第8話 海沿いの自販機

湊は坂を上り始めた。
私はその背中を追わなかった。追えば、また同じ歩幅になる。彼の半歩後ろに立ち、言葉の代わりに袖口や靴先を見つめ、聞きたいことを飲み込んだまま帰ることになる。
そう思ったのに、足は動かなかった。
坂の下には海があり、背中の方には駅と学校がある。どちらへ戻っても、今日一日の言葉がついてくる。東京には行かない。俺のことは気にしなくていい。分かったら、澪は東京に行きにくくなるだろ。
湊は三歩ほど進んだところで、足を止めた。
振り返らない。けれど、私がついてきていないことは分かっているようだった。肩がわずかに上下している。走ったあとの呼吸が戻っていないのか、それとも、まだ言い終えていないことがあるのか、私には判別できなかった。
海から風が吹いた。
坂道の脇に立つ街路樹の葉が裏返り、銀色の面を一斉に見せる。薄暗い空の下で、それは波のように揺れた。私たちの間にも、同じ風が通り抜けている。近いのに、触れられない距離だけを正確にさらっていく。
「湊」
呼ぶと、彼の背中が少し固くなった。
「なに」
振り向いた顔は、もう笑っていなかった。笑おうとする準備だけが口元に残っている。いつもの明るさを戻そうとして、戻しきれずにいる顔だった。
「さっきの傷」
「これ?」
湊は手の甲を上げた。自販機の白い光が、乾いた血の跡を浮かび上がらせる。
「店の段ボールが崩れたって言ってたよね」
「言った」
「いつ?」
「今朝」
「今朝、走って学校に来る前?」
「そう」
「それからずっと、そのまま?」
「そういうこともある」
「手を洗う時間くらい、あったでしょ」
「澪、急に看護師みたいなこと言うなよ」
「母が看護師だから」
「知ってる」
湊は手の甲を下ろした。ポケットへ入れようとしたが、途中でやめる。隠すほどではない、というふりをしているのかもしれない。
「痛くないんだ」
「痛いか痛くないかで言えば、ちょっと痛い。でも、傷ってそういうもんだろ」
「そういう言い方、嫌い」
「何が?」
「大したことじゃないみたいに言うところ」
湊は黙った。
坂の下で、車が一台、海沿いの道路を走っていった。ヘッドライトが私たちの足元を一瞬だけ照らし、すぐに暗闇へ消える。光が去ったあとも、濡れたアスファルトの上には白い残像が残っていた。
「店、そんなに大変なの」
私は聞いた。
湊はすぐに答えなかった。返事の前に一拍置く。その間が、今まででいちばん長かった。
「大変っていうか、まあ、忙しいだけ」
「おじいさんは?」
「入院はしてない」
「入院してないって答えは、元気って意味じゃないよ」
「澪、今日はよく喋るな」
「湊が喋らないから」
声が強くなった。
言ってから、胸の奥が跳ねた。湊は怒るかもしれないと思った。けれど、怒らなかった。視線を海へ向けたまま、手の甲をもう一度見た。
「じいちゃん、先週、店の奥で倒れたんだ」
風の音が、一度遠くなった。
「倒れたって……」
「意識はあった。救急車も呼んだし、検査もした。大きな病気ってわけじゃない。ただ、今までみたいに朝から晩まで店に立つのは無理だって言われた」
「それで、湊が手伝うことになったの」
「手伝うっていうか、元々手伝ってたし。野球部を辞めたときから、朝の仕分けは俺がやってた」
「野球部を辞めた理由も、それ?」
「半分は」
「半分?」
「残り半分は、俺が下手だったから」
湊は笑った。
笑ったけれど、今度の笑いは軽くなかった。自分を笑いの中へ押し込むような、短い音だった。
「最後の大会、ベンチだった。足だけは速かったから、代走で使われるかもって言われてたけど、結局出なかった。終わったあと、みんなが泣いてる横で、俺は何となく、もういいかなって思った」
「そんなふうに言わないで」
「何が」
「野球のことまで、何でもないみたいに」
「何でもなくはないよ。今でも走るのは好きだし。スパイクも捨ててない」
湊は靴の先で、道路の端に転がっていた小石を蹴った。小石は側溝の蓋に当たり、乾いた音を立てて止まった。
「でも、好きだから続けられるとは限らないだろ。好きなものを続けるには、時間とか金とか、家の人間の了解とか、いろいろ要る。俺の場合は、店の手が足りなくなった。それだけ」
「それだけじゃない」
「じゃあ、何だよ」
「湊が、いつも一人で決めて、一人で終わらせるから」
彼の目が、初めてこちらを向いた。
その目に怒りはなかった。驚きと、少しの疲れがある。私はその疲れを見つけてしまい、言い過ぎたと思った。けれど、今度は引っ込めたくなかった。
「東京のことも、野球のことも、店のことも。私に話す前に決めて、決めたあとで何でもない顔をする。私が聞くと、もう終わったことみたいに笑う」
「話したら、澪が困るだろ」
「困るよ」
「ほら」
「でも、知らない方が困る」
湊は黙った。
「湊のことを知らないまま、私だけ東京へ行けばいいって言われても困る。私が自分の夢を選ぶために、湊の事情を見なかったことにするのは違う。だけど、知ったら知ったで、私まで残るべきなのか分からなくなる」
「残れなんて言ってない」
「分かってる」
「澪が残ったら、俺はたぶん嫌だ」
「どうして」
「俺のせいになるから」
「私が勝手に決めても?」
「勝手に決めたって言っても、俺が東京へ行かないから残ったんだろって、ずっと思う。澪も、俺も」
湊はそこで言葉を切った。
「そんなふうに、誰かの人生の理由になりたくない」
海の方から、波が崩れる低い音が聞こえた。見えない場所で、何度も水が形を失っている。
私は湊の顔を見た。
彼は自分の事情を、私に背負わせたくないのだと思っていた。けれど本当は、私に背負わせることで、自分の選択まで揺らぐのが怖いのかもしれない。私が残れば、湊は店を選んだ自分を正しいと思い続けなければならない。私が東京へ行けば、今度は私の背中を見送った自分を、諦めた人間だと思わないようにしなければならない。
どちらにしても、彼は誰かの人生に触れてしまう。
「私も、湊の人生の理由になりたいわけじゃない」
「うん」
「でも、私の人生から湊を切り離して、はい、これで自分の進路ですって言えるほど、きれいじゃない」
湊は何も言わなかった。
「一緒に行きたいって思ったことは、本当だった。映像をやりたいと思ったことも本当。湊が行かないなら全部嘘になるわけじゃない。でも、湊がいない東京が怖いのも本当」
「怖いなら、無理しなくていい」
「それも嫌」
「何で」
「怖いからって、行きたくないことにされるのが嫌」
自分でも驚くほど、言葉がまっすぐ出てきた。
「湊が残る理由を知ったからって、私が東京へ行く理由までなくなるわけじゃない。逆に、私が東京へ行くからって、湊が残る理由が軽くなるわけでもない。なのに、湊は全部を一緒にして、私が困らないように先に話を終わらせようとする」
「……ごめん」
その言葉は、あまりにも小さかった。
湊が謝るところを、私はほとんど見たことがない。彼は困ったときも、失敗したときも、まず笑う。謝るより先に冗談を言い、相手が怒る前に空気を変える。
だから、その短い謝罪は、傷口から急に血が出たように感じられた。
「謝らないで」
「何で」
「謝られると、私が責めてるみたいになる」
「責めてるだろ」
「責めてる。でも、謝らせたいわけじゃない」
「難しいなあ」
湊はようやく、少しだけ笑った。
「澪の話、たまに主語が大きいんだよ。東京とか、人生とか、俺のせいとか」
「湊が小さくしようとするから」
「俺はさ、話を大きくすると戻れなくなる気がするんだよ」
笑いが消えた。
「店のことを、家族のことを、東京のことを、全部ちゃんと説明したら、俺はもう『ちょっと考えてるだけ』ではいられなくなる。祖父さんが倒れた。店が回らない。俺が残る。そう言ったら、俺が東京を捨てたって認めることになる気がする」
「捨てたんじゃないでしょ」
「分からない」
「湊が言ったんじゃん。地元に残るのは負けじゃないって」
「言ってない」
「言ってないけど、そう思ってる顔をしてる」
「顔で決めるなよ」
「見えるから」
湊は黙り、濡れた髪をかき上げた。もう乾きかけているのに、前髪は額へ戻ってくる。彼はそれを鬱陶しそうに払い、手を下ろした。
「俺、東京に行きたかったよ」
今度の声は、風にさらわれなかった。
「行きたかった。澪と同じ街に行って、知らない駅で迷って、二人で遅刻して、東京の人間は歩くのが速いなって文句言いたかった。店のことを忘れていたかったわけじゃない。でも、忘れたふりをしてでも、少しは自分のことを考えたかった」
湊は缶コーヒーを握ったまま、海を見ている。
「だから、澪に言えなかった。東京に行きたいって思ってた自分を、家の事情で捨てるのが嫌だったし、澪に言ったら、澪まで俺の夢を一緒に持とうとすると思った。あいつはそういうところがあるから」
「私が?」
「誰かが重い荷物を持ってると、自分も持とうとするだろ。持てないのに」
「持てるよ」
「持てない」
「持てる」
「じゃあ、今、俺の店を一緒にやる?」
突然そう言われて、私は言葉を失った。
湊はすぐに口元を上げた。
「ほら。困るだろ」
「……ずるい」
「何が」
「そうやって、笑いにする」
「笑いにしないと、俺も困るんだよ」
「湊が困っているところを、見せてくれたらいいのに」
「見せたら、澪は絶対に見過ごさない」
「見過ごしたくない」
「だから困る」
私たちはしばらく、互いの顔を見ていた。
近づけば触れられる距離だった。制服の袖も、手の甲の傷も、濡れた髪の先も、少し手を伸ばせば届く。けれど、どこに触れればいいのか分からない。傷に触れれば同情になる。袖に触れれば慰めになる。肩に触れれば、離れないという約束になってしまう。
私は手を下ろした。
湊も、ポケットの中で指を握った。
坂の上から、誰かの自転車が下ってくる音がした。ベルが一度鳴り、私たちの横を通り過ぎる。暗い海沿いの道を、自転車の赤いライトが小さく遠ざかっていく。
その赤い点を目で追っていると、背後から別の足音が近づいてきた。
「遅い」
透子だった。
息を切らしているのに、最初の一言はそれだった。制服の袖口を引っ張り、私と湊を交互に見る。湊の手の傷、私の浅い呼吸、開いていない缶コーヒー。全部を一度に確認したような目だった。
「二人とも、まだここにいると思った」
「思ったなら、もっと早く来ればいいのに」
湊が言う。
「走るの苦手なんだよ。人には得意不得意があるの。湊みたいに、話したくないことがあると走れば解決する人間とは違うの」
「解決してないけど」
「知ってる」
透子は私の隣へ来た。ただし、二人の間に入るのではなく、少し離れた場所に立った。海側に湊、坂側に私、その中間に透子がいる。三人の影が自販機の白い光に伸び、路面の上で重なりそうになっていた。
「何か話した?」
透子が聞いた。
「少し」
「少しって、湊の基準では一時間に二十文字くらいだから、澪の基準で聞くとたぶん何も話してない」
「今日はもっと話した」
「何文字?」
「数えてない」
「澪、数えた?」
「数えてない」
「二人とも、そこは似てるんだよねえ。大事なことだけ数えない」
透子は自販機へ近づき、温かいカフェオレを買った。缶が落ちる音を聞き、取り出し口から缶を拾う。両手で包みながら、彼女は海の方を見た。
「今日は、ここまでにしよ」
声が低かった。
いつものように、冗談で空気をほどく言い方ではない。私も湊も、すぐには返事をしなかった。
「まだ話せる」
私が言うと、透子は私を見た。
「話せるかどうかじゃない。今の二人は、話した分だけ相手の荷物を持とうとしてる。これ以上やると、明日の朝には二人とも別の人間の進路調査票を書き始めるよ」
湊が短く息を吐いた。
「透子、たまに先生みたいだな」
「黒川先生ほど怖くないでしょ」
「種類が違う」
「褒めてる?」
「たぶん」
「湊のたぶんは、だいたい逃げ」
透子は缶を一口飲んだ。熱さに目を細める。けれど、すぐに表情を戻す。
「澪、今日は湊の事情を全部聞かなくていい。湊も、今日全部説明しなくていい。ただ、聞かないことと、聞けないことを同じにしないで」
湊が視線を落とした。
「俺、明日なら話せるかも」
「明日も逃げるかもね」
「ひどいな」
「ひどくていい。二人とも、綺麗な言葉で終わらせるのが上手すぎるから」
私は透子の横顔を見た。彼女の古い腕時計が、自販機の光を拾っている。祖母からもらったものだと、以前聞いたことがある。時間を見るための時計なのに、透子は今、時間を進めるのではなく、止めようとしていた。
「湊」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「手、洗って」
「そこ?」
「そこ」
「話の流れ的に?」
「傷をそのままにしないで」
湊は手の甲を見た。乾いた血の跡が、白い光の下ではっきりしている。
「分かった」
「絆創膏も」
「分かったって」
「約束じゃなくて、返事だけでいい」
湊は一瞬黙った。それから、今度は笑わずに頷いた。
「うん」
その返事は、朝の「約束する」よりも信じられた。
私は自販機の横の低い柵へ腰を下ろした。海は暗く、水平線の境目が空と混ざっている。波が寄せては戻り、戻った水が次の波を迎える。何かを失ったあとも、海は同じ形を繰り返していた。
湊は缶コーヒーを開けた。甘い匂いが風に混じる。彼は一口飲み、眉をしかめた。
「冷めてる」
「それ、買ったばかりじゃん」
透子が言う。
「俺の気持ちが冷めてるって話」
「そういうこと言うと、また綺麗に終わるからやめて」
湊は少し笑った。
今度の笑いは、完全ではなかった。それでも、私には朝より近く見えた。
やがて私たちは坂を上った。湊が先に歩き、透子がその後ろ、私が最後になった。いつもの並びだった。けれど、湊は何度か歩幅を緩めた。私を待つためなのか、ただ疲れているのか分からない。分からないまま、私はその速度に合わせた。
坂の途中で、商店街アーケードの明かりが見えた。シャッターの下りた店が続き、昼間なら惣菜や果物の匂いが漂う通りも、今は空っぽだった。足音だけが屋根の下で反響する。
「澪」
湊が前を向いたまま言った。
「なに」
「東京、行けよ」
私は歩みを止めた。
「それ、命令?」
「お願い」
「どっちでも嫌」
「じゃあ、俺の意見」
「もっと嫌」
湊は振り返らずに笑った。
「俺は、澪が東京へ行って、映像をやるところを見たい」
「見られないでしょ」
「写真で送って」
「映像をやるんだから、写真だけじゃないよ」
「じゃあ、動画で」
「湊は見ないかもしれない」
「見るよ」
「店が忙しくても?」
「夜中に見る」
「寝不足になる」
「もともと朝走ってるから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
私は早足になって、湊の隣へ並んだ。
「私も、湊が店をやるところを見たい」
「店に来ればいいだろ」
「東京から?」
「たまには帰ってくるんだろ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないよ。だから、来るかどうかは澪が決めればいい」
湊の歩幅が、私と揃った。
それは昔から何度もあったことのはずなのに、今夜は別の出来事のようだった。合わせなくても並んでいられると思っていた頃とは違う。今は、ずれることを知った上で、一度だけ歩幅を合わせている。
「湊」
「なに」
「私、東京へ行きたいと思う」
言葉にした途端、足元が少し揺れた。
「でも、湊と一緒に行きたいと思っていたことも、なかったことにはしない」
湊は黙った。
「その二つを、どっちか一つにしなくていいんだと思う。湊が行かないから、私の気持ちが全部嘘になるわけじゃない。私が行くから、湊の選択が負けになるわけでもない」
アーケードの天井に、私の声が反響した。言葉が一度返ってきて、二人の間に落ちる。
「……うん」
湊の返事は小さかった。
「それ、俺も考える」
「考えるだけ?」
「考えて、明日話す」
「また明日?」
「今夜はもう、透子に怒られそうだから」
「もう怒ってるよ」
少し後ろから透子が言った。
「でも、今のはまあ、明日に持ち越していいやつ。逃げるためじゃなくて、ちゃんと話すためならね」
アーケードを抜けると、駅前の明かりが見えた。予備校の看板はまだ点いていて、ガラス窓の中では遅い時間まで自習している生徒たちがいた。机に向かう背中が、白い光の中で並んでいる。
東京へ行く人。 地元に残る人。 まだ何も書けない人。
同じ制服を着ていても、見ている先は一人ずつ違うのだろう。けれど、誰もがそれぞれの紙を抱えて、期限のある場所へ歩いている。
駅前で、湊が立ち止まった。
「俺、店に戻る」
「今から?」
「祖父さんの薬、見てくる。あと、明日の朝の仕入れの確認」
「走って戻るの?」
「歩く。今日はもう十分走った」
そう言って、湊は笑った。
私は彼の手の甲を見た。
「本当に、手を洗って」
「分かったって」
「絆創膏」
「はいはい」
「返事だけじゃなくて、実行して」
「澪、母親みたい」
「嫌?」
「いや。ちょっと安心する」
その言葉に、私は何も返せなかった。
湊は一拍置き、駅とは反対の商店街の方へ歩き出した。数歩進んでから、振り返る。
「澪」
「なに」
「さっきの写真」
心臓が跳ねた。
「文化祭の?」
「うん。今度、見せて」
「まだ」
「またそれ?」
「まだ、見せる気はある」
湊は笑った。
「じゃあ、待つ」
その笑顔は、誰かを安心させるためのものではなかった。待つと決めた人の顔だった。
湊が去ったあと、透子が私の隣へ来た。
「見せるの?」
「分からない」
「今のは、見せるって顔だったけど」
「透子は顔で決めすぎ」
「澪が言葉にしないから、顔くらい見ないと会話にならないんだよ」
駅前の時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
透子は大きく伸びをした。気まずさを感じたときの癖だ。けれど、今度は気まずさだけではなく、疲れも混じっている。
「帰ろう。明日、ファミレスで話す」
「明日も?」
「今日は話が途中で終わったから」
「湊とは?」
「それは湊次第。私は澪の話を聞く。湊の事情を代わりに説明するつもりはない」
「うん」
私たちは駅前から坂道を上った。
帰り道、私は何度も歩幅を変えた。先に行きすぎそうになると速度を落とし、遅れそうになると少しだけ急ぐ。透子はそれに気づいていたはずだが、何も言わなかった。
夜の坂道は、昼間より長く感じた。
坂を上るほど、海の匂いが薄くなる。代わりに、商店街の古いシャッターや、駅前の排気ガスの匂いが強くなる。下っていくときは未来へ近づくようだった坂が、上ると過ぎた時間を戻す道に見えた。
けれど、時間は戻らない。
約束も、今日の言葉も、湊の傷も、私が東京へ行きたいと言ったことも、なかったことにはならない。なかったことにしないまま、明日へ持っていくしかない。
その夜、私は眠れなかった。
机の上に進路調査票を広げ、模試の判定表を裏返し、文化祭の写真をその横に置いた。写真の中の湊は、やはりこちらを見ていない。けれど、今までと違って、その横顔を見ても、答えを探そうとは思わなかった。
答えを持っているのは、写真ではなく、写っている本人だ。
そして、私の進路について答えられるのは、私しかいない。
翌朝、透子と待ち合わせたファミレスは、夜の明るさをまだ残していた。窓際の席に座ると、ガラスの向こうを新聞配達のバイクが走っていく。店内には客が少なく、厨房から皿を重ねる音と、氷が溶ける音だけが聞こえた。
私はミートドリアを頼んだ。食べたいわけではなかったが、母に電話をしたとき、開口一番に「朝から何か食べた?」と聞かれる気がした。
透子はカフェオレと季節限定のパフェを頼んだ。朝から甘いものを選ぶ理由を、彼女は「昨日の分」と言った。
私は鞄から模試の判定表を出した。
「これ、見ても何も分からない」
「数字は分かるでしょ」
「数字以外が分からない」
「じゃあ、数字以外の話をしよう」
透子はカップを両手で包んだ。朝の光が、白い陶器の縁で薄く反射している。
私は昨夜の坂道を思い出した。湊の声。手の甲の傷。待つ、と言った笑顔。東京へ行きたいと思う自分と、湊と一緒に行きたかった自分。その二つは、まだ胸の中で絡まっている。
「行きたいんじゃなくて、行く理由を、湊に預けてたんじゃないの」
透子が言った。
昨夜より、はっきりした声だった。
私はすぐに返せなかった。
返したくなかったのではない。返す言葉がなかった。
「私は、湊がいるから東京を選んだのかな」
「それは、私には分からない」
「透子は、分かってるみたいに言う」
「分かってないよ。だから聞いてる」
「でも、たぶんそうなんだと思う」
私は判定表の端を押さえた。紙の角が、指先へ食い込む。
「湊が行くなら、東京へ行くのが怖くなかった。知らない場所でも、隣に知っている人がいると思えたから。湊がいないと、全部自分で見なきゃいけない。部屋も、学校も、人間関係も。映像を学びたいって言うだけじゃなくて、その先の生活まで自分で引き受けなきゃいけない」
「うん」
「だから、湊が理由だったというより、湊がいることで、私は自分の理由を見ないで済んでたんだと思う」
透子はしばらく黙っていた。
その沈黙は、昨夜よりも広かった。私はそこに、答えを急かさないための余白があることを知っていた。
「湊がいなくても、撮りたいものはある?」
透子が聞いた。
私は窓の外を見た。
朝の道路は、夜よりも細部が多い。濡れた路面の上を自転車が通り、タイヤの跡を残していく。コンビニの前で、店員が旗を出している。交差点では、眠そうな高校生が信号を待っている。誰かが欠伸をして、誰かが靴紐を結び直している。
私は、そういうものを撮りたいと思った。
湊がいなくても。 私が一人でも。 その人たちが、私を知らなくても。
「ある」
声に出すと、思ったより静かだった。
「海辺の光とか、濡れた道とか、誰かが何かを言う前の顔とか。湊だけじゃない。湊が教えてくれたわけでもない。私はずっと、そういうものを見てた」
「じゃあ、東京へ行けるね」
「まだ、怖い」
「怖いまま行けばいい」
「簡単に言う」
「簡単に言ってない。怖くないふりをして行くより、怖いって分かったまま行く方が、たぶん長持ちする」
透子はパフェの表面から、生クリームを少しすくった。
「湊も、地元に残ることを諦めにしたくないんだと思う。だから、澪が東京へ行くことを、俺のせいにするなって言う。二人とも、自分の選択を自分のものに戻したいのに、相手を大事にしすぎて、先に相手の分まで引き受けようとする」
「好きだから?」
透子はスプーンを止めた。
「そこは、澪が決めること」
「また逃げる」
「逃げてない。人の気持ちを勝手に決めないだけ」
私は少し笑った。
「透子は、ずるい」
「澪にだけは言われたくない。三年間、湊の隣で何も言わずにいた人に」
ミートドリアが運ばれてきた。湯気が上がり、チーズの匂いがする。私はスプーンを持ち、表面を一度割った。
「湊の理由を知ることと、湊の人生を背負うことは、別だよね」
「別」
「私が東京へ行くことと、湊を置いていくことも、別」
「別」
「でも、別にするって、冷たいことじゃない?」
「冷たくない。むしろ、相手を一人の人間として扱うことだと思う」
透子の声が、少しだけ低くなった。
「湊には湊の事情と選択がある。澪には澪の願いと怖さがある。どっちかが相手の人生を持ったら、持たれた方は自分で選べなくなる。優しさみたいに見えても、実際は奪うことになる」
私はスプーンを置いた。
ファミレスの蛍光灯は、朝になっても白かった。夜の暗さを知らないふりをして、テーブルの上を均一に照らしている。けれど、私はその明るさの下で、昨夜より少しだけ自分の輪郭が見えていた。
私は東京へ行きたい。
湊と一緒に行きたかった。
湊が行かないことは、悲しい。
それでも、自分の足で行きたい。
四つとも、同時に本当だった。
窓の外を、朝の光がゆっくり広がっていく。海は見えないのに、風の匂いだけが店内へ入り込んできた。
私は冷めないうちに、ミートドリアを食べ始めた。**
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