第3話 西棟三階、午後八時

翌日の夕方、私は桐生先生と二人で、美術室の照明を一つだけ残していた。
天井の蛍光灯を全部つけると、絵具の色が平たくなる。白い光が作品の表面を均してしまい、重ねられた層も、擦られた跡も、同じ明るさの中へ押し込められるからだ。先生はいつも、必要な場所に必要な角度の光だけを置く。見るという行為にも、道具がいる。
机の中央には、《未完成の夕景》が裏返しに置かれていた。隣には、昨日撮影した写真、学内展配置図、卒業生名簿、そして私が写し取った記号列が並んでいる。紙の端は揃えてある。揃えてあるのに、資料同士の中身だけが、どうしても同じ場所へ収まらなかった。
窓の外では、養生シートが風に膨らんでいる。湿った布が木枠を撫でるたび、ざあ、と低い音が美術室へ入り込んだ。校庭の銀杏はもうほとんど葉を落としているはずなのに、白い膜の向こうでは、夕暮れの色だけが薄く残っていた。
先生は、裏打ち紙の端にヘラを当てた。
「昨日の写真を、もう一度見せて」
私は写真を先生の手元へ滑らせた。文化祭前夜の展示風景。壁に並んだ作品。白く飛んだ右端。途中で切られた人影。写真の裏には、後から書き足された「二十時」の数字がある。
先生は写真を表に返し、指で白く飛んだ部分をなぞった。
「ここを撮った人は、画面を切ったんじゃない」
「どうしてですか」
「光の入り方が不自然よ。窓からの光なら、作品の表面にも同じ方向の反射が出る。でも白く飛んでいるのは、右端の一部分だけ。近くに何か、反射するものがあった」
「ガラス?」
「たぶん。額縁のガラスか、窓そのもの。ただし、撮影者はそれを避けていない。避けられなかったか、避けなかったか」
私は写真を覗き込んだ。画面の右端には、白い袖のようなものがある。その下に、細い手首。指先には赤い色が付いているように見えた。
絵具だと思っていた。
けれど、よく見ると赤は指先ではなく、握られた紙の端に滲んでいる。
「この人、何か持っています」
「ええ。折った紙か、色紙のようね」
「朱音でしょうか」
先生はすぐに答えなかった。
私は名簿を開いた。二十年前の卒業生の名前が、五十音順ではなくクラスごとに並んでいる。西園寺朱音。名前の横には何もない。高遠しのぶの横には、鉛筆で薄い点が二つ。ほかの名前にはない印だった。
「西園寺朱音の名前には、印がありません」
「印がないから関係がないとは限らないわ」
「でも、高遠にはある」
「印を付けた人間が、高遠さんを記録したかった可能性もある。あるいは、記録から外したかった可能性もある」
先生は名簿の紙面を少し持ち上げ、裏から光を当てた。紙の繊維が透け、名前の周辺だけ、わずかに色が違って見える。
「このページ、差し替えられている」
「綴じ直した跡があります」
「そう。元の紙を外して、新しい紙を綴じた。けれど、穴の位置が完全には合っていない」
先生が指した綴じ穴は、ひとつだけ横へずれていた。紙をいったん外し、別のものに替えてから、同じ束へ戻した跡だった。
「朱音の名前を消したんですか」
「名前そのものを消したなら、もっと分かりやすくなる。ここで消されたのは名前ではなく、名前の周囲にあったものだと思う」
私は名簿の余白を見た。朱音の行の上下には、薄い擦れがある。何かを書き込んでから消したようにも、紙を押さえていたものを外したようにも見えた。
そのとき、記憶の底から、ひとつの場面が浮かんだ。
幼いころ、母の裁縫箱の底で見つけた紙片。青い線と、二つの点。私はそれを面白い模様だと思って、指でなぞった。母はすぐに取り上げ、何も言わずに布袋へ戻した。怒られた記憶はない。ただ、母の手がひどく冷たかった。
私は紙の端をこすった。
「先生。母の紙片には、中央に二つの点がありました」
「あなたが見た配置図の印にも?」
「はい。完全には同じではないけれど、中央の位置が同じです」
「その紙片は、持ってきている?」
「母の家にあります」
「なら、取りに戻る前に、もう少しここを見ましょう。家族の物を調べるのは、最後でいい」
「母が知っていることを、最後まで知らないままにしたくありません」
「知ることと、急いで問い詰めることは違うわ」
先生はヘラを置いた。机の上に、金属が触れる乾いた音がした。
「透子。あなたは、誰かが黙っていると、その空白を自分が埋めなければならないと思っているでしょう」
私は返事をしなかった。
「でも、空白には二種類ある。言えなかった人が残したものと、言わないことで他人を閉じ込めた人が残したもの。見た目は似ているけれど、扱いは違う。だから、まず誰が、いつ、どの場所で、その空白を作ったのかを確かめる」
「そのために、午後八時なんですね」
先生がこちらを見る。
「そう。時間が場所に結びついているなら、記号は作品の中だけで完結していない。展示室を歩く人間の動線を使って、別の場所へ視線を送っている」
私は配置図を広げた。
入口は東側。卒業制作は南の壁から西の壁へ順に並び、最後に廊下へ出る。だが、実際の写真では《未完成の夕景》が図面と反対側に置かれている。番号も入れ替わっている。作品を見る順番が変えられ、その結果、観客の目は西棟三階の廊下へ向かう。
記号列の短い線を、配置図の壁番号に重ねる。
三。五。空白。二。斜線。
そこへ、写真の裏に書かれた二十時を加える。
「三番と五番の間に、作品が一つ抜けています」
「抜けたのではなく、抜いたのかもしれない」
「その場所に、何かあった」
「何か、あるいは誰かがいた」
先生の言葉で、絵の左側にある広い余白が急に別の意味を持った。
そこは、何も描かれていない場所ではなかった。人が立つための空間。作品を見上げるためではなく、誰かが立ち止まり、声をかけられるための空間だった。
私は立ち上がり、部屋の入口へ移動した。そこから《未完成の夕景》を見る。右端の鈍い朱が、廊下の突き当たりを指している。さらにその先、階段の踊り場。西棟三階へ上がる階段の入口には、古い文化祭案内がまだ残っている。
私は案内を見た。
昨日、裏から覗いていた群青色の線は、紙の模様ではなかった。案内の裏面に、配置図の補助記号が書かれている。三つの短い線と、二つの点。最後に、斜めへ走る線。
先生が私の隣へ来た。
「西棟三階へ行くわ」
「今からですか」
「暗くなる前に確認する。午後八時の記録を追うなら、昼間の見え方も必要よ」
廊下へ出ると、冷気が頬に触れた。美術室の絵具の匂いが背後へ薄れ、湿った木の匂いと落ち葉の乾いた匂いが強くなる。階段の手すりは冷たく、指先がすぐにかじかんだ。
私たちは一段ずつ上がった。
踊り場の窓は、養生シートで塞がれている。白い膜が外の景色を隠しているため、階段の途中で上下の感覚が途切れた。上へ進んでいるのに、同じ場所を回っているような心細さがある。
西棟三階の廊下は、ほかの階より狭かった。壁際に古い机が並べられ、その上へ処分予定の掲示板や額縁が積まれている。床にはチョークの粉が薄く残っていた。誰かが線を引き、途中で消した跡。粉は消えているのに、完全には消えず、白い影になっている。
私は廊下の中央に立った。
《未完成の夕景》の余白を思い出す。左側の空白。右端に詰められた朱。入口から見たとき、視線が押し出される方向。
「ここです」
壁の前に、古い掲示板があった。文化祭案内の裏側には、群青の線が一本。線の先は、掲示板の下に置かれた木箱へ向いている。
先生が木箱の蓋を確認した。
「触る前に、周囲を撮る」
私はスマートフォンを取り出した。掲示板全体、紙の角、木箱の位置、床の粉。順番に記録する。シャッター音が、誰もいない廊下に小さく響いた。
木箱の中には、古い展示用の金具と、折れたイーゼルの脚が入っていた。底に一枚だけ、厚手の白い紙がある。取り出すと、紙の表面に赤い染みがあった。絵具が乾いている。紙は何度も折られ、折り目の内側だけが薄く黒ずんでいた。
先生は紙を見た瞬間、手を止めた。
「これは、展示配置図の切れ端ね」
中央に、見慣れた三つの点。端に、かすれた文字がある。
――八時に、戻る。
私は息を詰めた。
戻る。制作ノートの末尾で、半分だけ剥がされていた言葉。
「朱音が書いたんでしょうか」
「筆跡を比べる必要がある」
「でも、ここへ戻るつもりだった」
「そう読める」
「戻れなかった?」
先生は紙片を見つめたまま、すぐには返さなかった。
廊下の向こうで、どこかの窓が鳴った。養生シートが風に押され、校舎全体が一度だけ息をついたように揺れる。
「透子。ここで決めつけないで」
「決めつけていません。ただ、午後八時にここへ来る人がいて、その人が戻ると言い残して、記録から消えた。そう考えるしかないところまで来ています」
「考えることと、断定することは別よ」
「じゃあ、何を見ればいいんですか。朱音の名前は名簿にある。作品には姿が残っている。配置図には、誰かが戻る場所が書かれている。それなのに、みんな名前だけを見て、そこにいた人のことを見ない」
声が廊下へ広がった。
先生は私を止めなかった。代わりに紙片の端を押さえ、折り目をゆっくり開いた。
「あなたは、朱音さんを救いたいのね」
「もう二十年前のことです」
「時間は、救いたいという気持ちを消してくれないことがあるわ」
「でも、私には何もできません。戻れない。聞けない。本人が何を考えていたのかも分からない」
「分からないから、残されたものを読む。けれど、読んだものを自分の物語にしてはいけない。朱音さんが残したものは、あなたを主人公にするためではないわ」
その言葉が、胸の奥に冷たく入った。
私はしばらく紙片を見た。赤い染みの周囲には、爪で擦ったような跡がある。何度も折り直し、開き直したせいで、紙の繊維が毛羽立っていた。助けを求めることさえ、誰かに見られるのを恐れていた人の手つきに見えた。
「それでも、見つけた人には責任があると思います」
「責任?」
「見つけたのに、また元の場所へ戻して、なかったことにする責任です」
先生の目が、わずかに細くなった。
「それは責任ではなく、再び沈黙に加わることよ」
「じゃあ、私はどうすれば」
「記録する。誰のものか分からないなら、分からないまま残す。いつ、どこで、どんな状態で見つかったかを書く。そうすれば、次に見る人が、あなたの記憶だけに頼らずに済む」
先生は紙片を私へ差し出した。
「救うという言葉は、時々、救われる側から声を奪う。あなたができるのは、朱音さんの代わりに話すことではなく、朱音さんが残した声を、これ以上歪めないこと」
私は紙片を受け取った。厚手の紙は冷たく、折り目だけが指に引っかかった。
そのとき、階段の下から靴音が聞こえた。
一つ。間を置いて、もう一つ。
私と先生は振り返った。
白い養生シートの向こうから、誰かが廊下へ上がってくる。顔は見えない。靴底がチョークの粉を踏み、しゃり、と鳴った。人影は踊り場で止まり、こちらを見上げた。
私は反射的に紙片を握りしめた。
けれど先生が、私の手首を静かに押さえた。
「強く持たないで。紙が傷む」
その声に促され、私は指の力を抜いた。
人影は、廊下の手前で立ち止まっていた。白い養生シートに遮られ、輪郭だけがぼやけている。やがて足音は下へ戻っていった。
残ったのは、チョーク粉の上に重なった新しい跡だけだった。
先生はその跡を見た。
「今日は、ここまでにする」
「誰だったんでしょう」
「確認できないことは、確認できないまま記録する」
私は頷いた。
美術室へ戻る道で、窓の外の空が少しずつ暗くなっていった。白い養生シートは、夕暮れの色を薄く受けて、灰色から藍色へ変わっていく。外の景色は見えない。それでも、その向こうに夜が来ていることだけは分かった。
机へ戻り、私は紙片を中性紙の上へ置いた。
先生が保存用の封筒を用意する。私は日付と発見場所を書いた。西棟三階、廊下。午後四時三十六分。木箱の底。紙片一枚。赤い絵具の染み。群青色の記号。
最後に、読めた文字を書いた。
――八時に、戻る。
書き終えたところで、私はペンを止めた。
「先生」
「なに」
「この紙の『戻る』は、誰かが朱音へ向けた言葉かもしれません」
「どういう意味?」
「朱音が戻るのを待っていたんじゃなくて、誰かが朱音に戻ってきてほしいと伝えた。でも、朱音は戻れなかった。あるいは、戻ったのに、誰も迎えに行かなかった」
先生は封筒の口を閉じずに、紙片を見ていた。
「その可能性はあるわね」
「だったら、この暗号は場所を示しているだけではありません。来てほしいという合図です。遅すぎても、誰かが見つけるように残した」
「誰が残したのかは、まだ分からない」
「でも、誰かに届くことを望んでいた」
先生はゆっくりと頷いた。
「ええ。そこだけは、作品の傷が言っている」
私は《未完成の夕景》を表へ返した。
鈍い朱は、暗くなった美術室の中でも消えていなかった。むしろ、周囲の色が失われるほど、そこだけが残った。誰かが灰を重ね、見えないようにずらし、それでも完全には塗りつぶさなかった色。
私はその色を見つめた。
朱音という名前を、まだ口にするたび、知らない人の名を借りているような感覚がある。けれど、名簿の空白も、写真の白い袖も、午後八時の記号も、少しずつ一人の人間の輪郭へ変わってきた。
その人は、消えたのではない。
消されたままにされようとして、それでも、紙と色と配置の中へ自分を残した。
私は封筒を机の端へ置いた。保存棚へ戻すには、まだ早い。けれど、持ち帰ることもしない。誰かの記憶を自分の部屋へ囲い込むようなことはしたくなかった。
窓の外で、養生シートがまた大きく膨らんだ。
白い膜の向こうに、足場の黒い影が浮かぶ。学校は取り壊される。壁も窓も、床に残った粉も、いつかなくなる。それでも、なくなる前に見つけられたものは、見つけたという事実ごと残せる。
私は記録用紙の余白に、ひとつだけ短い線を引いた。
その隣に、点を二つ置いた。
そして、線と点のあいだに、広い空白を残した。
そこへ誰かが立てるように。
誰かが、遅れて戻ってこられるように。
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