第7話 提出箱の前で

放課後の教室には、昼の熱がまだ床に残っていた。
窓際のカーテンが、海から上がってくる風にゆっくり揺れている。授業が終わってからかなり経つのに、黒板の右上には、朝に書かれた赤い文字が残っていた。
本日回収
黒川先生の字は、朝と同じように大きく、まっすぐだった。けれど、朝は教室全体を急かしていたその四文字が、今は私だけを見ているように感じられた。
教室に残っている生徒は、もうほとんどいない。廊下の向こうから、運動部の掛け声が聞こえる。階段を駆け下りる足音がして、誰かの笑い声が遠ざかっていく。窓の外では、校門を出た自転車が、坂道の方へ小さく流れていた。
私は自分の席に座ったまま、進路調査票を机の上に置いていた。
朝、空欄のまま提出した紙だった。
黒川先生は、昼休みの終わりに私を呼び止め、放課後までに書き直すよう言った。責める声ではなかった。理由を問いただすこともなかった。ただ、赤ペンで紙の右上に小さく「再提出」と書き、私の机へ戻した。
その二文字が、朝からずっと鞄の中にあった。
今、それを机の上へ出している。
紙の端には、朝に指を擦った跡が薄く残っていた。白い紙に細い赤みがついている。ほんの小さな傷なのに、そこだけが妙にはっきり見えた。紙は傷ついても、何も言わない。言わないまま、触れた指の方に痛みを返してくる。
私はペンを持った。
志望校の欄には、東京の美大の名前が途中まで書かれていた。朝、書きかけて止めた文字だった。漢字の一画が細く途切れ、そこから先が空白になっている。
湊が東京へ行かないと知ってから、東京は何度も形を変えた。
最初は、隣に湊のいる街だった。駅の出口が多すぎて迷う街。人の歩く速度がこの町より少し速く、信号が変わるたびに誰かが走り出す街。そこへ行けば、湊はきっと私より先に歩き、振り返るふりをしながら、私が追いつくのを待つ。
次に、湊のいない街になった。
知らない部屋。知らない窓。知らない朝。カメラを持ってひとりで歩く私の背中を、誰も見ていない街。
そして今は、そのどちらでもない。
湊がいなくても、私が見るものはある。海辺の光が消えるわけではない。濡れた路面に映る街灯も、人が笑う直前にわずかに揺れるまぶたも、誰かが言葉を飲み込んだあとの沈黙も、湊が同じ街にいるかどうかでなくなるものではない。
なくならない。
ただ、ひとりで見に行くのが怖いだけだ。
私は紙の余白へ視線を落とした。
理由欄には、何行か書けるようになっている。最初から用意された枠は広くない。未来について書くには狭すぎて、言い訳を書くには十分な広さだった。
私は一行目に、映像を学びたい、と書いた。
文字は少し右上がりになった。消して書き直そうとしたが、手を止めた。朝の私は、きれいな文字で、迷いのない理由を書こうとしていた。いかにも進路調査票にふさわしい、教師が読んでも頷ける文章を。
けれど、そんな文章は嘘ではなくても、私の言葉ではなかった。
私は二行目に、海辺の光や人の仕草を、動く時間の中で残したい、と書いた。
そこでペン先が止まる。
湊の横顔が浮かんだ。文化祭の午後、絵の具の粉を袖につけたまま、誰かに呼ばれて振り返った顔。私が撮った写真の中で、彼は笑う準備をしていなかった。何も守らない顔をしていた。
あの写真を、私は湊に見せていない。
見せれば、彼はたぶん「もっときれいに撮れよ」と笑う。それから、写真の中の自分を見て、いつものように何でもない顔を作るだろう。
でも、私は知っている。
写真に残ったものは、撮った人間が見なかったことにしたものまで写してしまう。指先の力。視線の逃げ方。笑う前のわずかな間。作品だけは、嘘をつけない。
私は理由欄の三行目に、言葉にできないものを、自分の手で形にしたい、と書いた。
書き終わったとき、胸の中にあった硬いものが、少しだけ位置を変えた。
消えたわけではない。湊のことも、三年前の約束も、今朝の言葉も、まだそこにある。ただ、私の進路の真ん中から、少し脇へ移った。
誰かを脇へ追いやることは、忘れることとは違う。
それを、昨夜、透子とファミレスで話してから少しずつ考えていた。湊がいない東京でも撮りたいものがあるか。怖くても、それを見に行きたいと思うか。
答えは、まだ「はい」と言い切れるほど強くない。
それでも、行きたくないわけではなかった。
私は志望校の欄へ戻った。途中で途切れていた文字の続きを書く。大学名を書き終えると、ペン先の震えが少し収まった。
そのとき、教卓の方で紙を揃える音がした。
黒川先生が、いつの間にか教室の中央に立っていた。腕に抱えたクリップボードには、提出された進路調査票が何枚も挟まれている。紙の角を一枚ずつ揃え、ずれたものがあると、指先で静かに押し戻していた。
「書けたか」
私はすぐに返事ができなかった。
黒川先生は急かさなかった。机の列の間に立ったまま、私が顔を上げるのを待っている。朝から何度も見てきた、逃げ道を塞ぐ沈黙だった。
「……はい」
「何が書けた」
問いは簡単だった。けれど、答えようとすると、喉の奥に言葉がいくつも引っかかった。
「志望校と、理由です」
「理由は、誰のものだ」
私は紙を見た。
湊の名前はない。東京へ行こうと言った日のことも、隣にいてほしいと思ったことも、書いてはいない。
けれど、それらをなかったことにしたわけではなかった。
「私のものです」
声に出すと、思っていたより頼りなかった。けれど、紙に書かれた文字は消えなかった。
黒川先生は一度だけ頷いた。
「なら、出せ」
「先生」
「何だ」
「書いたら、決まりますか」
「何が」
「これからのことです。東京へ行けるかどうかも、合格できるかどうかも、まだ分からないのに。今ここで書いたら、もう戻れない気がして」
黒川先生は、すぐには答えなかった。
窓の外から、グラウンドの笛が聞こえた。風がカーテンを膨らませ、机の上の紙の角をわずかに浮かせる。私は慌てて押さえた。黒川先生の視線が、その指先へ落ちる。
「戻るかどうかは、紙が決めることではない」
低い声だった。
「ただし、書かなかったことを、誰かのせいにはできる。書いたことは、自分の言葉として残る」
「怖いです」
言ったあと、私は目を伏せた。
「湊が行かないと分かって、東京へ行く理由までなくなった気がしました。映像をやりたいのは本当なのに、それだけでは足りないみたいで。私は、湊と同じ場所へ行きたかったのかもしれないし、湊が隣にいるなら、どこでもよかったのかもしれません」
黒川先生は何も言わなかった。
「でも、湊の事情を知ったら、今度は私が東京へ行きたいと言うことが、わがままになる気がして。湊は店を手伝って、家族のことを考えて、地元に残ることを決めたのに。私だけが自分の夢を選んだら、湊の選択を軽く扱うみたいで」
言葉は、話し始めると次々に出てきた。朝から飲み込んでいたものが、ようやく喉の奥を通り抜けていく。
「私は、湊のことを理由にしたくないです。でも、理由にしていた自分まで、嘘だったことにはしたくない。湊と一緒に行きたいと思ったことも、映像をやりたいと思ったことも、どちらも本当だったから。どちらかだけが本当だったことにして、きれいに整理するのは、たぶん違うと思うんです」
教室の時計が、秒を刻んだ。
「だから、書きました」
黒川先生は、私の紙を見た。
「それなら十分だ」
「十分、ですか」
「進路調査票に書くのは、人生の結論ではない。今日の自分が、何を引き受けるかだ」
黒川先生はクリップボードを脇へ抱え直した。
「受かるかどうかは、これから決まる。生活費も、家族のことも、友人との関係も、紙一枚では片づかない。だが、他人の事情を理由に、自分の欄まで空白にする必要はない」
その言葉は、母の声に少し似ていた。現実を消さず、しかし現実のために夢を潰さない言い方だった。
「事情がある者は、事情のあるまま選ぶ。迷っている者は、迷っているまま選ぶ。選んだあとで考え直すこともある。それでも、誰かに代わって書いてもらうな」
黒川先生は回収箱を見た。
「言葉は、自分で書け」
私は紙を持ち上げた。
回収箱は教卓の横に置かれている。朝、何十枚もの紙を吸い込んだ箱だ。今はもう蓋が閉じられ、底の厚紙だけが少し見えている。
数歩の距離なのに、足が重かった。
席を立つと、椅子の脚が床を擦った。音が、誰もいない教室に大きく響く。私は紙を両手で持ち、机の列の間を歩いた。
通り過ぎる机の上に、消しゴムのかす、開きっぱなしの参考書、飲みかけの水筒が残っている。誰かの一日が、まだ教室から出ていない。窓の向こうには、夕方の海が白く光っていた。
回収箱の前で、私は立ち止まった。
紙を落とせば、少なくとも今日の私は、東京の美大へ行きたいと書いたことになる。湊の隣へ行くためではなく、湊がいなくても見たいものがあるから。
それでも、胸の奥に湊の名前が残っている。
私はそれを消さなかった。
消さないまま、紙を箱の中へ差し入れた。
指を離す直前、紙の角が指先をかすめた。薄い痛みが走る。朝と同じ小さな痛みだった。けれど、今度は逃げずに、その痛みを受け止めた。
紙が他の書類に触れる。
乾いた音がした。
たったそれだけの音なのに、教室の中へ自分の言葉を落としたように聞こえた。
黒川先生が、箱の中の紙を指先で整える。
「受け取った」
私は頷いた。
窓の外で、誰かが走っている。グラウンドの端を、部活動の生徒が一人、夕方の光の中を横切っていく。走る姿は遠くて、顔は見えない。それでも、足の運びだけで、急いでいるのか、ただ走りたいのかが少し分かる気がした。
私は空になった手を見た。
何も持っていないのに、指先にはまだ紙の感触が残っている。
教室を出るとき、廊下の先に人影が見えた。
瀬戸湊だった。
濡れてはいない。けれど、息が少し乱れている。走ってきたのか、走って逃げようとしたのか、私には分からなかった。彼は教室の扉の脇に立ち、こちらを見ている。
朝のようには笑わなかった。
私は足を止めた。
湊の視線が、私の手元へ落ちる。そこに進路調査票がないことを確かめるように。それから、私の顔へ戻る。
「出した?」
彼の声は、いつもより低かった。
「うん」
「東京?」
私は一拍置いた。
「うん」
湊は何か言おうとした。けれど、口元だけが動き、言葉にはならなかった。ポケットの中で、指を握っている。走り出す前の癖だった。
私は、今度は目を逸らさなかった。
「湊」
「なに」
「今日、話したい」
彼の表情がわずかに揺れた。
「理由のこと?」
「それも。でも、三年前のことも」
廊下の窓から、坂道の先の海が見えた。夕方の光が水面に細く伸びている。私たちが何度も歩いた坂は、校舎の向こうへ下りていた。
湊はしばらく黙っていた。
それから、いつものように口元を少し上げた。ただ、その笑い方は、誰かを安心させるためのものではなかった。迷いを隠しきれないまま、それでもここに立っている人の顔だった。
「分かった。逃げない」
私は頷いた。
紙はもう、提出箱の中にある。
私の言葉は、戻せない場所へ落ちた。けれど、戻せないことが、終わりを意味するわけではなかった。
廊下の先で、湊が一歩歩き出す。
今度は、私がその背中を追うためではない。
同じ場所へ行けなくても、聞きたいことを聞くために、私はその隣へ歩き出した。
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