4話 保管庫の奥のノート

保管庫の鉄扉を開けると、真夏を越えてきた埃と湿気の匂いが、顔にまとわりつくように流れ出た。

旧県立南星高校の本館裏、渡り廊下の先にあるこの部屋は、閉校準備が進むにつれて半分ほど空になっていた。棚の上段はすでに空箱ばかりで、段ボールの隙間には廃棄予定の備品札と、絵具のチューブが固まったままの古い木箱が、乱暴に押し込まれている。誰かが仕分けを途中で放り出したような、落ち着かない空気だった。

「懐中電灯、持った?」

桐生先生の声が、扉の外から届く。先生は施設課から借りてきた鍵束を握り、私が中へ入るのを待っていた。

「持ちました」

私は懐中電灯の光を、棚の背板へ向けた。細い光が埃を白く浮かび上がらせ、その粒子が音もなく空気の中を漂う。窓のない部屋だから、外の養生シートの気配も、夕暮れの色も、ここには届かない。ただ、時間だけが積み重なった匂いがあった。

「高遠しのぶさんの名前で、何か手がかりが見つかるとは限らないわ」

先生が背後で言った。念を押すような口調だったが、止める気配はなかった。

「分かっています。でも、名簿にあの印があったのは、彼女だけです」

「印があることと、彼女が何かを知っていることは、また別の話よ」

「それでも、確かめないと」

先生は小さく息を吐き、棚の奥へ懐中電灯を向けた。光の輪の中に、表紙の角が擦り切れた冊子の背表紙が並んでいるのが見えた。美術部の部活動記録、購入伺い、旧い生徒作品の受け渡し簿。時代の違う紙が、同じ棚の中で黄ばみの濃淡だけを違えて重なっている。

私は棚の三段目に手を伸ばした。指先が、湿気を吸って柔らかくなった紙の縁に触れる。表紙には「制作記録」とだけ印刷され、下の欄には手書きで名前が入っていた。

――高遠しのぶ。

その字を見た瞬間、指先が止まった。

紙の端をこすりたくなる癖が出そうになって、私はいったん手を止めた。真帆先生に、記録に触れる前は必ず一呼吸置くように教わっていた。

「先生、これです」

「開ける前に、状態を見て」

先生が近づき、私の隣にしゃがみ込んだ。ノートの角は、ただ古びているだけではなく、何度も持ち歩かれたような丸みを帯びていた。表紙の隅には、油じみのような跡がある。絵具を扱う手が、無意識に触れた痕跡だろう。

先生が頷いたのを見て、私は表紙をめくった。

最初のページには、几帳面な字で日付と課題名が並んでいる。そのあとに続く見開きには、色見本のように小さな絵具の欠片が糊で貼られ、その脇に色名と混色比が細かく書き込まれていた。

朱。鈍い橙。灰。群青。褪せた白。

私はその並びを見て、思わず声が出た。

「これ……《未完成の夕景》の色の置き方と、順番が同じです」

「もう一度見せて」

先生は私の手からノートを受け取り、光の角度を変えた。ページの色見本と、頭の中にある夕景の絵を重ねる。右端の鈍い朱、その手前の灰、左に広がる群青。順番だけでなく、色の重ね方――先に灰を置き、その上から朱を戻す手順まで、同じだった。

「偶然にしては、丁寧すぎるわね」

先生の声は静かだったが、その静かさの中に、確信に近いものが混じっていた。

私はページをさらにめくった。制作の経過が、日付ごとに短く記録されている。塗った、乾かした、削った。淡々とした記述が続く中で、末尾のページだけ、様子が違っていた。

文字が、消されている。

消しゴムで擦ったのではない。同じ場所を、何度も鉛筆でなぞり直したような跡だった。線が重なり、文字の形がかろうじて残っている程度まで、薄く均されている。

「先生、これ」

私は紙面に鼻を近づけた。乾いた紙の匂いの奥に、もう一つ別の匂いがある。わずかに刺すような、化学的な匂い。

「修復液の匂いがします」

「そう。古い紙にしては新しい匂いね」

先生は指先でページの端を挟み、光にかざした。

「誰かが、最近になって触れている。消した部分を、なるべく目立たないように整えるための処置よ」

「最近って、どのくらい前ですか」

「分からない。でも、この匂いが完全に飛ぶまでには、そう長くはかからないわ。数年単位の話ではない」

私は息を止めた。二十年前の記録が、最近になって誰かの手で触れられている。それは、この保管庫に眠っていたはずのものが、誰かにとって今も現在進行形の問題だということだった。

ページの端に、かすれた走り書きが残っている。

――西棟三階。

その下に、もう一行。

――戻る。

文字の半分が、紙の繊維ごと薄く剥がれていた。剥がしたのではなく、剥がれてしまった、というほうが近い。何度も上から押さえ、擦り、それでも完全には消せなかった痕跡だった。

「これ……」

私はそこで言葉を止めた。西棟三階の廊下で見つけた紙片に書かれていた文字と、同じ言葉だった。八時に、戻る。あの紙片は、誰かが誰かに向けて残したものだと思っていた。だが、このノートの持ち主自身が同じ言葉を書き、そして自分でそれを消そうとしている。

「先生。もしこれが高遠さんの筆跡なら」

「筆跡の比較は、また別の資料が必要ね。でも」

先生はページを閉じずに、そのまま私の前に開いたまま置いた。

「透子。あなたは今、何を考えている?」

私はすぐには答えられなかった。頭の中で、幾つもの断片が音を立てずに動いていた。西棟三階で誰かが戻るのを待っていた。制作ノートの持ち主も、同じ言葉を書いていた。もしその二人が同じ夜、同じ約束を分け合っていたのなら――。

「彼女は、朱音さんを待つ側だったんじゃないかと思います。でも、消している。書いたことを、自分で消そうとしている」

「なぜ、消そうとしたと思う?」

「分かりません。後悔したのか、怖くなったのか。あるいは――誰かに見られたくなかったのか」

先生はしばらく黙って、ページの上の消し跡を見つめていた。私はその沈黙を、急かさなかった。先生が沈黙を待つ人だということを、この数日でようやく覚えていた。

「透子。私は今、あなたにこの跡の意味を教えてあげることはできない。教えられるのは、この跡が『消されたのではなく、迷った跡だ』ということだけ」

「迷った跡……」

「完全に消す気なら、ページを破ればいい。切り取って捨てればいい。でも、この人はそうしなかった。何度も擦って、それでも紙を捨てなかった。それは、消したいという気持ちと、残したいという気持ちが、同じ手の中で拮抗していたということよ」

その言葉が、私の胸の奥にゆっくりと沈んでいった。

消したいのに、捨てられない。それは母の裁縫箱の底にあった紙片と、同じ手つきに見えた。母もまた、あの紙を燃やすことも、捨てることもせず、ただ布袋の奥にしまい込んでいた。消したい気持ちと、残したい気持ちの両方を、二十年抱えたまま。

「先生。これは、罪の記録じゃないんですね」

「まだ、そこまでは言えない」

「でも、少なくとも、何も感じていない人間の手じゃない」

先生は初めて、はっきりと頷いた。

「そうね。何も感じていない人間は、消し跡をこんなに丁寧に均さない。均すというのは、消えないことを分かっていながら、それでも見た目を整えようとする行為よ。矛盾した手つきなの」

私はノートをもう一度、そっと持ち直した。冷たい保管庫の空気の中で、紙だけがわずかに湿り気を保っている。窓のない部屋にいると、時間の感覚が曖昧になる。二十年前のこの手が、今の私の手と同じ場所で、同じ迷いを抱えていたことが、急に近く感じられた。

「持って帰りますか」

「いいえ。ここで記録する。写真を撮って、発見場所と状態を書いて、それから元の位置に戻す」

「戻すんですか」

「戻す。これは、まだ誰の証言でもないもの。証言にするかどうかは、これを書いた人が決めることよ」

私はカメラを構え、ノートの見開き、消し跡、走り書きの部分を順番に撮った。シャッター音が、誰もいない保管庫に小さく響く。先生はその間、懐中電灯の角度を変えながら、私が撮り漏らした場所がないかを確かめていた。

撮影を終えて棚に戻すとき、指先が紙の縁をこすった。ざらついた感触の奥に、まだ消えきらない修復液の匂いが残っている。私はその匂いを、忘れないように一度深く吸い込んだ。

「先生」

「なに」

「もし高遠さんに会えたら、私は何を聞けばいいんでしょうか」

先生は鍵束を握り直し、扉のほうへ向き直った。

「聞くことより先に、渡すことを考えなさい。あなたが見つけたものを、まず彼女の前に置く。答えを求めるより先に、彼女が何を見るかを見なさい」

保管庫の扉を閉めるとき、外の廊下から、乾いた風が忍び込んできた。落ち葉の匂いと、養生シートの湿った匂いが混じり合い、晩秋の夕暮れが、ここにも確かに存在していることを教えてくれた。

私は棚の奥に残されたノートの位置を、もう一度だけ目に刻んだ。

消したいのに、消せなかった言葉。

それは、届かなかった合図であり、同時に、届けたかった証拠でもあるのだと、私はそのとき初めて気づいた。

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保管庫の奥のノート - 沈黙の夕景 - 誰でも作家life