望んでいなかったことにしてしまう」

その言葉が、喉の奥へまっすぐ入ってきた。

何も書かないまま大人になる。

それだけは嫌だった。嫌なのに、書くことのほうが怖い。書いた文字は消せる。けれど、一度誰かへ渡した言葉は、なかったことにできない。

「選べないなら、選べないでいい」

玲子は赤ペンを紙の上へ置いた。まだ書き込まない。

「ただし、逃げたままの名前は要りません。今は迷っている。演劇を進路として考えている。必要な情報を調べて、家族と話す。そこまで書けばいい。曖昧でも、自分の現在地を自分の言葉で示すことはできる」

「そんな理由で、通るんですか」

「通すかどうかを気にする前に、あなたが引き受けられるかを考えなさい」

僕は調査票を見た。

白い欄は、さっきまで穴だった。今は、何かを書き込むために残された場所に見えた。まだ空白のままなのに、ほんの少しだけ性質が変わっている。

「……先生」

「何ですか」

「夢を書くのは、誰かを裏切ることになりますか」

質問したあと、自分の声が震えていることに気づいた。透との約束。母の期待。父の沈黙。全部が一つの言葉の裏に絡みついている。

玲子はしばらく黙っていた。

「本音を言うことと、誰かを裏切ることは同じではありません」

それから、机の端を指で一度だけ叩いた。

「ただし、本音を言ったあとに生じる責任から逃げれば、裏切りになることはある。家族が心配する。友人が戸惑う。学校が別の進路を勧める。そういう反応を受け止め、それでも自分の選択を説明すること。そこまで含めて、あなたの進路です」

胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ動いた。

「書く責任がないなら、進路はただの願望で終わる」

玲子はそう言って、白い欄を僕のほうへ向けた。

「今日中に書き直しなさい。大学名でなくても構いません。ですが、あなたが何を望み、何を調べ、何を背負うつもりなのか。それを一行でも書くこと」

僕は紙を受け取った。

指先に、紙の湿り気が触れた。冷房の効いた部屋にいるのに、調査票は僕の体温を吸い込んで熱を持っているようだった。

立ち上がると、膝が少し揺れた。

「佐伯」

扉へ向かいかけた僕を、玲子が呼び止めた。

「はい」

「夢を夢のままにしておくのは、自由です。誰にも責められない。ですが、夢を選択肢にするなら、言葉にしなさい」

振り返ると、霧島玲子はもう別の書類へ目を落としていた。赤ペンを握った指先が、紙の余白を測るように止まっている。

僕は返事をしなかった。

返事の代わりに、調査票を胸の前で握り直した。紙の角が掌へ食い込み、細い痛みが残った。

廊下へ出ると、熱気が一気に身体へまとわりついた。さっきまで冷えていた喉が、今度は乾いていく。窓の外では、体育館からマイクのハウリングが響いていた。きいん、と高い音が校舎の壁を震わせる。

その音に引かれるように、僕は階段へ向かった。

進路調査票の第一志望欄は、まだ白い。

けれど、その白さを、もうただの空欄とは呼べなかった。

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