第1話 白い欄に触れない指

放課後の教室には、昼間の熱がまだ残っていた。

窓を開け放しているのに風は入らず、カーテンだけが、誰かに触れられたふりをして膨らんでは戻る。黒板の隅に残った日付のチョーク跡が、夕方の光を吸って灰色に沈んでいた。机の上には、補習を終えた連中が置いていったプリントの束と、消しゴムのカスと、僕の進路調査票がある。

僕は椅子を少しだけ後ろへずらして座っていた。

いつもそうする。机に正面から向かうと、紙に追い詰められている感じがするからだ。ほんの数センチ身体を斜めに逃がすだけで、まだ自分で選んでいるような気になれる。

調査票の第一志望欄には、鉛筆の跡がいくつも重なっていた。

県内の国立大学。通学しやすい私立大学。模試の判定がぎりぎり届くところ。先生が見ても眉をひそめない名前なら、三つくらいすぐに思いつく。母に見せても「そう」と言われるだけで済む。父なら、新聞をめくる手を一度止める程度だろう。

そのどれかを書けばいい。

なのに、鉛筆の先は欄の上で止まったままだった。

紙の白さが、妙に眩しい。

窓際の机に斜めから差している日差しのせいだけではない。白い欄の向こうに、書かなかった言葉が押し込められているように見える。

俳優。

演劇。

舞台。

頭の中で順番に浮かべてみる。どれも、声に出さなければ形を保っていられる。けれど鉛筆を持つ指が、その言葉の最初の一画に近づいた途端、胸の奥で何かが固く縮んだ。

喉が乾いていた。机の横に置いた水筒を開け、ぬるくなった水を少しずつ飲む。口の中に残った水の味が、紙の匂いと混ざった。

鉛筆を置く。

消しゴムを取る。

書いていないのに、消す。

白いカスが紙の端からこぼれ、机の角に溜まっていく。最初から何も書かなければ、消す必要もないのに、僕は何度も同じ場所をなぞった。筆圧だけが強くなり、紙の表面が毛羽立っている。

職員室前の廊下から、誰かの笑い声が聞こえた。

「推薦の書類、今日までだって」 「マジ? 志望理由まだ書いてないんだけど」 「去年の先輩、あそこ受かったらしいよ」

声は遠ざかり、代わりに廊下を走る靴音が近づいてきた。僕は反射的に調査票を裏返した。

隠す相手などいないのに。

教室の前を、二人の女子が通り過ぎる。片方が窓から顔を覗かせ、僕と目が合った。

「あれ、佐伯まだいたんだ」

「うん。ちょっと書類を」

返事の前に、一拍置いた。

その一拍が、自分でも分かるくらい長かった。

「進路調査票?」

「そう。まあ、普通に大学で」

自分でも嫌になるほど丁寧な言い方になった。女子は「そっか」と軽く手を振り、もう一人の友達を追って行った。教室に、また僕ひとりの空気が戻る。

窓の外では、校庭の端で野球部が声を出していた。

「いけるぞ!」

「あと一本!」

遠くの声は、こちらまで届く途中で薄まっている。それでも、まっすぐで迷いがなかった。僕は調査票の第一志望欄を指でなぞった。紙は乾いているのに、指先だけが汗ばんでいた。

大学名なら書ける。

大学名を書くことは、未来を決めることではない。少なくとも、そう思い込めばいい。進路調査票はただの調査だ。先生が人数を把握するための紙で、あとから変更もできる。何度もそう聞いてきた。

なのに、第一志望という四文字は、妙に重かった。

この欄に書いた名前を、僕は明日の朝、提出箱へ入れる。職員室前に置かれた、青いプラスチックの箱。生徒たちはその前を通るたび、紙を一枚ずつ落としていく。軽い音がする。紙が箱の底に触れる、乾いた音。

それだけのことなのに、その音を想像すると、指が動かなくなる。

僕はスマートフォンを取り出した。

画面には、透とのトーク画面が開きっぱなしになっている。最後のメッセージは昼休みに届いたものだった。

《今日、残る?》

僕はそこへ、何度も返事を書いていた。

《進路調査票が書けない》

消した。

《俳優になりたいって言ったら、どう思う》

消した。

《演劇の専門学校を調べてる》

消した。

いちばん長く残った文章は、送信欄の下書きにまだ残っている。

《俺、本当は大学に行きたいんじゃなくて、舞台に立ちたい。ずっとそうだった。でも、それを言ったら、たぶんおまえとの約束も変わる気がして、》

そこまで打って、後ろを消した。約束という言葉が、透に見られるのが怖かった。

小学生の頃、僕たちは校庭の隅で、卒業したら何をするか話した。何をするかなんて、決めていなかった。ただ、高校に入っても一緒に何かをやろう、と言った。ボールでも、秘密基地でも、くだらない遊びでもよかった。

僕が演劇部の稽古を覗くようになったのは、その約束を交わしてからしばらく後だった。

舞台袖の暗がりで、役者の声を聞いた。大きな声ではなかったのに、客席の奥まで届いた。台詞が空気を押して、誰かの胸の内側に入り込む。その瞬間を見たとき、僕は初めて、言葉が人の身体を動かすところを見た気がした。

それから、放課後に演劇部の稽古へ通うようになった。入部届を出す勇気はなかった。けれど柚木先生は何も聞かず、余った台本を渡してくれた。僕は舞台の隅で、誰にも見られないように台詞を覚えた。

台本を開くと、声が出た。

教室では語尾が消える。人と話すときは、相手の表情を見て、言い方を変えて、最後には何を言いたかったのか自分でも分からなくなる。それなのに、台本の中では違った。書かれた言葉の奥に誰かの感情があり、その感情を借りれば、僕の喉は迷わず開いた。

それを夢と呼ぶには、僕は長く黙りすぎた。

夢なら、もっと早く言えばよかった。もっと堂々と、演劇部に入りたい、俳優になりたい、と言えたはずだった。言えなかったということは、たいしたものではないのだと、僕は何度も自分に言い聞かせてきた。

好きなだけでは食べていけない。

才能があるとは限らない。

進学校に入ったのだから、大学を目指すのが普通だ。

母は、安定した道を選んでほしいと言う。父は何も言わない。その何も言わない背中の向こうに、家計や仕事や、地元で暮らすことの重さがあるのを僕は知っている。

知っているから、言えなかった。

言えば、誰かに負担をかける気がした。僕ひとりが舞台に立ちたいと言っただけで、家族の積み重ねを裏切るような気がした。

スマートフォンの画面が暗くなった。

僕はもう一度、第一志望欄に向き直った。

鉛筆を持つ。紙に先端を当てる。

大学名を書けばいい。

その簡単な文字列が、口の中で乾いた紙のように張りついた。僕は最初の一画を引こうとした。だが、手首が震えた。文字の角度が気になった。欄の中央からずれたらどうする。字が汚かったら。あとで書き直すことになったら。そんなことばかりが頭に浮かぶ。

指先に力が入り、鉛筆の木が軋んだ。

そのとき、教室の後ろの扉が開いた。

「うわ。まだいた」

三枝透が、片手をポケットに入れたまま立っていた。汗で前髪が少し濡れている。体育館から来たのか、シャツの肩に薄く埃がついていた。

「透こそ」

「俺は通りすがり。北桜高校の通りすがり代表」

「意味分かんない」

「分からないくらいでちょうどいいんだよ。分かりすぎると、人生がつまらないから」

透はそう言いながら、僕の向かいの椅子を引いた。座る前に、机の上の進路調査票を見た。ほんの一瞬だった。

僕は紙を伏せようとした。

けれど、透は先に視線を外していた。

そのことが、かえって苦しかった。

「進路調査票にまで慎重なの、もはや才能だろ」

「……別に」

「別に、って顔してない」

「どんな顔だよ」

「紙に負けてる顔」

「紙には負けないだろ」

「いや、今のところ完敗じゃん。第一志望欄、白いし」

透は笑った。声は軽かったが、目は笑っていなかった。僕が嘘をつくとき、返事の前に間が長くなることを、透は小学生の頃から知っている。

僕は鉛筆を置いた。

「まだ決めてないだけ」

「ふうん」

「本当に」

「じゃあ、その紙の上で鉛筆を止める練習、何分やってんの?」

返事が遅れた。

透は少しだけ目を細めた。でも、それ以上は言わない。問い詰める代わりに、鞄から財布を出し、立ち上がった。

「自販機行く。水いる?」

「いらない」

「そう言うと思ったから、買ってくる」

「聞いた意味ないだろ」

「聞くっていう形式が大事なんだよ。人生には」

透はそのまま廊下へ出ていった。僕は伏せた調査票を見つめた。

透は、たぶん分かっている。

演劇のことも、未送信の下書きのことも、僕が第一志望欄に大学名を書けない理由も。

それでも、分かったと言わない。

その沈黙は、僕を守っているようで、同時に逃げ場をなくしていた。知らないふりをされると、僕はいつまでも自分から言い出せない。

やがて、廊下から透の足音が戻ってきた。二本分の缶が、かすかにぶつかっている。

「はい」

透は僕の机に、冷えた炭酸飲料を置いた。缶の表面には細かな水滴が浮かんでいる。僕がそれに触れると、指先の熱が少しだけ引いた。

「炭酸、飲めないだろ」

「飲める。たぶん」

「たぶんで買うなよ」

「進路調査票よりは決めやすい」

透は自分の缶を開けた。プシュッ、と小さな音が教室に響く。僕も遅れてプルタブを起こした。泡が勢いよく上がり、乾いた喉に細かく刺さった。

「痛い」

「炭酸はそういう飲み物だろ」

「知らなかった」

「十七年生きてきて?」

「今、初めて知った」

透は笑った。今度の笑いには、少しだけ本物の温度があった。

僕は缶を両手で持ったまま、窓の外を見た。校庭の向こうに、駅前の建物が見える。夕方の光を受けて、バスターミナルの行き先表示が一つずつ灯り始めていた。

どこへでも行けるように見える。

けれど、僕はまだ教室にいる。

進路調査票の白い欄に触れないまま、透の隣で炭酸の泡が消えていく音を聞いていた。

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