9話 坂の上で交わす話

翌日の放課後、教室にはまだ、提出箱の余韻が残っていた。

黒板の右上には、昨日から消されていない赤い文字がある。

本日回収

もう回収は終わっている。進路調査票は職員室へ運ばれ、空欄だった私の紙も、東京の美大の名前を書いた紙も、湊の紙も、同じファイルの中に揃えられているはずだった。それなのに赤い四文字だけが残り、教室の空気を昨日の朝へ引き戻していた。

黒川先生は教卓の前で、提出された用紙の束を整えていた。

紙の角を机の端へ合わせ、少しでもずれると指先で押し戻す。赤ペンを持つ手は止まっているのに、視線だけが一枚ずつを読んでいるようだった。

私は自分の席に鞄を置いた。透明なクリアファイルの中には、昨夜何度も見返した文化祭の写真が入っている。湊の横顔。絵の具の粉が残った袖口。笑う直前の、まだ誰にも向けられていない顔。

写真の下には、書き直した進路調査票の控えがあった。

東京の美大で映像を学ぶ。

理由欄に書いた言葉は、何度読んでも少し不格好だった。海辺の光や人の仕草を、動く時間の中で残したい。言葉にできないものを、自分の手で形にしたい。

湊の名前は書かなかった。

書かなかったことは、湊を消したことではない。そう思えるようになったのは、昨日よりほんの少しだけだった。

「望月」

黒川先生が呼んだ。

「はい」

「瀬戸が来たら、職員室へ寄るよう伝えろ」

「湊が?」

「昼にも呼んだが、来なかった」

黒川先生はそこで言葉を切った。責めるでもなく、呆れるでもない。ただ、机の端に紙を揃える。

「店へ戻ったんですか」

「事情は本人から聞け」

いつもの返しだった。

事情を代わりに話さない。本人が言うまで、言葉を奪わない。黒川先生の沈黙は冷たく見えるけれど、昨日、私はその冷たさに助けられた。

私は「はい」と答えた。

教室の扉が開いた。

湊が入ってくる。濡れた髪ではない。制服の襟も乾いている。ただ、息が少し乱れていた。走ってきたのだろう。走る必要のない距離まで、走ってきた顔だった。

彼は黒川先生を見て、口元を少し上げた。

「呼び出しですか。俺、何かしました?」

「職員室」

「質問に答えてない」

「職員室で聞く」

「怖いなあ。俺、進路調査票はちゃんと出しましたよ」

「知っている」

黒川先生は束の一番上にある紙を指先で押さえた。

「だから、話をする」

「話すだけ?」

「話すだけだ」

湊は私を見た。

一瞬だった。けれど、昨日までなら見なかったはずの目だった。笑って逸らすでもなく、何かを隠して下を向くでもない。どうする、と聞いているように見えた。

私は返事の代わりに、職員室の方を指した。

「行って」

「澪、先生側になった?」

「なってない。黒川先生側」

「もっと怖いじゃん」

湊は軽口を言いながら、鞄を机の横へ置いた。

「すぐ戻る」

「うん」

「逃げるなよ」

「それ、湊が言う?」

「俺は逃げても戻ってくるから」

笑いながら言ったあと、彼はほんの少しだけ目を伏せた。

私はその一拍を見逃さなかった。

湊は黒川先生と一緒に教室を出ていった。二人の足音が廊下の奥へ遠ざかる。私は自分の机の角を指でなぞりかけ、途中でやめた。

逃げるなよ、と言われた。

その言葉が、胸の中で何度も反響していた。

十分ほどして、湊が戻ってきた。

表情はいつもと変わらない。けれど、走っているときのように、肩が少しだけ前へ出ている。何かを決めてしまった人間の姿勢ではなく、決める前に力を溜めている姿勢だった。

「待った?」

「待った」

「即答だな」

「黒川先生、何て言ってたの」

「そこ聞く?」

「聞く」

「自分の進路を、家の事情だけで決めるなって」

湊は笑った。

「先生、俺に言うより、澪に言った方がいいと思わない?」

「私はもう書いた」

「うん。見た」

胸の奥が跳ねた。

「見たの?」

「見たっていうか、黒川先生が持ってた。東京の名前が書いてあった」

「理由も?」

「そこまでは見てない。見たら怒られる」

「見ればよかったのに」

「澪の字、読みにくいから」

「嘘」

「本当。字が細すぎて、紙の方が先に疲れる」

湊はいつものように笑った。けれど、その笑いは昨日より短かった。

私は鞄から写真を出した。透明なファイル越しではなく、直接、机の上へ置く。

「これ」

湊の目が写真へ落ちた。

「文化祭の?」

「うん」

「見せてくれるんだ」

「まだ、だけど」

「見せてるじゃん」

「今だけ」

湊は写真を手に取った。指先で端を持ち、傷つけないように、いつも箱の角を揃えるときのような几帳面さで机へ置き直す。

写真の中の彼は、呼ばれて振り返る途中で笑っている。正面を向いていない。誰かに見せるための顔でもない。

「これ、俺?」

「湊」

「ずいぶん無防備だな」

「そう思う?」

「思う。俺、こんな顔するんだ」

「するよ。写真に写るときは、もっと笑うけど」

「それは営業スマイル」

「じゃあ、これは?」

湊は答えなかった。

写真を見たまま、親指で紙の端を撫でている。私と同じ癖だった。

「……これ、撮ったあと、澪は何か言った?」

「言ってない」

「何で」

「何て言えばいいか分からなかった」

「いい写真だね、とかでいいじゃん」

「それだと足りない」

「写真一枚に、何を足すんだよ」

「分からない」

湊は写真から顔を上げた。

「澪は、分からないものをそのままにしすぎる」

「湊に言われたくない」

「俺は、分からないものを走って置いてくるから」

「もっと悪い」

「だよな」

湊は写真を机へ戻した。

「行こう」

「どこへ」

「坂」

それだけ言って、彼は鞄を持った。

私は写真をファイルへ戻し、後を追った。今度は追いかけるというより、同じ方向へ歩き出す感覚だった。湊は先に廊下へ出たが、すぐには歩幅を速めなかった。

校舎を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。

駅前へ向かう道には、予備校の看板が並んでいる。合格実績、春期講習、現役合格。どの文字も大きく、明るい色で印刷されていた。ガラス窓の向こうでは、まだ高校生の姿をした生徒たちが机に向かっている。

湊は看板を見上げた。

「去年の冬、ここで資料もらった」

「東京の学校の?」

「うん。澪と一緒に」

「覚えてる」

「俺、あのとき、東京の大学って全部ビルの中にあると思ってた」

「今も?」

「今は、ビルの間に大学があると思ってる」

軽口は、けれど昨日までとは違っていた。何かを隠すためではなく、言葉の間に息を通すための冗談に聞こえた。

坂道へ入る。

駅前の音が少しずつ背後へ遠ざかる。自転車のベル、予備校の呼び込み、信号機の電子音。それらが薄くなり、代わりに海の匂いが上がってくる。

湊は坂の途中で足を止めた。

ここは、昨日私が彼を追ってきた場所より少し上だった。海が見える。夕方の光が水面に長く伸び、風に細かく砕かれている。

湊は手すりに片手を置いた。指先が金属に触れる。冷たいのか、確かめるように一度だけ握った。

「昨日、透子に怒られた」

「何て?」

「二人とも綺麗な言葉で終わらせるのが上手すぎるって」

「透子らしい」

「澪もそう思う?」

「思う。でも、透子が言うと、終わらせたくても終われない」

「俺、終わらせたかったのかもしれない」

私は黙って、彼の横顔を見た。

湊は海を見たまま続けた。

「東京に行かないって言えば、澪は怒る。理由を聞く。俺は説明する。澪はたぶん、残るって言う。そうなったら、俺は澪の進路を壊したことになる。だから先に、俺のことは気にするなって言いたかった」

「気にするなって言われて、気にしない人はいないよ」

「知ってる」

「知ってるのに言ったの」

「知ってるから言った」

湊はようやく私を見た。

「澪が俺を見てるの、ずっと知ってた。袖口とか、歩幅とか、俺が笑う前の顔とか。そういうの、澪は隠してるつもりかもしれないけど、分かるよ」

胸の奥が強く縮んだ。

「分かってたの」

「全部じゃない。澪が何を考えてるかまでは分からない。でも、俺が何か隠してるときに、澪がいつもより静かになるのは分かる」

「それなら、言ってよ」

「言ったら、澪が聞くから」

「聞くよ」

「だから言えなかった」

湊は笑おうとした。けれど、口元はわずかに上がっただけだった。

「俺、澪にかわいそうって思われるのが嫌だったんだと思う」

風が強く吹き、湊の制服の裾が膨らんだ。彼は押さえようとせず、そのままにしていた。

「じいちゃんが倒れたのは、誰かのせいじゃない。店の人手が足りなくなったのも、俺のせいじゃない。でも、俺が東京へ行くのをやめるって決めたら、周りはたぶん、しょうがないよなって顔をする。家族も、店の客も、先生も。そういう顔をされると、自分が何かを諦めた人間みたいに思えてくる」

「湊は、諦めたんじゃない」

「澪はそう言ってくれる?」

「言う」

「簡単に?」

「簡単じゃない。でも、言う」

湊は手すりから手を離した。

「俺、東京に行きたかった。ちゃんと行きたかった。澪と同じ街で暮らしたかった。朝、知らない駅で迷って、澪に地図を見せてもらって、俺の方が先に分かったふりをして、結局逆方向へ行く。そういうくだらないことを、やってみたかった」

私は笑いそうになった。けれど、笑えば彼の言葉を軽くしてしまいそうで、口元を押さえた。

「それ、くだらなくないよ」

「俺には大事だった。でも、店を空けてまで行くほどじゃないって、自分で決めた」

「家族に頼まれたの?」

「はっきり頼まれたわけじゃない。誰も、残れとも、継げとも言わなかった。朝の仕入れ表が置いてあって、じいちゃんの薬がテーブルに並んでて、親父が店の電話に出て、母さんが病院へ行く。そういうのを見てたら、俺が行ったあとに誰がやるんだろうって思った」

湊は一度、靴先で地面を蹴った。

「誰かに決められた方が、まだ楽だったと思う。お前が残れって言われたら、俺は家族のせいにできた。でも、誰も言わなかった。だから、自分で選ぶしかなかった」

私は海を見た。

水面に伸びた光が、波のたびに切れていく。つながっているように見えて、実際には一瞬ごとに別の形になっている。

「自分で選んだなら、湊の人生でしょ」

「うん」

「私がかわいそうって思う必要はない」

「うん」

「だったら、東京へ行かないことを、私に隠す必要もなかった」

湊は返事をしなかった。

沈黙が坂を下っていく。海の方へ向かう風に押されて、私たちの間の空気が少しだけ動いた。

「怖かった」

湊が言った。

「澪に言ったら、澪が東京へ行けなくなると思った。俺がいない東京を、澪が選べなくなると思った。だったら、俺が黙って、最後まで東京へ行くふりをして、提出の朝に言えばいいって思った」

「それは、ひどい」

「うん」

「本当にひどい」

「うん」

「私が、どれだけ驚いたか分かる?」

「分かる」

「分からないよ。湊は、私が何を考えてるか分かるって言うけど、分からない。私の理由を勝手に決めた。私が湊のために東京へ行くと思って、私が湊のために残ると思って、どっちにしても、私が自分で決める前に先回りした」

声が震えた。

私は袖口を握った。指先に布の皺が集まる。湊は目を逸らさなかった。

「そうだな」

「私のことを考えてるみたいにして、私の言葉を取った」

「そうだな」

「謝ってほしいわけじゃない」

「分かってる」

「分かってない」

「分かってないから、聞いてる」

その言葉に、私は口を閉じた。

湊の表情から、軽さが消えていた。けれど、それは暗い顔ではなかった。走り終えた直後のように、余計なものが落ちている。息を切らしながら、それでも立っている顔だった。

「澪。俺は、地元に残ることを、諦めたって言われたくない。でも、澪にそう思われるのが一番嫌だった」

「どうして」

「澪にだけは、俺が負けたみたいに見られたくなかった」

胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。

湊はいつも、人に同情されることを嫌がった。かわいそうだと言われれば笑ってみせた。店の手伝いも、野球を辞めたことも、何でもないように話した。

弱く見られたくなかったのではない。

私に、弱くなった自分を見せたくなかったのだ。

「私は、湊が負けたなんて思ってない」

「でも、東京に行く澪と、地元に残る俺を比べたら、周りはそう見るだろ」

「周りって誰」

「学校とか、親戚とか、店の客とか」

「それは周りの話でしょ」

「澪は、そういうの気にしないだろ」

「気にするよ」

私は海から目を離さなかった。

「東京へ行くことが勝ちで、地元に残ることが現実なら、私はその言い方が嫌い。湊が店を継ぐのは、夢を諦めて現実に負けたからじゃない。逃げずに残るって決めたからでしょ」

「継ぐって、まだ言ってない」

「でも、残るんでしょ」

「残る」

「じゃあ、それは湊が選んだこと」

「うん」

「私も東京へ行く。私が選んだこととして」

言葉にすると、風の向きが変わったように感じた。

湊は一瞬、目を見開いた。

「本当に行くんだな」

「行きたいと思う」

「思う?」

「怖いから。行くって言い切るには、まだ怖い。でも、怖いままでも、行きたいと思う」

「そっか」

湊は海へ視線を戻した。

「澪らしいな」

「何それ」

「迷ってるのに、迷ったまま進むところ」

「湊に言われたくない」

「俺は迷ったら走るから」

「それは進んでるんじゃなくて、逃げてるだけ」

「今日は立ち止まった」

「うん」

「澪が追いついたから」

私は湊を見た。

彼は笑っていなかった。

「澪が追いついてきたから、俺も止まれた。ずっと、澪が俺の背中を追ってくるのが嫌だった。俺が逃げてるのを見せることになるから。でも、追いつかれたら、もう走る理由がなくなった」

胸の内側が熱くなった。

触れそうで触れない距離に、彼の手がある。手の甲には、薄い傷が残っている。私は指を伸ばしかけたが、途中で止めた。

湊も、その動きを見た。

「触っていいよ」

「傷に?」

「手に」

私は息を浅く吸った。

「それは、どういう意味」

「分からない」

「湊が分からないって言うの、珍しい」

「俺だって分からないことくらいある」

彼は手をこちらへ差し出した。傷のある手の甲ではなく、掌を上に向けている。何かを渡すような形だった。

私はすぐには触れなかった。

「約束にはしないで」

「しない」

「同じ場所へ行くっていう約束にも」

「しない」

「また言わないまま決めることにも?」

「それは、努力する」

「努力じゃなくて」

「じゃあ、話す」

湊の掌に、夕方の風が落ちている。

「澪が東京へ行って、俺がここに残っても、俺たちは同じ未来を選べない。でも、同じ未来を選べないことと、終わることは同じじゃない。そう言いたいんだろ」

「湊が言って」

「俺たちは、同じ未来を選ばなくても、終わらない」

声にした湊自身が、その言葉を確かめるように、ゆっくり息を吐いた。

「終わらないって、今までと同じってことじゃないよな」

「うん」

「毎日会えなくなる。澪は東京で知らない人と会って、知らないものを撮る。俺は朝から店で大根を並べて、じいちゃんの薬を確認して、夜に走る。澪が撮ったものを俺が全部見られるわけじゃないし、俺が店で見つけたものを澪に全部話せるわけでもない」

「うん」

「それでも、終わらない?」

「終わらないようにする」

湊は私を見た。

「それ、約束?」

「約束じゃない。選ぶこと」

言葉が坂の上で止まり、風にさらわれずに残った。

湊はしばらく黙っていた。それから、掌を少しだけ閉じた。私の指を待つような動きだった。

私は手を伸ばした。

触れたのは、彼の掌の端だった。走ったあとの熱が残っている。汗の乾いた塩気と、青果店の土の匂いが混じっていた。指先が触れただけなのに、身体の中を細い電流が走ったようだった。

すぐに離れた。

湊も追わなかった。

「これで、同じ場所じゃなくてもいい?」

「うん」

「澪が東京へ行っても?」

「うん」

「俺が地元で店やってても?」

「うん」

「俺がたまに弱音を吐いても?」

「それは、吐いて」

「澪がたまに帰ってきても?」

「帰ってくる」

「毎回、店の野菜を持たせるけど」

「重いのは嫌」

「じゃあ、みかん一袋」

「それも重い」

「東京の人は軟弱だな」

湊が笑った。

今度の笑顔には、少しだけ昔の形が戻っていた。けれど、以前のように何も隠していないふりをする笑いではなかった。傷も迷いも残ったまま、それでも笑う顔だった。

私たちは坂を上り、商店街アーケードへ入った。

シャッターの下りた店が両側に並び、足音が屋根の下で反響する。昼間なら惣菜の匂いや青果店の甘い香りが混ざっている場所も、夕方は冷えた空気だけが長く伸びている。

湊が前を歩く。けれど、今日は半歩先ではなかった。私の隣に並んでいる。

「ファミレス、行く?」

湊が聞いた。

「透子が待ってる」

「何で知ってる」

「たぶん」

「たぶんで行くの?」

「透子は、待つって決めたら待つから」

「怖いな」

「黒川先生も来るらしい」

湊が足を止めた。

「え?」

「さっき、私のスマホに連絡があった。今日の話をするなら、ファミレスで待っているって」

「先生が?」

「湊にも送ったんじゃない?」

湊はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を確認し、眉を寄せる。

「来てる。『九時、駅前のファミリーレストラン。瀬戸、望月、早乙女』だって」

「名前の並びが面談みたい」

「俺、何か悪いことした?」

「進路を黙って変えた」

「それ、悪いことなのか?」

「黙ったことは、少し」

「じゃあ、澪も空欄で出したから同罪」

「私は迷ってただけ」

「俺も迷ってた」

アーケードの天井に、湊の声が跳ね返った。

「じゃあ、同罪だな」

「勝手に決めないで」

「でも、同じ罪なら一緒に受けられる」

「一緒に行く、を便利に使わない」

湊は口元を上げた。

「分かった。じゃあ、並んで受けに行こう」

今度は私も笑った。

駅前のファミレスは、夜の白い光を窓の内側に溜めていた。自動ドアが開くと、暖房と油の匂いが押し寄せてくる。窓際の席では、透子がすでにカフェオレを飲んでいた。

「遅い」

私を見るなり、透子は言った。

からかう声だったが、カップを持つ指先の力が抜けたのを私は見た。待っていたのだ。二人が戻ってくるまで、何度も時計を見ていたのだろう。

「ごめん」

私は言った。

「謝るほどじゃない。湊が走って消えて、澪が走って追いかけて、二人で戻ってきたなら、今日は合格」

「何の合格?」

湊が向かいの席へ座った。

「面接」

「進路調査票は出したけど、面接まであるの?」

「人生、だいたい面接だよ」

「嫌なこと言うなあ」

私は湊の隣に座った。机の下で、彼の膝が私の膝に触れそうになった。互いに少しだけ外側へ避ける。けれど、今度はその距離を無理に埋めようとは思わなかった。

透子は私と湊の顔を順番に見た。

「話した?」

「話した」

湊が答えた。

「どこまで?」

「全部」

「全部って言う人、だいたい七割」

「祖父さんのこと、店のこと、東京のこと。あと、澪が俺を負担に思ってるみたいで嫌だったこと」

「澪は?」

「私は、湊の事情を理由に自分の進路を曲げたくないこと。湊と一緒に行きたかったことも、映像をやりたいことも、どっちも本当だったこと」

透子はカフェオレを一口飲み、息を吐いた。

「やっと人間の会話になったね」

「今まで何だったの」

「二人の口から出る音」

湊が笑う。

そのとき、自動ドアの開く音がした。

黒川先生が入ってきた。学校で見るより少しだけ疲れて見える。黒いコートの襟に夜気が残り、手にはいつものクリップボードがあった。

「先生、私服だと普通ですね」

透子が言った。

「学校でも普通だ」

「普通の人は赤字で本日回収とか書かないです」

「必要だから書く」

黒川先生は私たちの向かいへ座った。店員が注文を取りに来ると、熱い紅茶だけを頼んだ。

「瀬戸。話はしたか」

「はい」

「望月は」

「しました」

「早乙女は」

「私は聞きました」

「なら、私が聞くことはない」

透子が目を瞬いた。

「先生、ここまで来てそれだけですか?」

「それだけだ」

「夜のファミレスまで呼び出して?」

「呼び出したのは、話が終わっていない顔をしていたからだ」

黒川先生は湊を見た。

「瀬戸。お前は地元に残る。望月は東京を志望する。どちらも進路だ。どちらかを正解にするために、もう一方を負けにする必要はない」

「はい」

「ただし、残るなら残るで、店を継ぐことを美談にするな。大変なものは大変だ。助けが必要なら、助けを求めろ」

湊の指が、テーブルの下で一度だけ動いた。

「……はい」

「望月」

「はい」

「東京へ行くなら、行くための手続きと費用を確認しろ。夢だけでは電車も動かない」

「分かっています」

「分かっている顔ではない」

私は返事を飲み込んだ。

黒川先生は紅茶を一口飲んだ。湯気が眼鏡の端を曇らせる。

「だが、現実を確認することと、夢を小さくすることは別だ。そこを混同するな」

透子が静かに聞いた。

「先生は、私たちに何を選べって言ってるんですか」

「私が選ばせるのは、進路ではない」

「じゃあ何を?」

「自分で書いたものを、自分のものとして扱うことだ」

黒川先生はクリップボードへ視線を落とした。

「誰かの事情を尊重するのはいい。だが、尊重を理由に自分を消すな。誰かに支えられたことを認めるのもいい。だが、支えられたからといって、その人の人生まで返す必要はない」

その言葉が、私の中に静かに沈んだ。

母の帰る場所。湊の店。透子の沈黙。黒川先生の回収箱。どれも私をここまで運んできた。けれど、運ばれた場所で何を選ぶかは、私が決めるしかない。

湊が紅茶の湯気越しに私を見た。

「先生、俺、澪に写真を見せてもらいました」

「そうか」

「いい写真でした」

「本人に言え」

「言いました」

「なら、もういい」

「先生、冷たくないですか」

透子が言った。

「必要なことは言った」

「その言い方、便利ですね」

「お前も使っているだろう」

透子は一瞬黙った。それから、ふっと笑った。

「先生、私の進路のことは聞かないんですか」

「聞いてほしいなら、言え」

透子の目がわずかに揺れた。

彼女は甘いものを少しずつ食べ、苦いカフェオレを飲む。人のことならいくらでも見えるのに、自分のことになると、いつも話題を一つ遠ざける。

「私は、県外の専門学校を受けます」

透子が言った。

「親にはまだちゃんと話してないです。県内の短大に行くって言って、その方が家も安心するし、私も説明が楽だから。でも、説明が楽な方を選んだら、たぶんあとで自分に腹が立つ」

黒川先生は頷いた。

「なら、説明しろ」

「簡単に言いますね」

「簡単ではない。必要なことを言っているだけだ」

「先生、嫌われますよ」

「もう十分嫌われている」

透子が笑った。今度は、目も笑っていた。

私はテーブルの上に置いた文化祭の写真へ視線を落とした。湊の指が写真の端に近づく。触れそうで触れない。けれど、もう以前のように、触れないことが不安ではなかった。

触れないままでも、そこにいることはできる。

「湊」

「ん?」

「この写真、持って帰る?」

湊は写真を見た。

「いいの?」

「一日だけ」

「一日だけ?」

「返して」

「東京へ行く前に返す?」

「それは、まだ分からない」

「また、分からないか」

「でも、見せる気はある」

湊は写真を受け取った。

指先が、私の指先に触れた。

ほんの一瞬の熱だった。すぐに離れたのに、そこだけがいつまでも残った。

「大事にする」

「折らないで」

「店の帳面に挟む」

「野菜の汁、つけないで」

「それは努力する」

「努力じゃなくて」

「分かった。袋に入れる」

黒川先生が紅茶のカップを置いた。

「書くべきことは、もう書いたか」

私は先生を見た。

「はい」

「瀬戸は」

「俺も、たぶん」

「たぶんではない」

湊は少し考えてから、写真を見た。

「書きました。東京には行かない。地元に残る。店をやる。そこまでは書いた」

「理由は」

「祖父さんが倒れたから、だけじゃなくて。俺が残るって決めたから、と書きました」

黒川先生は、それ以上聞かなかった。

ファミレスの窓の外を、車のライトが通り過ぎる。白い光が一瞬だけ私たちの顔を照らし、すぐに暗さへ戻る。

同じ場所にいる時間は、いつか終わる。

湊は地元に残り、私は東京へ行く。透子は県外の専門学校へ向かうかもしれない。黒川先生は、来年また別の生徒へ赤い文字を書く。

それでも、終わることと変わることは同じではない。

私は冷めかけたアイスティーを一口飲んだ。甘くない味が、喉の奥をまっすぐ通っていく。

「湊」

「なに」

「明日、店に行ってもいい?」

「明日? 仕入れの時間は早いぞ」

「起きる」

「寝坊するだろ」

「しない」

「澪、朝弱いじゃん」

「湊が起こして」

言ってから、店内の音が少し遠のいた。

透子がゆっくりカフェオレを置く。黒川先生は何も言わない。湊だけが、返事の前に一拍置いた。

「……分かった」

「約束?」

「違う。起こす」

「じゃあ、電話して」

「電話する」

湊は写真を鞄へしまった。封筒の角を揃えるときのように、何度も位置を整えてから、ゆっくり閉じる。

その動作を見ながら、私は思った。

私たちは、同じ未来を選べなかった。

けれど、同じでなければ意味がないと思っていた時間を、なかったことにはしなくていい。そこにあった甘さも、痛みも、勘違いも、言わなかった言葉も、全部抱えたまま、別の道へ進めばいい。

店を出ると、夜の風が頬に触れた。

坂道は駅前から海へ下っている。昼間なら、歩幅を合わせなくても並んでいられると思っていた道。今は、少しずつ距離を変えながら、それでも同じ方向へ続いている。

湊が先に歩き出した。

私は半歩遅れて、その隣へ並んだ。

やがて東京へ向かう道と、地元の店へ戻る道は分かれる。分かれたあと、何度も迷うだろう。戻りたくなることも、相手の道が正しく見えることもある。

それでも、今日の私は知っている。

誰かの背中を追うだけでなく、自分の足で歩くことができる。

坂の上で、海の方から風が吹いてきた。私は立ち止まらず、湊と並んで歩いた。触れそうで触れない袖の距離を残したまま、互いの歩幅を、何度も確かめながら。

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坂の上で交わす話 - 行かない理由 - 誰でも作家life