6話 ファミレスの白い灯り

ファミレスの自動ドアが開くと、夜の冷たさが背中から押し寄せてきた。

店内は白かった。天井の蛍光灯も、テーブルの縁も、窓に映った私たちの顔も、同じ色に照らされている。外の暗さだけがガラスの向こうに残されていて、海沿いの道路を通る車のライトが、時々そこへ細い傷をつけていった。

「いらっしゃいませ」

店員の声に、透子が軽く手を上げる。

「二名で。できれば、いちばん隅の、世界から少し離れた席で」

「普通の窓際でいいから」

「澪、夢がない」

案内されたのは、道路に面した窓際の席だった。暖房は効いているはずなのに、ガラスの近くの空気だけが薄く冷えている。私は壁側に座り、透子が向かいへ腰を下ろした。

メニューを開いても、何が食べたいのか分からなかった。

「ミートドリア」

透子が先に言った。

「あと、カフェオレ。私はポテトと、季節限定のパフェ」

「そんなに食べるの」

「感情が荒れてるときは糖分が必要なの。医療関係者もたぶん言ってる」

「たぶんなんだ」

「私は今、湊より信頼できる情報源だよ」

冗談にしては、声が少しだけ低かった。

私はミートドリアと、甘くないアイスティーを頼んだ。店員が去ると、透子はテーブルの上に肘をつき、スマートフォンを取り出した。

「ところで、駅前のコンビニの新作、知ってる?」

「知らない」

「塩キャラメル味のシュークリーム。塩なのかキャラメルなのか、シューなのかクリームなのか、方向性が全部曖昧」

「透子みたい」

「私はもっと完成度が高い」

透子は画面をこちらへ向けた。茶色い袋に、やたら大きな文字で新発売と書かれている。私は見たけれど、味の想像はできなかった。

「今日、予備校の前に一年生がいたんだけどさ、三人で模試の判定表を見ながら、『俺たちも来年は東京かな』とか言ってて」

「一年生で?」

「そう。一年生だから言えるんだよ。三年生になると、東京かな、の後ろに、家賃とか学費とか、親の顔色とか、祖父母の病院とか、いろいろ付くから」

透子はそこまで言って、わざと明るく笑った。

「まあ、私は来年もたぶん地元にいるけど。駅前の雑貨屋、大学生になっても冷やかす予定だし」

「透子は、進路決まってるの」

「決まってるように見える?」

「見えない」

「ひどい。そこは見えるって言うところでしょ」

透子は笑った。けれど、笑い終わるまでが短かった。

「私だって、決まってないよ。親は県内の短大がいいって言うし、私は県外の専門も見てる。どっちもそれなりに理由があるし、どっちを選んでも誰かが少し安心して、誰かが少しがっかりする」

「……そういうの、考えてたんだ」

「考えるよ。私、何も考えてない顔を作るのが得意なだけ」

注文した料理が運ばれてきた。白い皿の上で、ミートソースがまだ小さく泡立っている。湯気が立ち上がり、チーズの匂いがした。私はスプーンを持ち上げたが、ソースを一度すくっただけで、口へ運べなかった。

向かいで透子がポテトを一本つまむ。

「熱っ」

「熱いの分かってて食べたでしょ」

「分かってても食べるのがポテトだから」

彼女は息を吹きかけながら、一本を半分に折った。

「湊、今日も走ってたね」

「うん」

「朝も走ってきたんでしょ。放課後も走って、澪に追いつかれて、逃げきれなくなってた」

「逃げてたのかな」

「澪にはそう見えたんじゃない?」

私はスプーンを皿の端に置いた。金属が陶器に触れ、小さな音を立てる。

「分からない」

「うん」

「湊が何を考えてるのか、分からない。店のことも、おじいさんのことも、どこまで大変なのか知らない。東京に行くつもりだったのに、どうして急に行かないって決めたのかも分からない」

「急に、かな」

「急に見えた」

「湊にとっては、急じゃなかったかもしれない」

透子はポテトを紙袋へ戻し、両手でカフェオレのカップを包んだ。白い湯気が、彼女の頬の前でほどけていく。

「でも、澪に言わなかったなら、澪にとっては急だよ。本人の中で何か月かかけて決まったことでも、伝えなければ、受け取る側には一秒で落ちてくる」

「一秒で落ちてきた」

「うん」

「落ちてきて、まだ拾えてない」

「拾わなくていいよ。とりあえず、そこにあるって見てれば」

窓の外を車が通り過ぎた。ヘッドライトがガラスを白く塗り、私たちの顔を一瞬だけ消した。光が去ると、透子の目がこちらを見ていた。

「ねえ、澪」

「なに」

「東京に行きたいんじゃなくて、行く理由を湊に預けてたんじゃないの」

言葉の途中で、透子の声は一度止まった。

断定ではなかった。問いの形にすらなりきらない、言葉の端だけがテーブルの上に置かれたようだった。

私は反論しようとした。

違う。

映像を学びたいから。海の光を撮りたいから。自分が見てきたものを、自分の手で残したいから。

いくつも理由が浮かんだ。けれど、口を開いても声にならなかった。

模試の判定表。志望校のパンフレット。美大の過去問。スケッチブック。海辺で撮った写真。どれも確かに私のものだった。何度も見返し、何度も手を動かし、何度も東京という場所を想像してきた。

それなのに、パンフレットを開いたとき、最初に探していたのは校舎の写真ではなかった。湊がそこにいるなら、どんな顔をするだろう。東京の電車に乗ったら、彼は迷うだろうか。駅前の人混みで、いつものように半歩だけ先を歩くだろうか。

そんなことばかり考えていた。

「違うって言いたい」

私はようやく言った。

「うん」

「でも、違うと言い切れない」

「うん」

「私は本当に映像をやりたい。海とか、人の顔とか、誰かが言葉を飲み込む瞬間とか、そういうものを撮りたい。湊がいなくても、それは変わらないと思う」

「思う、なんだ」

「……たぶん、変わらない」

「たぶん、でいいよ」

「でも、湊が行かないと分かった途端に、東京が急に遠くなった。さっきまで同じ場所だったのに、地図の上で切り取られたみたいになった」

透子はすぐに答えなかった。

厨房の方から、皿を重ねる音が聞こえた。氷がグラスの中で崩れ、アイスティーの表面に小さな波が立つ。私はカップの縁を指でなぞった。冷たいガラスが、指先の熱を少しずつ奪っていく。

「それは、湊が東京の一部だったからじゃない?」

「人を場所みたいに言わないで」

「でも、そういうことってあるよ。知らない街に行くとき、知ってる人が一人いるだけで、街の形が変わる。駅の出口も、道の曲がり方も、その人と一緒に覚えられる気がする」

「うん」

「だから、湊がいない東京が怖いのは、湊が好きだからだけじゃない。知らない場所を、一人で知らなきゃいけなくなるからかもしれない」

「好きって言った?」

透子の声が止まった。

私は自分で言ってから、耳の奥が熱くなった。透子は少しだけ目を逸らし、カフェオレの表面を見た。

「そこだけ拾うんだ」

「拾った」

「拾わなくていいところを拾うの、澪の悪い癖」

「透子が言った」

「言ったけど、私が言ったことを全部信じると、たまに困るよ。私は平気で余計なことを言うから」

「じゃあ、今のも余計なこと?」

「どうだろうね」

透子はカップを置いた。

「澪が湊を好きかどうか、私は決めない。澪が決めることだから。でも、好きじゃないことにしたいからって、湊と一緒に行きたい気持ちまでなかったことにするのは、違うと思う」

「なかったことにしたくない」

「じゃあ、何がしたいの」

私は答えられなかった。

ミートドリアの表面で、チーズが冷えて固まり始めている。食べなければいけないと思うのに、スプーンを持つ手が動かない。料理は時間が経てば冷める。冷めたものを温め直すことはできるけれど、最初にできた湯気と同じにはならない。

私たちの約束も、そうなのかもしれなかった。

「湊の理由を知りたい」

「知ったら、どうする?」

「分からない」

「引き止める?」

「分からない」

「東京に来てって言う?」

「言えない」

「どうして?」

「湊が来られない理由を知ったら、そんなこと言えないから」

透子は目を伏せた。

「それ、湊がいちばん嫌がるやつかも」

「何が」

「澪が、自分の事情を知った途端に、自分の夢まで小さくすること」

胸の奥に、湊の声がよみがえった。

俺の都合まで、澪が背負う必要ないんだよ。

あのときの彼は、私を突き放したのではなく、何かを返そうとしていたのかもしれない。私が無意識に預けていたものを、彼の手から戻そうとしていた。

でも、返されても困る。

三年間も持っていたものを、急に自分のものだと言われても、どこへ置けばいいのか分からない。

「私、湊に頼ってたのかな」

声にした途端、言葉が急に現実になった。

「頼ってたと思う」

透子はあっさり言った。

「でも、頼ること自体は悪くないよ。人はみんな、何かに寄りかかって進むから。親とか、友達とか、成績とか、家の事情とか。問題は、寄りかかっていたものがなくなったとき、自分まで倒れるのか、それとも一度手をついて立ち上がれるのかってこと」

「簡単に言う」

「簡単に言ってるように聞こえるだけ。私だって、まだ立ち上がれてないことあるし」

透子はスマートフォンを伏せた。画面の黒に、天井の蛍光灯が映っている。

「中学のとき、いつも一緒にいた子がいたの。何でも二人で決めて、同じ高校に行くって勝手に思ってた。でも、その子は県外の学校を選んだ。私は最後まで、本人が言い出すのを待ってた。聞けばいいのに、聞かなかった。聞いて、違うって言われるのが嫌だったから」

「それで?」

「卒業式の日に初めて知った。本人はずっと前から決めてたって。私は、何も言わないまま一緒にいることを、分かり合ってる証拠だと思ってた。でも実際は、何も聞かなかっただけだった」

透子の声は淡々としていた。

その淡々とした話し方の奥に、古い傷がある。私はそれを見つけた気がした。彼女が人の返事の遅れや、袖口の固さや、笑い方の違いを見逃さない理由が、少しだけ分かった。

「だから、二人を急かしてるの?」

「急かしてるつもりはない」

「でも、今日ずっとついてきた」

「ついてきたんじゃない。たまたま坂道を下って、たまたま自販機の前にいて、たまたまファミレスに来ただけ」

「全部たまたま?」

「そう。私は偶然に恵まれてるの」

透子は笑った。

今度の笑い方は、少しだけ本物だった。けれど、そのあとに残った目元の疲れを、私は見てしまった。

「澪。私は、湊の事情を勝手に話したくない。たぶん、家のことは湊が自分で言わないと意味がないから」

「知ってる」

「でも、澪が自分の進路を、湊が行くか行かないかだけで決めるのも違う。湊の事情を尊重することと、自分を消すことは同じじゃないよ」

「自分を消してるように見える?」

「少し」

透子は、しばらく窓の外を見ていた。

「澪は、湊に何かあったとき、いつも自分の気持ちを後ろへ下げる。湊が疲れてそうなら聞かない。湊が笑ってたら安心する。湊が先に歩いたら、追いつく。そうやって、隣にいることを守ってきた」

「それが悪いことみたい」

「悪いとは言ってない。優しいとも言ってない」

「じゃあ、何」

「癖だよ。澪の癖。見て、覚えて、相手に合わせて、自分のことは後で考える。その『後で』が、今日は朝の提出箱まで来ただけ」

私は目を伏せた。

朝の教室。赤いチョーク。白い紙。湊の濡れた髪。回収箱へ落ちた進路調査票。

自分のことを後で考える癖が、とうとう期限に追いつかれた。

「私の理由って、何だと思う?」

透子はすぐに答えなかった。

「それは私が言うことじゃない」

「でも、透子はいつも見てるから」

「見てるから言わない。見えているものが、その人の全部じゃないって知ってるから」

「じゃあ、私は何を考えればいいの」

「湊がいない東京を、行きたいかどうかじゃない」

透子は一度、窓の外へ視線を送った。暗い道路の向こうに、海は見えない。けれど、遠くで波が崩れる音がかすかに聞こえた。

「湊がいない東京で、それでも撮りたいものがあるかどうか」

その言葉が、胸の中に落ちた。

私は写真を撮るとき、誰かに見せるためだけに撮っているわけではない。海面に伸びる光を見つけたとき、濡れたアスファルトに街灯が滲んだとき、湊が笑う直前に目を細めたとき、残したいと思う。

残したいと思ったものは、誰かが隣にいるから価値があるのではない。

そう考えかけたところで、湊の横顔が浮かんだ。

横顔も、歩幅も、濡れた髪も、青果店の匂いも、私が見てきたものだった。湊がいなくなれば、撮りたいものの一部が消える。けれど、それは、消えたから撮れなくなるということではない。むしろ、いなくなるかもしれないから、残したいと思ったのではなかったか。

私は鞄からクリアファイルを取り出した。

文化祭の写真と、模試の判定表。その間に、美大のパンフレットが挟まっている。表紙には、光の差し込む編集室の写真が載っていた。何度も開いたせいで、紙の端が柔らかくなっている。

私はパンフレットを開いた。映像学科のページ。学生作品の紹介。小さな画面の中に、雨に濡れた駅のホームが映っている。人の姿はぼやけていて、誰がどこへ向かっているのか分からない。それでも、画面の奥に時間が流れていることだけは伝わってくる。

「これ、ずっと見てたんでしょ」

透子が言った。

「うん」

「湊が東京に行かなくても?」

私は写真の上に置いた指を動かした。

「……たぶん」

「また、たぶん」

「でも、今はたぶんしか言えない」

「それでいいよ。今日の澪の欄には、たぶんって書いてもいいくらい」

私は小さく笑った。笑えたのは、湊のことを忘れたからではない。忘れないまま、自分のことを考えている。その感覚が、少しだけ新しかった。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

母からだった。

画面には、短いメッセージが表示されている。

夜勤明け。帰りに牛乳買う。遅くなるなら連絡。

私は通話ボタンを押した。

「もしもし」

『まだ外?』

「うん。透子とファミレスにいる」

『食べた?』

「少し」

『少しは食べたうちに入らない。ドリアなら半分は食べて』

母の声の向こうで、袋が擦れる音がした。夜勤明けなのに、帰宅してからの買い物の順番を考えているのだろう。冷蔵庫の牛乳。洗濯物。明日の朝の弁当。生活は、私が進路に迷っている間も止まらない。

「お母さん」

『なに』

「東京の美大に行ったら、家のこと、大丈夫かな」

電話の向こうで、短い沈黙があった。母はすぐには答えなかった。返事の前に、私の顔色を見るような間だった。

『家のことは、家のこととして考える』

「でも、夜勤もあるし」

『夜勤があるから、あんたが残るの?』

「そういうつもりじゃ」

『なら、混ぜない。家の予定は私が組む。学費と生活費は一緒に考える。東京へ行くなら、帰る場所は残す』

「帰る場所」

『帰ってこられる場所が必要でしょ。行くためにも』

母の言葉は、励ましの形をしていなかった。東京へ行けとも、残れとも言わない。ただ、行った場合に必要なものを一つずつ並べている。

『澪。夢を持つのはいいけど、夢を理由に誰かへ借りを作ったつもりにならなくていい。生活は、あとから一緒に調整するものだから』

「うん」

『それと、食べてから帰ってきなさい』

「分かった」

『ドリア、半分』

「分かったってば」

電話を切ると、透子が片方の眉を上げた。

「お母さん、強いね」

「うん」

「澪が帰る場所を、先に作ってくれてる」

私はパンフレットを閉じた。

母の言葉と、湊の言葉が、胸の中で別々の場所に置かれている。湊は、私が自分の都合を背負わないように、東京へ行けと言った。母は、東京へ行っても戻れるように、生活を整えると言った。

どちらも、私の代わりに決めようとはしなかった。

だからこそ、私自身が決めなければならない。

私は冷めかけたミートドリアを、ようやく一口食べた。チーズは固まり、ソースの熱も失われていた。それでも、口の中に塩気と肉の味が広がる。食べられる。おいしいとは言いにくいけれど、食べられないわけではない。

「どう?」

透子が聞いた。

「冷たい」

「人生みたいな感想」

「透子のパフェも、時間が経ったら溶けるよ」

「それは困る。だから急いで食べる」

透子はスプーンを持った。パフェの表面に浮いた生クリームをすくいながら、ふと窓の外を見る。

「澪」

「なに」

「今日、湊に理由を聞くなら、かわいそうだから聞くんじゃなくて、知りたいから聞いて」

「同じじゃないの」

「全然違う。かわいそうだから聞くと、聞いたあとで自分が相手の人生を背負うことになる。知りたいから聞くなら、聞いたあとも相手の人生は相手のもののまま」

透子のスプーンが、グラスの縁に触れた。

「湊はたぶん、澪に同情されたくない。澪もたぶん、湊の事情を理由に自分の夢を曲げたくない。でも二人とも、相手を傷つけたくないから、話を途中で止める。止めたところに、勝手な想像が溜まっていく」

「想像で、もういっぱい」

「なら、少し減らしてきなよ」

時計を見ると、十一時を過ぎていた。

店内の客は少なくなり、厨房から聞こえる音もまばらになっている。蛍光灯は相変わらず明るいのに、世界の方が少しずつ眠り始めていた。

私は残ったドリアを半分まで食べた。母との約束を守ったというほど大げさではない。ただ、目の前の皿を自分の手で空けることが、今は必要な気がした。

会計を済ませ、ファミレスの外へ出る。

夜気が頬に触れた。店内の白い明るさが背中で閉じられ、道路の先に暗い海が広がっている。歩き出すと、透子の歩幅が私に合わせて少し遅くなった。

「湊、店にいるかな」

「いるかもね」

「行く?」

「今日は行かない」

「逃げる?」

「逃げるんじゃなくて、明日にする」

私は自分で言ってから、その違いを考えた。逃げるなら、明日も同じ問いから逃げる。けれど、明日にすると決めたなら、今夜は自分の中に問いを置いておける。

駅前の信号が赤に変わる。二人で立ち止まる。向こう側の商店街アーケードは、シャッターが下りていて、昼間の反響を失っていた。

「澪」

透子が呼んだ。

「うん」

「明日、進路調査票を書き直すなら、誰のために書くか考えて」

「今日、出したよ。空欄で」

「知ってる」

「見てたの」

「見てた。私、そういうの見るのが趣味だから」

透子は笑った。

信号が青になる。

私は歩き出した。湊のいない東京を想像する。知らない駅。知らない部屋。窓から見える、知らない空。そこに自分が立って、カメラを構えている。

怖い。

けれど、怖いことと、行きたくないことは同じではなかった。

海辺の風が、アーケードの隙間から吹き抜けてきた。透子の髪が揺れ、私は反射的にその先を目で追った。誰かの動きが、光の中で一瞬だけ輪郭を持つ。

私はそれを、撮りたいと思った。

湊が隣にいなくても。

そう思った直後、胸の奥に痛みが走った。自分の気持ちを一つ選んだことで、もう一つを捨てたような痛みだった。

それでも私は歩いた。

ファミレスの白い灯りは、背中の方で小さくなっていく。窓際の席に残った冷たい皿も、透子の低い声も、母の「半分は食べて」という言葉も、全部がまだ胸の中にある。

何も決まっていない。

でも、決められない理由の中に、湊だけを置かなくてもいい。

夜の道路を走る車のライトが、また一筋、暗闇を横切った。白い光はすぐに消えたが、消えたあとも、目の奥にはしばらく残っていた。

← 横にスクロールして読み進められます