2話 記号の癖

翌日の美術室は、昨日より寒かった。

朝から曇っていた空が昼を過ぎても晴れず、養生シートの向こうの光は、薄い灰色のまま窓に貼りついている。風が吹くたび、シートが木枠を撫でた。ざ、ざ、と湿った音が続く。その音を聞いていると、校舎全体が大きな紙袋に包まれ、外から切り離されていくような気がした。

私は《未完成の夕景》を机の中央に置き、昨日写し取った記号列を隣に並べた。

透かしのない中性紙に、鉛筆で線と点を写しただけのものだ。元の傷を増やさないよう、筆圧はできるだけ軽くした。けれど、写し取った記号を見ているうちに、鉛筆の線のほうが本物よりも生々しく感じられてきた。

短い線が三つ。そのあとに二つの点。少し広い空白。角度の違う切れ目。さらに短い線。

私は懐中電灯を点け、光を斜めから当てた。照明を消した美術室で、記号の凹みだけが薄く浮かび上がる。刻まれた線は、数字にも文字にも見えた。けれど、意味を決めようとすると、どちらにも寄りきらない。

「それ、昨日から同じところを見ているわね」

真帆先生が、保管庫から紙箱を抱えて戻ってきた。箱の底には、古い布が敷かれている。先生は箱を机の端に置くと、私の向かいに腰を下ろした。

「見ていると、どこかで見たことがある気がして」

「似たものを知っているの?」

「先輩の色票メモです。色名の横に、小さな印が付いていました。朱なら短い線、群青なら点を二つ、みたいに。色の名前を隠すためではなくて、見た人にだけ分かるようにする印でした」

「その先輩は、誰に教わったの?」

私は答えかけて、一拍置いた。

「分かりません。私が入部したときには、もう卒業していました。部室の棚に色票だけが残っていて、使っていいと言われたんです」

「誰に?」

「たぶん、当時の三年生です。名前は……」

名前を思い出そうとすると、記憶の端に夕方の美術室が浮かんだ。窓際に立つ細い背中。絵具の乾いた膜を爪でこすっている手。けれど顔だけが、白く抜けている。

私は指先で中性紙の端をこすった。

「思い出せません」

「思い出せないのか、思い出したくないのかは、急いで決めなくていいわ」

先生はそう言って、紙箱から薄いヘラを取り出した。

「ただし、記憶と記録は別に扱いなさい。あなたが先輩の印を覚えている。それは記憶。ここに同じ癖がある。それは観察。二つを重ねるのは、そのあとよ」

先生の言葉を聞きながら、私は記号の間隔を測った。線と線の距離はほぼ一定だった。けれど、中央の空白だけがほかより長い。昨日の絵で、左側の余白が広かったことを思い出す。

「この空白、絵の余白と同じ幅です」

「測ってみましょう」

先生は定規を取り出し、作品の余白と記号の空白を順に測った。数字を書き留める手つきは速いが、紙を押さえる指だけは丁寧だった。

「完全には一致しない。でも、偶然とも言い切れない」

「空白を記号にすることってあるんですか」

「あるわ。何も置かれていない場所を、何もないまま使う。展示ではよくあることよ。視線を止めたり、次の作品へ送ったりするためにね」

「この絵は、見る順番を指定している?」

「そう考える根拠が必要ね」

先生は作品を一度、壁に立てかけた。正面からではなく、部屋の入口から斜めに見る。私も隣に立った。

正面では、夕景の右端にある鈍い朱しか目に入らない。けれど入口から見ると、朱の先にある空白が、廊下側の壁へ視線を押し出している。そこには、昨日から残されている古い展示配置図があった。

「見え方が変わる」

「ええ。立つ場所を変えると、作品の外側まで画面になる」

先生は配置図の前まで歩いた。私はその後ろを追った。床のチョーク粉が靴底の下で乾いた音を立て、窓から入る冷気が足首を這う。廊下へ出ると、美術室の匂いが少し薄れ、代わりに湿った木材と落ち葉の匂いが濃くなった。

展示配置図には、壁の番号と作品の題名が書かれている。青鉛筆の線は薄く、ところどころ消しゴムで擦られていた。私は《未完成の夕景》の位置から、隣の壁、入口、廊下の突き当たりへと指を動かした。

「右端の朱から、ここへ視線が移る。配置図の上では、次にこの壁の作品を見ることになる」

「作品番号は?」

私は名簿を開いた。題名の横に、赤いペンで番号が書かれている。ところが、配置図の番号とはひとつだけ違っていた。

「三番と五番が入れ替わっています」

「もう一度」

「配置図では《未完成の夕景》が三番。その隣が五番。でも名簿では、夕景が五番で、隣の作品が三番です」

先生は配置図と名簿を重ねた。紙の端をそろえる癖がある人なのに、今回はわざと少しずらした。二枚の紙の間から、薄く消された別の番号が見えた。

「書き換えられた跡があるわね」

「消して、上から書いています」

「誰が書いたかは分からない」

「でも、順番を変えたことは分かる」

私は配置図に描かれた線を目で追った。作品の並びだけではなく、鑑賞者の動線を示す矢印がある。入口から中央の壁へ進み、そこから西側へ折れる。最後に廊下へ出る線。その途中で、ひとつだけ矢印が途切れていた。

「ここ、廊下へ出る前で止まっています」

「紙が擦れて消えただけかもしれない」

「でも、矢印の先に空白があります」

「透子」

先生は私を見た。

「あなたは空白を見ると、すぐに誰かの意図を置きたくなる。それは強みだけれど、同時に危うい。見落とされたものを拾う目は、見落としではないものまで拾ってしまうことがあるから」

「分かっています」

「本当に?」

「……分かっていないかもしれません。でも、変だと思ったものを、変ではないことにするのも嫌です」

先生は少し黙った。廊下の天井から、古い蛍光灯が一度だけ明滅した。

「私も、昔はそうだったわ」

先生の声は低かった。

「生徒の作品を見ていて、傷や塗り直しを見つけると、すぐに理由を知りたくなった。失敗したのか、誰かに直されたのか、途中で気持ちが変わったのか。でも、作品の傷には、作った本人にも説明できないものがある。説明できないまま残したものを、こちらの都合で意味づけるのは、別の種類の乱暴さよ」

「じゃあ、何をすればいいんですか」

「見つけた順番を守る。まず、ここに違う番号がある。次に、作品の余白と記号の空白が似ている。さらに、裏打ちの一部が貼り直されている。その三つを記録する。誰かへの伝言だと断定するのは、そのあと」

「そのあとに、伝言ではないと分かったら?」

「それも記録する」

先生は配置図を丁寧にファイルへ戻した。

「作品を読むというのは、答えを出すことじゃない。消されかけたものを、消されかけたまま扱うことでもあるのよ」

その言葉を聞いたとき、私は母の顔を思い出した。

昨日の夜、夕食の席で学校の話をしたとき、母の肩がわずかに硬くなった。皿の位置を揃え、味噌汁の椀を私の手元へ寄せる。いつもなら「寒かったでしょう」と言うところを、何も言わなかった。

私は名簿を閉じた。

「先生。母が、この学校のことを知っているかもしれません」

先生の手が止まった。

「なぜそう思うの」

「昨日、配置図と同じ印が付いた紙を、母の裁縫箱から見つけました。古い紙片です。学校のものかどうかは、まだ分かりません。でも、記号の形が同じでした」

「見せてもらったの?」

「母には言っていません」

「勝手に持ち出した?」

「……はい」

「戻した?」

「戻しました」

先生はため息をついた。責める声ではなかったが、私の胸の奥に細い痛みが入った。

「透子。身近な人の沈黙を調べるときは、資料より慎重になりなさい。学校の記録なら、傷つくのは紙だけ。でも家族の記憶は、触り方を間違えると相手の生活まで崩す」

「母は、何かを隠しています」

「隠していることと、話せないことは違うわ」

「でも、話さないことで、誰かのことをなかったことにしているなら?」

言葉が廊下に落ちた。

養生シートが窓の外で大きくたわみ、白い光が廊下の床へ流れ込んだ。先生の顔の半分が光に浮かび、半分が影に沈む。

「その問いは、あなた自身にも返ってくるわよ」

「私に?」

「昨日、名前の前で止まったでしょう。先輩の名前を思い出せなかった。あなたは忘れたのではなく、見ないことにしている部分があるのかもしれない」

私は答えられなかった。

古い美術室で、誰かが色票を並べていた。名前を呼ばれたような気もする。けれど、その声は養生シートの向こうへ吸い込まれている。

先生は机へ戻り、《未完成の夕景》を裏返した。

「もう一度、裏打ちを見るわ。記号を読む前に、どの順番で貼られたかを確認する」

私は懐中電灯を持ち、先生の肩越しに作品を照らした。裏打ち紙の端には、古い糊の黄変がある。その上に、別の紙が細く重ねられていた。貼り直された層は、記号列の中央を横切っている。

「ここです」

「ええ。紙の繊維が逆立っている」

「剥がしても大丈夫ですか」

「大丈夫とは言わない。必要なら剥がす。ただし、剥がす前に写真を撮る」

先生は記録用のカメラを取り、位置、角度、光の方向を一つずつ確認した。私は言われた通り、作品の全体、裏面、記号の拡大を撮った。シャッター音が美術室に乾いて響く。

先生がヘラを紙の境目へ差し入れた。

紙が、ごく小さく鳴った。

薄い層の下から、別の線が現れる。先ほどの記号よりも乱れた筆跡で、三つの点と、斜めに走る一本の線が刻まれていた。私はその形を見た瞬間、古い色票メモの端にあった印を思い出した。

「これ……高遠、という名前の最初の文字に似ています」

「名前を知っているの?」

「名簿で見ました。高遠しのぶ。二十年前の卒業生です」

「記号が名前を示しているとは限らないわ」

「でも、彼女だけ、作品の作者欄に印が付いています」

私は名簿を開いた。高遠しのぶの名前の横には、ほかの生徒にはない小さな点が二つあった。昨日はただの汚れに見えたものだ。

先生は名簿の一点を指で押さえた。

「これは、紙の傷ではないわね」

「誰かが付けた印です」

「そう。でも、誰が何のために付けたかは、まだ分からない」

先生は名簿を閉じず、そのまま私のほうへ向けた。

「ここから先は、あなたが決めなさい。記号を追えば、作品を作った人間の名前に近づく。名前に近づけば、その人が残したものだけでなく、残さなかったものにも触れることになる」

「私は知りたいです」

「何を?」

「この作品が、誰に向けて残されたのか。どうして隠されたのか。誰が見ないふりをしたのか」

声が思ったより強く出た。自分でも驚いた。先生は驚かなかった。

「そして、母が何を知っているのかも?」

私は返事の前に、一拍置いた。

「はい」

「なら、まず家に帰って、母に聞きなさい。裁縫箱の紙片を見たことではなく、南星高校の二十年前について。どこまで話すかは、母が決めることよ」

「話してくれなかったら?」

「その沈黙も、ひとつの答えになる。ただし、沈黙を証拠にして誰かを裁いてはいけない」

先生は記号の写しを私へ返した。

「あなたが今追っているのは、犯人探しだけではないわ。あの頃、誰も声を上げなかった理由を探している。理由が分かれば許せるとは限らない。でも、理由を知らずに責めれば、同じように人を一つの色で塗りつぶすことになる」

日が落ち始めていた。窓の養生シートは、夕暮れの光を白く濁らせている。美術室の石膏像の頬に、薄い灰色の影が落ちた。

私は《未完成の夕景》を布で包んだ。保存用の棚には戻さず、先生の机の下に置く。記号の写しと配置図の複写を、同じ封筒へ入れた。

帰り支度をして廊下へ出ると、床のチョーク粉が靴先に付いた。私はその粉を払わずに歩いた。階段を下りるたび、木の手すりが冷たくなる。窓の外では、銀杏の葉が風に押されて、校舎の壁際へ集まっていた。

昇降口まで来たところで、私は足を止めた。

掲示板の隅に、古い文化祭の案内が残っている。紙は黄ばんで、端がめくれていた。裏側に、群青色の線が一本だけ見える。昨日の記号と同じ角度だった。

私は手を伸ばしかけた。

けれど、先生の声を思い出して、指を下ろした。

見つけたこと。場所。向き。周りに何があるか。

私はスマートフォンを取り出し、案内の全体を撮影した。めくれた紙の角、掲示板の釘、床に落ちたチョークの粉まで、順番に記録する。

外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。校門の向こうでは、閉校を知らせる横断幕が街灯に照らされている。統合先の学校名と、最後の文化祭の日付。その下を、知らない中学生が二人、笑いながら通り過ぎていった。

この学校を去る人間と、これから別の学校へ移る人間。残された建物を見上げる人間と、そこに何があったか知らないまま歩いていく人間。私はその境目に立っていた。

家へ戻ると、母は台所で食器を拭いていた。皿は流し台の右端から大きさ順に並べられている。濃いコーヒーの匂いが、夕飯の残り香に混じっていた。

「遅かったね」

「うん」

「寒かったでしょう。上着、そこに掛けて」

母は私の襟元へ手を伸ばし、乱れた布を直した。いつもの仕草だった。けれど、指先が首に触れる直前で止まった。

「お母さん」

「なに」

「南星高校の二十年前の文化祭って、何かあった?」

布巾を絞る音がした。水が流れ、排水口へ落ちていく。

母はすぐには答えなかった。マグカップの縁を親指でなぞり、それから食器棚の奥へ視線を逃がした。

「昔の学校のことなんか、今さら聞いてどうするの」

「美術室で、古い作品を見つけたの。《未完成の夕景》っていう絵」

母の手が止まった。

「その名前、誰に聞いたの」

「作品に書いてあった」

「そう」

「裏に記号がある。展示配置図と同じ印が付いていて、二十年前の文化祭の記録も書き換えられている。お母さんの裁縫箱にあった紙にも、同じ印があった」

母は布巾を畳んだ。角と角を合わせ、何度も指でなぞる。

「勝手に見たのね」

「ごめん。でも、見つけた以上、知らないふりはできない」

「知らないふりじゃない。知らなくていいこともあるの」

「それは、誰が決めるの?」

母の顔が上がった。怒っているように見えたが、目の奥には別の色があった。濃い藍のような、光を吸い込む色。

「あなたが知れば、どうにかなるの? 消えた人が戻るの? 誰かが急に正しい人になって、誰かが悪い人になって、最後に全部きれいに整理されるの? そんなふうにはならない。学校にいた人たちは、今もこの町で暮らしている。仕事をして、子どもを育てて、明日の予定を考えている。そこへ二十年前の夜を持ち込んで、あなたは何をするの」

「何もしないなら、作品を捨てて、記録を消して、なかったことにするの?」

「そうは言ってない」

「でも、お母さんはずっと学校の話をしなかった」

「あなたを巻き込みたくなかったのよ」

「私が何も知らないままなら、巻き込まれていないことになる?」

言ってから、胸が詰まった。母も黙った。

台所の時計の秒針だけが、乾いた音を立てて進んでいく。私は自分の手のひらを見た。チョークの粉が、まだ爪の脇に残っていた。

母は視線を落とし、裁縫箱のほうへ手を伸ばした。けれど蓋には触れず、その横に置かれた古い布袋を押さえた。

「その紙は、私が持っていていいものじゃなかった」

「誰の?」

「名前を聞いてどうするの」

「その人が何を残したのか知りたい」

「残したんじゃない。残ってしまったのよ」

母の声が、そこで初めて揺れた。

「透子。作品や記録は、いつも誰かを救うわけじゃない。残されたものを見る人間が、救われるとは限らない。見たせいで、背負わされることもある。私は、あなたにその重さを持たせたくなかった」

「それでも、もう見つけた」

「だから怖いのよ」

母はマグカップを両手で包んだ。濃いコーヒーの表面が小さく震える。

「あなたが私を責めることが怖いんじゃない。あなたが、私と同じように黙ることが怖いの」

私は何も言えなかった。

母はしばらく窓の外を見ていた。夜のガラスには、台所の明かりだけが映っている。そこに私たちの姿が重なり、二人とも輪郭が曖昧だった。

「今日はもう、寝なさい」

「話してくれないの?」

「今は無理」

「いつなら話せる?」

母は答えなかった。ただ、私の袖口を直した。ほつれた糸を見つけ、爪先で切る。そうしてから、ようやく言った。

「紙を見つけたなら、元の場所へ戻して。持っていないほうがいい」

「どうして?」

「それが誰かに見つかることを、あの人が望んでいたのか、私には分からないから」

「あの人って、誰?」

母の指が止まった。

けれど母は名前を言わなかった。

私は自分の部屋へ戻り、机の上に今日撮った写真を並べた。記号の写し、配置図、名簿、高遠しのぶの名前。そこへ、母の裁縫箱で見つけた紙片の形を記憶だけで描き足す。

線は、完全には重ならなかった。

それでも、中央の二つの点だけは同じ位置にあった。

私は《未完成の夕景》の右端にあった鈍い朱を思い出した。隠された色は、消えた色ではない。見え方を変えられて、なお残っている色だ。

母の沈黙も、同じなのかもしれない。

隠されているのではなく、別の形に塗り替えられている。触れれば下の層が現れる。けれど、剥がすには、その下に何があるかを引き受けなければならない。

窓の外で、風が養生シートを揺らした。

私はスマートフォンの画面を消し、紙の端を指で押さえた。

明日、もう一度、美術室へ行く。

そして高遠しのぶの名前の横にある印が、何を示しているのか調べる。母が話すのを待つだけではなく、残されたものを順番に読む。

去る側になる前に、少なくとも一度は、見落とされた場所へ目を向けるために。

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