6話 廊下で泣き声がした夜

旧県立南星高校の警備員室は、渡り廊下を挟んで本館の裏手にあった。

小さな平屋で、窓には格子が入っている。私が扉を開けると、暖房の効きの悪い部屋の中に、古い紙とインクの匂いがこもっていた。久我山渉は、机の向こうに座ったまま、私が持ってきた封筒を一度も急かさずに待っていた。

彼と会うのは、これで二度目だった。最初は閉校準備の巡回中に、資材の紛失について簡単な聞き取りを受けただけだ。あのときの久我山は、私を単に「よく学校に出入りする学生」として見ていた。今日は、その目つきが少しだけ違っていた。

「配置図と、記号の写しです」

私は封筒から資料を取り出し、机の上に並べた。学内展の配置図、《未完成の夕景》の裏打ちに刻まれた記号の複写、写真の裏に書かれた時刻の拡大コピー。そして、神崎、藤堂、小野寺それぞれの証言をまとめた自分のメモ。

久我山はすぐには手を伸ばさなかった。まず、私の顔を見た。それから、資料の並べ方を見た。紙の角がどちらを向いているか、どの順番で置かれているかを確かめるような目だった。

「順番はこれで合っていますか」

「はい」

「なら、そのままで結構です」

彼はようやく手帳を開き、無糖の缶コーヒーの蓋を親指で軽く弾いた。飲むためではなく、手の位置を決めるための動作に見えた。

「まず、聞かせてください。あなたが今、何を事実だと考えていて、何をまだ推測だと思っているか。その二つを分けて話してもらえますか」

その言い方に、私は一瞬詰まった。桐生先生の「記録する。誰のものか分からないなら、分からないまま残す」という言葉と、似ているようで違う響きがあった。先生は見方を渡そうとする。久我山は、私の言葉から余分な色を削ぎ落とそうとしている。

「事実は、これです。作品の裏打ちに記号が刻まれていて、展示配置図と作品名簿で番号が食い違っている。写真の裏には、後から書き加えられた『二十時』という数字がある。西棟三階の廊下で、当時の展示配置図の切れ端が見つかりました。そこには『八時に、戻る』と書かれています」

「推測は?」

「西園寺朱音さんが、その夜、誰かに戻ってきてほしいと伝えようとしていた。あるいは、誰かが朱音さんに戻ってきてほしいと伝えた。神崎さん、藤堂さん、小野寺さんは、それぞれ違う形で、その夜のことを知っていながら語らなかった」

久我山は手帳にペンを走らせながら、うなずくでもなく、否定するでもなく、私の言葉をそのまま書き取っていった。ペン先が紙を擦る音だけが、しばらく部屋に続いた。

「久我山さん。それだけですか」

「それだけ、というのは?」

「私が今言ったことを、記録するだけですか。何も言わないんですか」

彼はペンを止め、初めて私の目を見た。長い沈黙が挟まれた。私はその間、彼が言葉を選んでいるのではなく、言葉にする前に、もう一度現場そのものを思い出しているのだと感じた。

「朝霧さん。私は美術のことも、記号のことも分かりません。あなたが説明してくれたことの半分も、正直に言えば実感として理解できていない。だから、あなたの推測が正しいかどうかを、私の目で判断することはできません」

「でも」

「でも、記録には残せます。あなたが見つけたもの、聞いたことを、私が確認できる形に整える。それが今、私にできることです」

その言葉は、優しさというより、彼自身に課した限界の宣言だった。私はそれを、はぐらかしだとは思わなかった。ただ、もっと強い言葉を欲しかった自分がいたことに、少し驚いた。

「当時の警備日誌は、残っていますか」

私が尋ねると、久我山は机の下の段ボールから、色褪せた綴りを取り出した。ページを繰る手は、乱暴ではないが速かった。目的の場所を、すでに知っている手つきだった。

「ここです」

彼が指した行には、乱れた筆跡で「二十時三十分頃 廊下にて泣き声」とだけ書かれていた。それ以上の説明はない。誰が、なぜ泣いていたのかも、確認したのかどうかも記されていない。

「翌朝の記録には、この続きがあります」

次のページには、「西棟三階廊下 チョーク粉多量 清掃時、通常の三倍程度」という一文があった。数字まで書かれているのに、その意味は誰も書いていない。

「久我山さん。これ、変じゃないですか。泣き声があったのに、確認した記録がない。チョーク粉が異様に多かったのに、原因が書かれていない」

「変です」

あっさりとした返事だった。私はその速さに、むしろ驚いた。

「変だと、今言いましたよね」

「言いました。ただ、変であることと、誰かが意図的に隠したことは、まだ同じではありません。当時の警備員が、単に忙しくて書き漏らしただけという可能性もある」

「でも、可能性の話をするなら、隠された可能性もあるはずです」

「あります。だから記録するんです、朝霧さん」

久我山は日誌の端を指でなぞった。最後の行の筆跡が、わずかに重なって見える場所だった。

「ここ、見えますか。同じ文字を、一度書いてから、もう一度なぞっている。これは、誰かが後から手を加えた跡かもしれない。あるいは、インクがかすれて、書いた本人が上から書き直しただけかもしれない」

「久我山さんはどちらだと思いますか」

「分かりません。だから、今この場で私が『こうだ』と言うことはしません。それは、あなたの発見を安っぽくすることになる」

私はその言葉に、思わず黙った。安っぽくする、という表現が、思いがけず胸に刺さった。私が久我山に求めていたのは、彼自身の結論だった。けれど彼は、結論を急ぐことを、私の積み上げてきたものへの侮辱だと考えている。

窓の外で、風が強くなった。格子の隙間から、乾いた落ち葉の匂いが流れ込んでくる。久我山はコーヒーの缶を持ち上げ、口をつけずにまた置いた。冷えた缶の表面に、彼の指の跡が薄く残った。

「久我山さん。私は、この学校を出て、短大に行きます。もうすぐここを離れます。それでも、この記号を追うのをやめられません。理由は分かりません。ただ、朱音さんが遺したものを、誰も見なかったことにするのが嫌なんです」

久我山は手帳を閉じた。すぐには何も言わなかった。彼が黒いボールペンをゆっくりと胸ポケットに戻す間、私はその静けさが、拒絶ではないことに気づいていた。

「朝霧さん。私は昔、ある噂を、大したことではないと決めて動かなかったことがあります。後になって、それがある人の人生を変えていたと知りました。証拠がなかった。だから動かなかった。それは正しい判断だったのか、今でも分かりません」

「久我山さんも、そういう夜を持っているんですか」

「持っています。だから、あなたの言うことを、感傷だと切り捨てることはできません。しかし、証拠がないまま人を追及することも、私はしません。それは、あなたが憎んでいるはずの沈黙と、形を変えただけの同じものになる」

その言葉は、静かだったが、私の胸の中で長く尾を引いた。証拠のない断罪は、沈黙と同じ形をしている。私はそれを、忘れないように、心のどこかに刻んだ。

「西棟三階の廊下には、これ以上入らないでください」

久我山は日誌を閉じ、立ち上がった。

「荒らせません。現場を、私たちがこれ以上壊すわけにはいかない」

「壊す、というのは、証拠のことですか」

「証拠のことでもあります。それだけではありません」

彼はそこで一度、言葉を切った。靴先で床のわずかな段差を押さえるように動かし、それから続けた。

「あそこは、二十年間、誰にも荒らされずに残っていた場所です。誰かが泣いた場所、誰かが待った場所。荒らすというのは、物を動かすことだけじゃない。誰かがそこに残したものの上を、無神経に歩くことも、荒らすことになる」

その言い方は、桐生先生の言葉にどこか似ていた。物を扱う手つきの慎重さが、違う仕事の中でも同じ形を取っているのが分かった。私はふと、久我山が現場を守ることと、真帆先生が作品を保存することが、実は同じ根を持っているのだと感じた。

「記録にはします。あなたの発見も、証言も、日誌の矛盾も。ただし、事件として扱うかどうかは、まだ私一人の判断では決められません」

「決まるまで、どれくらいかかりますか」

「分かりません」

短い返事だった。けれど、その短さの中に、誠実さがあった。彼は分からないことを、分かったふりで埋めない人だった。

私は封筒を受け取り、頭を下げて警備員室を出た。外の空気は、部屋の中よりもさらに冷たかった。校庭の落ち葉が、風に押されて渡り廊下の下へ吹き寄せられている。乾いた葉が擦れる音が、いくつも重なって、まるで誰かの囁きのように聞こえた。

美術棟の窓を見上げると、養生シートが夕暮れの最後の光を受けて、白くたわんでいた。風が吹くたび、シートは壁に貼りつき、また少し浮く。その動きは、呼吸のようだった。何も映さないその白い面が、それでも確かに、誰かの気配だけを閉じ込めているように見えた。

久我山は、記録することを選んだ。断罪することも、感傷で流すこともせず、ただ確かめられることだけを、確かめられる形で残そうとしている。

私はその姿勢を、物足りないと思う自分と、正しいと思う自分の両方を、同時に抱えたまま歩き出した。母が学校にいたという藤堂さんの言葉が、まだ耳の奥に残っている。母もまた、あの夜、何かを見て、何かを飲み込んだ一人なのかもしれない。

久我山の言った「荒らせない」という言葉が、母の沈黙にも、そのまま重なる気がした。荒らすということは、物を動かすことだけではない。誰かが黙って守り続けてきた場所を、無造作に踏み歩くことでもある。

それでも、私は踏み込むことを選んでいた。

養生シートの白は、もう夕闇に沈み始めていた。校舎の輪郭がぼやけ、代わりに窓の中の暗さだけが、はっきりと際立って見える。私はその暗さに向かって、もう一度小さく頷いた。

明日、もう一度、あの廊下に立つ。

誰にも見つけられなかった声を、今度こそ聞き取るために。

← 横にスクロールして読み進められます

廊下で泣き声がした夜 - 沈黙の夕景 - 誰でも作家life