第10話 第十話「封の向こう側」

離れへ続く廊下は、母屋よりも暗かった。
雨戸が閉じられているせいで、昼間だというのに足元の板だけが黒く沈んでいる。私は手の中の封筒を見た。相沢義彦、と祖母の字で書かれている。文字の端が少し震えていた。祖母の筆跡が乱れることは、ほとんどなかった。
その封筒を、母から受け取った。
母とトキさんが後ろからついてくる。二人とも何も言わない。下駄の音もしなかった。ただ、三人分の気配だけが、長い廊下に重なっている。
離れの戸の前で、私は立ち止まった。
中から、紙をめくる音がした。
「叔父さん」
返事はない。
もう一度呼ぼうとしたとき、内側で椅子が引かれた。続いて、低い声がした。
「入ればいい」
戸を開ける。
離れの六畳間には、義彦が一人で座っていた。昼間から電気がついている。白い光が畳の上に落ち、その中央に、相続関係の書類が並べられていた。印鑑ケース、革の手帳、眼鏡。いつも通り、物の位置はきれいに揃っている。
けれど、義彦の右手だけが、机の端を強く掴んでいた。
「何か用か」
「これを」
私は封筒を差し出した。
義彦はすぐには受け取らなかった。祖母の字を見て、視線を封の部分へ落とす。それから、私の顔を見た。
「どこにあった」
「仏壇の奥」
「そうか」
「開けて」
「葵が?」
「叔父さんが」
義彦の顎がわずかに動いた。
「中身を知りたいなら、自分で開ければいい」
「私のことが書かれているなら、叔父さんが先に読むべきだと思う」
「俺のことかもしれない」
「そうでしょう」
離れの外で、雨樋から水が落ちた。一定の間隔で、ぽた、ぽた、と音がしている。
義彦はその音を聞かないふりをして、封筒を受け取った。指先で重さを確かめるように持ち、封を裏返す。祖母は糊を少ししか使っていなかった。端を剥がすと、紙が湿った音を立てた。
中から出てきたのは、一枚の便箋だった。
義彦は立ったまま読み始めた。
私はその表情を見ていた。文字を追う目が、最初は平らだった。やがて、眉間に皺が寄り、唇が固く結ばれた。紙を持つ手が震えたのは、一度だけだった。
「何が書いてあるの」
「大したことじゃない」
「その言い方は、もう聞き飽きた」
義彦は便箋を折った。
「祖母の昔話だ。葵に余計なことを吹き込むな、と書いてある」
「嘘」
「なぜそう思う」
「叔父さんが、読む前より苦しそうだから」
義彦は笑わなかった。
いつもなら、ここで数字か日付を出す。相続の手順、土地の管理、法事の費用。話を別の場所へ動かしてしまえば、誰も核心へ戻れないと知っている顔をする。
けれど今日は、何も出てこなかった。
「祖母は、最後まで俺を父親にしなかった」
義彦が言った。
母の息が、背後で小さく揺れた。
「父親になるつもりがなかったの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話なの」
「俺は、あんたの父親だ。血の上ではな」
便箋の端が、義彦の指の中で折れた。
「だが、父親として振る舞う資格はないと思っていた。姉さんが産むと言ったときも、祖母が育てると言ったときも、俺は何も決めなかった。決めたのは、逃げることだけだった」
「お金は出した」
「金を出せば、責任を果たしたことになると思った」
「思っていたんじゃなくて、そういうことにしたんでしょう」
義彦の顔から、整った表情が剥がれた。
「そうだ」
短い声だった。
「そういうことにした。戸籍に名前を載せない代わりに、生活費を出す。行事には出ない代わりに、土地の管理費を負担する。葵に会わない代わりに、あんたたちが困らないようにする。全部、数字にすれば済むと思った」
「済んでない」
「わかっている」
「わかっている人の顔じゃなかった」
「わかっていたから、見なかった」
その言葉は、鈴の音より重く落ちた。
母が一歩、部屋へ入った。
「お義彦さん。あの夜も、そうだったのね」
義彦は母を見た。
「祖母に、葵へ話すと言われた。父親の名前も、出生のことも、全部」
「止めたでしょう」
「止めた」
「どうして」
「怖かったからだ」
義彦は便箋を机へ置いた。
「葵に父親だと名乗ったところで、俺は何を渡せる。今さら父親の顔をして、過ぎた年月を返せるのか。姉さんと祖母に押しつけたものを、取り戻せるのか。できない。だから、知らないままでいたほうがいいと思った」
「自分が責められずに済むから?」
「それもある」
義彦は眼鏡を外し、レンズを拭いた。布は乾いていたのに、指の動きは何度も同じ場所を往復した。
「祖母は、葵に知らせると言った。俺は、やめてくれと言った。家の恥になるとか、妻に知られたらどうするとか、そんなことを言った。祖母は何も言い返さなかった。ただ、鈴を手に取った」
私は黙って聞いていた。
「それから、俺の名前を名簿に書こうとした。父親の欄へ。だが、筆を持つ手が止まった。祖母は俺を見て、書くかどうかを訊いた」
「叔父さんは?」
「書くなと言った」
「なぜ」
「一度書かれた名前は、消せないと思ったからだ」
義彦は便箋を見た。
「だが、消えないのは名前だけじゃなかった。書かなくても、葵はここまで来た」
そのとき、離れの床下から音がした。
ごん、と鈍い音だった。
全員が黙った。
続いて、板の下を何かが擦るような音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。義彦の顔色が変わった。母は口元を押さえ、トキさんは目を閉じた。
私は音のする床を見た。
「祖母は、まだ何か書いていたんでしょう」
私は便箋を指した。
「この手紙だけじゃない。名簿にも、帳面にも。消された跡が残っている」
義彦はしばらく黙っていた。
「もう一枚ある」
「どこに」
「俺が持っている」
義彦は革の手帳を開いた。間に挟まれていたのは、折り畳まれた古い紙だった。紙の端は黄ばんでいる。開くと、祖母の筆跡で、短い一文だけが書かれていた。
葵へ。あなたの父親の名前を、私が書かなかった理由を、どうか私の死後に問わないでください。
私は紙を見つめた。
その下には、もう一行あった。
問うべきなのは、名前ではなく、誰があなたを見捨てなかったかです。
義彦が紙を取り上げようとした。
私は先に押さえた。
「これは、叔父さんに渡された手紙じゃない」
「祖母が俺に預けた」
「私へ渡すつもりだったんでしょう」
「違う」
義彦の声が初めて荒れた。
「祖母は、最後まで俺に選ばせようとした。俺が渡せば、父親として名乗ることになる。渡さなければ、また逃げることになる。だから、俺に預けた」
「そして、叔父さんは持ったまま七年過ごした」
「そうだ」
雨樋の音が止んだ。
離れの外が、不自然なほど静かになった。
その静けさの中で、どこか遠くから鈴が鳴った。
りん。
仏間から聞こえたはずなのに、音はすぐそばにあった。
義彦は紙を見たまま、低く言った。
「俺は、葵に父親だと名乗る資格がない」
「資格の話をしているんじゃない」
「では何の話だ」
「見捨てなかった人と、見捨てた人を、同じ形にしないための話」
義彦の手が止まった。
私は紙を折り直した。祖母の筆跡が、指の間で静かに揺れた。
「叔父さん。明日の朝、仏間で話して。お母さんも、トキさんも一緒に。祖母が最後に見たものを、今度は誰も黙っていないで」
義彦は答えなかった。
けれど、机の上に並べていた書類を一枚ずつ重ね始めた。いつものように整えるためではなく、そこから目を逸らすためでもなく、別の話をする場所を空けるように。
廊下の向こうで、古い下駄が鳴った。
からり。
誰かが歩き出した音だった。
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