第5話 海へ下る坂道

チャイムが鳴った瞬間、湊はもう教室にいなかった。
鞄も持たず、上履きのまま廊下へ飛び出す後ろ姿を見て、私は自分の椅子を蹴るように立った。透子が何か言おうとしたけれど、聞こえなかった。聞く前に、私はもう走り出していた。
昇降口で靴を履き替える時間さえ惜しくて、指がうまく紐を結べない。焦れば焦るほど、結び目が固くなる。それでも私は坂道へ向かった。駅前から海へ下る、いつもの坂だ。
制服のスカートの裾が脛にまとわりつく。呼吸がすぐに浅くなって、喉の奥が焼けるように痛い。走ることに慣れていない身体が、こんなときだけ湊に追いつこうとする。滑稽だと思う暇もなかった。
坂の途中で、風が変わった。駅前のざわめきが背中の方へ遠ざかり、代わりに潮の匂いが鼻の奥にまで入り込んでくる。湊の背中は、思っていたよりずっと先にあった。
追いつけない。
追いつけないんじゃない。追いつかせてもらえないんだ。
彼が少し速度を上げるたび、私との距離は同じ幅だけ保たれる。振り返って確かめているわけではないのに、絶対に埋まらない距離だった。何かを言う前に、歩幅を整えたい人間の逃げ方だと、私は知っていた。小学生の頃から、湊はいつもそうだった。困ったことがあると、まず足を動かす。動いている間だけ、考えなくて済むからだ。
海沿いの自販機の前で、湊はようやく足を止めた。
息を切らして追いついた私を見て、彼は少し驚いたような顔をした。それから、いつもの顔に戻る。笑って、何もなかったことにする顔だ。
「速いな、澪」
「湊が、遅いだけ」
言い返す声も、まだ息が整っていない。湊は自販機に百円玉を入れ、缶コーヒーを一つ買った。開けるでもなく、両手で包むように持つ。冷たさを確かめているみたいだった。
私は息を整えながら、言葉を探した。
家業のことか。 祖父の体調のことか。 進路を変えた本当の理由か。
問いはいくつも浮かんだのに、どれも湊の真正面には届かない気がした。海からの風が、私たちの間を通り過ぎていく。
「下宿先、もう探してんの?」
湊が先に口を開いた。
「まだ。そんな急に決められないし」
「澪なら、机ひとつあればどこでも暮らせそうだしな」
軽口は軽口の形をしているのに、少しだけ間が遅れる。その遅れが、私には怖かった。湊が本気で何かを隠しているときほど、冗談の数は増える。隠すために笑う。笑って隠す。その癖は、昔からずっと変わらない。
「湊」
「なに」
「今日、朝に言ったこと」
湊の指が、缶の表面を撫でるように止まった。
「東京には行かない、って」
「うん」
「どうして」
私はできるだけ静かに聞いた。詰め寄るのではなく、湊が言葉を選ぶ余地を残したかった。それでも、彼は視線を海の方へ逃がした。
「色々あるんだよ」
「色々って何」
「言っても、澪には分からないと思う」
「分からないから聞いてる」
湊は少し笑った。困ったときの笑い方だった。
「祖父さんの店、人手が足りなくなってさ」
「それだけ?」
「それだけって、店が回らなくなったら家が回らなくなるんだよ」
声の端に、初めて硬さが混じった。私は一歩踏み込みたくなって、でも踏み込めなかった。
「介護のことも、ある?」
湊の肩が、わずかに動いた。
「なんで、そこまで知ってるんだよ」
「知らない。想像しただけ」
「想像で当てるなよ」
軽い口調のまま、けれど目だけが逃げていた。私はその目を見て、これ以上聞けば、彼が完全に閉じてしまうことが分かった。
潮風が、私たちの間の数センチを薄くする。湊の濡れた髪先が首筋に貼りついている様子を、私は見てしまう。見てしまってから、見なければよかったと思う。言葉より先に見てしまうから、誤魔化せない。誤魔化せないから苦しい。
「澪は、東京に行けばいいだろ」
湊がぽつりと言った。
「俺のことは、気にしなくていい」
「気にしなくていいって、そんな簡単に言わないで」
「簡単に言ってるつもりないよ」
「じゃあ、どんなつもりで言ってるの」
湊は缶コーヒーの蓋を、まだ開けないまま握り込んだ。
「澪が、俺のせいで迷うのが嫌なんだよ」
その一言が、思っていたより深く刺さった。
「せいって、何のせい」
「俺が東京に行かないこと」
「湊のせいじゃない」
「じゃあ、誰のせいだよ」
「誰のせいでもない」
「だったら、澪は自分の理由で東京に行けばいいだろ。俺の都合まで、澪が背負う必要ないんだよ」
声は静かだったけれど、そこには湊なりの強さがあった。負けを他人に転嫁しない、その頑なさが、彼の優しさでもあり、私を苦しめる壁でもあった。
そこへ、息を切らせた透子が追いついてきた。
彼女はいつも、こういう瞬間の入り方だけは正確だった。深くは入らず、しかし退きもしない距離に立つ。
「はいはい、ここで詰めるのやめ。二人とも、顔がうるさい」
からかいの言葉に、私は返せなかった。湊も笑うだけで、何も言わない。透子はそれ以上踏み込まなかった。ただ、少しだけ沈黙を置いた。
その沈黙の中で、私は湊の手の甲に、青い薄い傷があるのを見つけた。
青果の箱の角にでも擦ったのか、荷物を運ぶ途中でぶつけたのか。彼はそれに気づいているはずなのに、隠さない。隠さないのに、何も言わない。その曖昧さが、今日一日、いちばん私を苦しめていた。
「湊、それ」
私は思わず、その傷を指差した。
「ああ、これ? 店の段ボール、積みすぎて崩れてさ」
「痛くないの」
「痛くはない。ちょっと擦っただけ」
湊はそう言って、傷を見せるように手の甲を軽く上げた。皮膚の表面が薄く裂けて、乾いた血の跡が残っている。私はその傷を見ながら、彼の生活の重さを初めて具体的な形で受け取った気がした。
店を手伝う。段ボールを運ぶ。祖父の様子を見る。走って学校に来る。全部が積み重なって、この小さな傷になっている。
「湊」
声が震えた。
「私、まだ何も分かってないんだと思う」
「別に、無理して分かろうとしなくていいよ」
「無理じゃない。分かりたいの」
「分かったら、どうするんだよ」
湊の目が、初めてまっすぐ私を見た。
「分かったら、澪は東京に行きにくくなるだろ。だから、俺は言いたくないんだよ」
その言葉に、私は何も返せなかった。
湊が私を守ろうとしていることは分かる。けれど、その守り方が、私たちの間にある大事なものを、少しずつ削り取っているようにも感じた。
透子が空を見上げた。夕方の色が、海の向こうから広がり始めている。
「もう、今日はここまでにしよ」
透子の声は、いつもより低かった。
湊は缶コーヒーの蓋をようやく開けて、一口だけ飲んだ。それから、笑おうとした。けれど、その笑顔は、朝よりずっと薄かった。
「帰るか」
湊はそう言って、坂を上り始めた。
私はその背中を見た。歩幅は、いつもと同じだった。追いつかれるのを待つわけでもなく、完全に置いていくわけでもない。半歩だけ先を歩く、いつもの距離だった。
その距離のままで、私たちはまだ、何も終わっていない。
終わっていないことだけが、今の私にとって、かろうじて縋れるものだった。
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