1話 養生シートの白

養生シートが窓の外側に張られてから、美術室の夕方は色を失った。

白い布が古い木枠にぴたりと貼りつき、風が吹くたび、湿った膜のようにたわんだ。校庭の銀杏も、向かいの校舎の壁も、帰りを急ぐ生徒の影も、その向こうにあるはずなのに見えない。光だけが薄く透けて、外の景色を一枚ずつ剥がしていた。

私は窓から目を逸らし、壁際に積まれた額縁へ向き直った。

閉校まで、あと三週間。美術棟は来月から解体業者の管理に入り、残す作品と処分する備品の仕分けが今日の仕事だった。美術部にいた頃から、物を並べるときには向きと間隔をそろえる癖がある。だから、山積みになった額縁を見ていると、胸の奥に細い砂が入り込んだような落ち着かなさがあった。

「それ、分類は後でいいから。まず床を空けて」

桐生真帆先生が、教卓の上で書類を揃えながら言った。先生は作品を触る前に、必ず一度、手を止める。長い指先が宙でわずかに浮き、額の木枠や紙の傷み具合を見てから、ようやく持ち上げる。その慎重さは、作品だけではなく、人に対しても同じだった。

「分かっています。けど、この束、制作年度が混ざっています」

「混ざっているんじゃなくて、混ぜられているのかもしれない」

先生は顔を上げなかった。

廊下のどこかで、靴底が乾いた粉を踏んだ。しゃり、と小さな音がして、すぐに消える。放課後の見回りをしている人がいるのだろう。窓の向こうでは養生シートが、ざ、と壁を擦っている。落ち葉の匂いに、古い絵具と木枠の乾いた匂いが重なっていた。

私は額縁を一枚ずつ下ろした。裏面の金具は冷たく、指先に薄い錆がつく。額の中身を確認し、保存するものには青い付箋、廃棄するものには赤い付箋を貼る。赤い付箋を貼るたび、絵の前に立っていた誰かの時間まで、紙一枚で片づけてしまうような気がした。

「先生」

「なに」

「これ、全部捨てるんですか」

「全部ではないわ。保存状態と記録の有無で決める」

「記録がないものは?」

先生は返事をしなかった。

私は質問を取り消すように、手元の額を持ち替えた。そのとき、画架の裏側に何かが引っかかっているのが見えた。積み重ねた額の陰に、ほかの作品とは違う細い木枠がある。壁に立てかけられているというより、誰かが隠すように押し込んだ形だった。

手を伸ばすと、古い埃が袖口に落ちた。画架を少し動かす。床に残ったチョークの粉が白くずれ、長いあいだ動かされていなかった跡が現れた。

「透子、待って」

先生の声が背中に届いた。

けれど、もう指は木枠に触れていた。

引き出した額は、思ったより軽かった。表面のガラスは曇り、右下の角には細いひびが入っている。裏返すと、マット紙の端に題名が書かれていた。

《未完成の夕景》。

題字だけは妙に整っていた。濃紺のインクで、文字の大きさも間隔も揃っている。けれど、紙の中央に見える絵具の層は、題名ほど整っていなかった。

夕暮れの空を描いた作品だった。

鈍い朱、灰色がかった橙、薄い群青。画面の左側には広い余白があり、右端にだけ、夕日の残りのような赤が詰められている。空の一部に、別の色を上から重ねた痕跡があった。赤を塗りつぶしたのではない。いったん乾いた層の上に、薄い灰を置き、その上からまた赤を戻している。

私は無意識に、絵の前で一歩引いた。

色が違う。

ほんの少しだけ、右端の朱が鈍い。そこだけ光を拒んでいるのではなく、何かを隠すために、色の呼吸を止められている。右側の余白は不自然に詰まり、左側の空白は、誰か一人が立てるほど広い。

美術部にいたころから、私はそういうずれを見過ごせなかった。色見本帳を眺めていて、隣り合う二色の境目にわずかな濁りを見つけると、そこから目を離せなくなる。人の顔より、背後の掲示物の曲がり方が気になる。会話の内容より、机の上で誰かが動かさなかった紙のほうを覚えている。

だから、その絵を見た瞬間、これは未完成なのではなく、途中で何かを変えられたのだと思った。

「それ、触らないで」

今度の声は、すぐ後ろにあった。

先生が修復用のヘラを持って立っている。髪に白い紙粉がついていた。私が額を抱えたまま動かないでいると、先生は急かさず、横から絵の表面を覗き込んだ。

「ガラスは外さない。傷んでいる」

「この色、上から塗っています」

「そうね」

「でも、隠すためだけなら、もっと厚く塗るはずです」

先生は私を見た。眼差しが少しだけ柔らかくなった。

「どうしてそう思うの」

「厚く塗ると、隠したことが目立つからです。これは、見えないようにしたのに、完全には消していない。見える人には見えるように残している」

先生はすぐには答えなかった。ヘラの先を絵に近づけ、光の角度を変える。養生シート越しの夕方の光が、絵具の膜の境目を浮かび上がらせた。

「直した痕跡じゃないわね」

先生の指が、赤と灰の継ぎ目の少し手前で止まった。

「隠した痕跡よ。上から塗り足してごまかしたんじゃない。見えるものをいったんずらして、別の見え方にした。そのあとで、ずらしたことだけを残している」

「誰が、そんなことを」

「それを今から調べるの。感想はあと」

先生は額の裏側を確認し、木枠の一隅を指で押さえた。

「ここを見て」

裏打ちに使われたマット紙の端に、細い傷が並んでいた。数字のようでもあり、文字の一部のようでもある。短い線、二つ並んだ点、角度の違う切れ目。刻んだというより、硬いもので何度もなぞった跡だった。

「記号……ですか」

「まだ決めない。記号だと思って見ると、何でも記号に見えるから」

「でも、間隔が揃っています」

「そこは大事ね」

先生はようやくヘラを置いた。

「物を見るとき、まず意味を探してはいけない。どんな順番で触られたか、どこが傷んでいるか、何がほかと違うかを見る。意味は最後に付いてくる」

「最後に、付いてこなかったら?」

「そのときは、付いてこなかったという事実を残すのよ」

私は記号の列から目を離せなかった。線と線の間隔はほとんど同じだったが、一箇所だけ広い。そこには、空白が置かれている。絵の左側にある広い余白と、同じ幅だった。

先生が保管庫から、古いファイルを二冊持ってきた。表紙には「平成十六年度 学内展」と書かれている。紙は湿気を吸って波打ち、綴じ穴の周囲だけが茶色く変色していた。

「この作品の記録を探すわ。展示配置図、作品名簿、写真。順番に見る」

私たちは長机を一つ空け、資料を広げた。

最初に出てきたのは、学内展の配置図だった。薄い青鉛筆で、展示壁と作品番号が書かれている。中央に大きな作品が三点、左右に小さな作品が並ぶ配置だ。《未完成の夕景》は、図面上では西側の壁の端にある。ところが作品名簿では、同じ題名の作品に別の番号が振られていた。

「題名は同じなのに、番号が違う」

「書き換えられた可能性がある」

先生は紙をめくった。下の層に、消しゴムで擦った跡が見える。題名の「夕景」の「夕」の字だけ、紙の繊維が荒れていた。

「何か別の題名だったんでしょうか」

「そうかもしれない。でも、ここでは断定しない」

「先生はいつも、断定しないですね」

「断定すると、見えなくなるものがあるから」

先生はそう言って、次の写真を机に置いた。

文化祭の展示風景を撮った写真だった。画質は粗く、窓から入る光で画面の一部が白く飛んでいる。生徒たちが壁際に並び、笑っている。誰もが展示の完成を喜んでいるように見えた。

私は写真の右端を拡大鏡で覗いた。

作品の一枚が、配置図とは逆の場所に掛けられている。画面の隅に、半分だけ人影があった。白い袖。細い手首。指先に、赤い絵具のようなものが付いている。

「この人、誰ですか」

「写真だけでは分からない」

「でも、展示図と違います」

「ええ」

「それに、この写真だけ、右端が切られている」

先生は写真を裏返した。裏面には、撮影日と「展示替え後」とだけ書かれている。日付の下に、別の筆圧で数字が書き足されていた。二十時、と読める。

私は紙の端をこすった。

そこだけ、ほかより新しい。

「先生。これ、後から書かれています」

「筆圧だけで分かる?」

「インクの沈み方が違います。最初に書かれた文字は紙の繊維に沿っているけど、下の数字は繊維を潰している」

先生は写真を受け取り、窓際へ持っていった。白い養生シートの光が、写真の表面を平らに照らしている。

「透子」

「はい」

「あなたは、この写真の欠けた部分に何があると思う?」

私はすぐに答えられなかった。

欠けた部分には、何もないかもしれない。撮影者がたまたま切っただけかもしれない。けれど、展示図と実物が違い、作品の題名が書き換えられ、写真の端にだけ誰かの袖が残っている。偶然にしては、空白の置かれ方が揃いすぎていた。

「誰かが立っていたと思います」

「誰か、とは?」

「分かりません。でも、この作品を見ていた人です。たぶん、見せるために立っていたんじゃなくて、見つけてもらうために」

先生の指が、写真の端を押さえた。

「見つけてもらうために、隠れる人もいるわ」

その言葉が、窓の向こうから聞こえるシートの音と重なった。

私は《未完成の夕景》の裏側へ戻った。記号の列を、配置図の線と重ねて考える。短い線は作品番号。二つの点は壁の角。広い空白は、作品のない場所か、誰かが立つ場所。そう考えると、最初の記号だけが妙に浮いて見えた。

私は鉛筆を取り、紙の上に写し取ろうとした。

「直接書かないで」

「すみません」

「謝らなくていい。写すなら、別紙に。元の傷を増やさない」

先生は薄い中性紙を一枚差し出した。紙の匂いは乾いていて、古い作品の裏打ち紙より少し甘かった。

「作品は、きれいに直せばいいわけじゃない。傷を消すことが、必ずしも救うことにはならないから」

「傷を残すんですか」

「残す。何が起きたか分からなくなるほど直すなら、それは修復ではなく改変よ」

先生は私の隣に腰を下ろした。

「学校がなくなると、記録は簡単に処分されるわ。古い、場所を取る、誰も見ない。理由はいくらでも付けられる。でも、見ないことと、なかったことは違う。そこを混同しないで」

「先生は、ここに残るんですか」

「学校はなくなるから、残るとは言えないわね」

「それでも、残すんですよね」

「残せるものを残す。あなたも、そのつもりで触って」

私は頷いた。

そのとき、廊下側の扉が少し開いた。冷気が細く入り込み、机の上の写真を揺らした。誰かが通った気配はあったが、足音は聞こえなかった。私は反射的に扉の隙間を見た。廊下には誰もいない。床に散ったチョークの粉だけが、白く細い線を引いている。

その線は、扉の前で途切れていた。

「先生、これ……」

先生も立ち上がり、廊下へ出た。私は後に続く。粉の線は、美術室の扉から壁際へ向かい、途中で一度だけ濃くなっていた。誰かがそこで立ち止まり、靴を引いたように見える。

先生はしゃがみ込み、粉には触れずに目だけで追った。

「今日、業者はこの廊下に入りましたか」

「午後の養生シートを張るために、何人か来ていた。でも、この棟の作業は三時前に終わっている」

「そのあと、誰かが入った?」

「見回りの人が一度。私も、あなたも」

「もう一人いるかもしれません」

先生はすぐには否定しなかった。

私は粉の先にある壁を見た。そこには剥がれかけた掲示物が一枚残っている。古い文化祭の案内だった。紙の角がめくれ、裏側から、濃い群青の線が覗いていた。案内の文字ではない。配置図にあった補助記号と、よく似ている。

私は掲示物へ手を伸ばしかけた。

「まだ触らないで」

先生の声が、今度は私を止めた。

「記録してから。順番を守って」

「でも、これが暗号なら」

「暗号だと決めるのも後。見つけたこと、場所、向き、周りに何があるか。まずそれを残す。急いで意味を掴もうとすると、見たいものだけを見ることになる」

私は手を下ろした。

白いチョーク粉が、指先に付いている。擦るとざらつきが残った。何かを書いたあとに消し、消したあとにも残る粉。養生シートが外の景色を隠しているのと同じように、ここにも見えないようにされたものがある。

美術室へ戻ると、先生は配置図、写真、名簿、《未完成の夕景》を、同じ向きに並べ直した。私は紙の端を揃え、作品の右端と写真の切れた部分を重ねてみる。

合わない。

けれど、合わないままでは終わらなかった。

作品の右端に詰められた朱と、写真の端に残った白い袖。配置図から一つだけずれた番号。裏打ち紙に刻まれた、広い空白。

それらは、同じ方向を向いていた。

「先生」

「なに」

「この作品、展示された順番を記録しているんじゃありませんか」

「どうして?」

「見え方が変わる順番です。最初にこの作品を見て、次に右側の作品を見る。そこから写真の切れた場所へ視線が移るように配置されている。絵の中の空白が、次に見る場所を指定している」

先生は配置図を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。

「もしそうなら、これは作品の説明ではないわね」

「誰かへの案内です」

「誰への?」

私は答えを口にできなかった。

窓の外で、養生シートが大きく膨らんだ。白い膜に夕方の光が押しつけられ、教室全体が一瞬だけ明るくなる。その明るさの中で、《未完成の夕景》の鈍い朱が、かえってはっきり見えた。

先生が作品の裏に置かれた古い名簿を開いた。二十年前の卒業生名簿。指先が名前の列を追い、ある行の前で止まる。

私はその動きを見ていた。

先生は名前を読み上げなかった。けれど、ページの端には、展示配置図と同じ小さな印があった。

「今日はここまで」

先生は名簿を閉じた。

「続きは、明日」

「その名前を教えてください」

「今、あなたが見つけたのは名前じゃない。名前の近くにある空白よ」

「空白を見つけたなら、そこを見ないと」

「そうね。ただし、見ることと踏み込むことは違う。踏み込むなら、自分が何を引き受けるのかを考えてからにしなさい」

私は作品の前に立ったまま、返事をしなかった。

先生はそれ以上、急かさなかった。古い鍵束を取り上げ、窓の施錠を確認する。私は名簿の表紙に残った白い粉を指先で払った。粉はすぐには落ちず、爪の間に入り込んだ。

美術室の照明を消すと、養生シートの向こうの光だけが残った。色を奪われた窓は、もう外を映さない。それでも、白い膜のどこかに人影が通ったように見えた。

私は《未完成の夕景》を、壁に戻さず机の上へ置いた。

捨てる箱にも、保存用の棚にも入れなかった。

明日、もう一度見るために。

そのとき初めて、私は自分が美術室の整理を手伝っているのではなく、誰かが残したものに呼び止められているのだと気づいた。

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養生シートの白 - 沈黙の夕景 - 誰でも作家life