第2話 透の炭酸

炭酸が喉を落ちていく感触は、まだ少し痛かった。
透は空になった缶を机の上でくるりと回し、窓枠に頬杖をついた。夕方の光が彼の横顔を斜めに切り取っている。校庭ではまだ野球部の声が続いていたが、さっきよりも遠く、疲れた響きになっていた。
「なあ」
透が口を開いたのは、缶が二度目に回転を止めたときだった。
「なに」
「おまえ、いつまで“大学”って言い張るつもりなんだよ」
言葉自体は軽かった。けれど、その軽さの中に、いつもとは違う硬さが混じっているのを僕は感じた。透はふざけるとき、たいてい目を合わせない。今は違った。まっすぐにこっちを見ていた。
「言い張ってるわけじゃない」
「じゃあ、本気で行きたいのかよ。県内のどっかの、名前もろくに覚えてない大学に」
答えられなかった。答えようとした瞬間、喉の奥に小さな石でも詰まったみたいに、言葉が止まる。透はそれを見逃さない。見逃さないくせに、追い詰めるような真似はしない。ただ、静かに待つ。
「……別に、名前とかどうでもいいだろ。潰しが利けば」
「潰しが利く、ね」
透は小さく笑った。笑ったのに、目の奥は笑っていない。
「悠真の“潰しが利く”は、いつも誰かに説明するための言葉だよな。俺に言うときも、先生に言うときも、多分、家で親に言うときも」
図星だった。図星すぎて、逆に何も言い返せなかった。窓の外で、また野球部の声が上がる。「ナイスバッティング!」という間延びした叫びが、教室の空気を一瞬だけ揺らして消えた。
「透にはさ」
僕はやっと、別の言葉を探して口を開いた。
「透には、そういうのないの。潰しが利くとか、誰かに説明するための言葉」
訊いてから、しまったと思った。こういう質問は、透にとって都合の悪いものだと知っていたはずだった。透は自分のことを話さない。話さないというより、話す言葉を選び抜いて、いちばん軽いものだけを渡してくる。
案の定、透は肩をすくめた。
「俺? 俺はほら、いろいろ考えるだけ考えて、結局その日暮らしになるタイプ。悠真と違って、紙の白さにビビるほど繊細じゃないし」
「それ、ただの誤魔化しだろ」
「誤魔化しで悪いか」
透は缶を机の上に置き直し、窓の外へ視線を移した。その横顔に、いつもの飄々とした表情の下から、ほんの一瞬だけ違う色が滲んだ気がした。長く一緒にいたから分かる。透が本当に痛いところを突かれたとき、彼は笑うのをやめる代わりに、視線をどこか遠くへ逃がす。今がそれだった。
「透」
「なんだよ」
「……いや」
言いかけて、やめた。透が僕の嘘を見抜くように、僕も透の何かを察している。けれど、それを言葉にする権利が自分にあるのか分からなかった。透が話さないと決めていることを、僕が先に暴くのは、フェアじゃない気がした。
沈黙が少しのあいだ続いた。悪い沈黙ではなかった。ただ、お互いに何かを差し出しかけて、途中で手を止めているような、そんな時間だった。
透が先に沈黙を破った。
「小学校のとき、覚えてる? 卒業したら一緒に何かやろうって、あれ」
不意打ちだった。心臓が一拍、余計に跳ねる。
「……覚えてるよ、それくらい」
「あれさ、結局“何か”って何も決まってなかったよな。決めないまま、なんとなく続いてる約束って、変な感じしない?」
「変って言うか……」
「重いって言いたいんだろ」
図星をまた突かれた。透は僕の目を見て、少しだけ笑った。今度は本物の笑いだった。
「別に責めてるわけじゃない。ただ、あの約束、俺はまだ有効だと思ってる方だから」
その言い方には、いつもの軽口とは違う重みがあった。僕は何も言えず、飲みかけの炭酸をもう一口飲んだ。泡が今度は喉の奥ではなく、胸の内側で弾けたような気がした。
透は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。カラン、と軽い音が教室に響く。
「進路調査票、明日提出だろ」
「知ってる」
「書けなくても、白紙で出すなよ。せめて、迷ってるって顔で出せ」
「顔で出すって、意味分かんない」
「わかんなくていいよ。俺が勝手に言ってるだけだから」
透はそう言って、鞄を肩にかけた。窓の外では、いつの間にか野球部の声も止んでいて、代わりに蝉の声が急に大きく聞こえた。
教室を出る前に、透は一度だけ振り返った。
「悠真がどこに行くのか、俺にはまだ分かんないけどさ。行き先が決まったら、ちゃんと言えよ。黙って消えるのだけは、なしだから」
冗談めかした声だったのに、最後の一言だけは、やけにまっすぐ届いた。僕は頷くことしかできなかった。頷くことしか、まだできなかった。
透が廊下へ出ていく足音が遠ざかる。僕は机の上の進路調査票と、飲み残しの炭酸を見比べた。缶の中で、まだ小さな泡がいくつも上っては消えていく。書けないまま提出する明日のことを考えると、その泡の音さえ、やけに大きく聞こえた。
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