4話 濡れた髪の朝

湊が教室へ入ってきたとき、朝の冷気まで一緒に流れ込んできた。

窓際のカーテンが大きく膨らみ、机の上に置かれた進路調査票の端が一斉に浮き上がる。私は反射的に紙を押さえた。空欄の志望欄が、風にめくられて見えてしまうのを防ぐためだった。

湊の髪は濡れていた。

前髪の先から、細い雫が一つ落ちて、制服の襟に吸い込まれる。走ってきたのだと思う。彼は走ったあと、しばらく誰とも目を合わせない。息が整うまで、視線を人の肩や机の角に逃がす癖がある。

けれど今日は、息が整うより先に笑った。

「おはよ。朝からみんな、進路に殺されそうな顔してるな」

教室の後ろから、何人かが笑い声を返した。

「お前が遅いだけだろ」 「遅刻じゃないって。走ってきたし」 「走る方向が違うんだよ」

「人生、だいたい方向は違うから」

湊は軽く答えた。いつもの調子だった。誰かが投げた言葉を受け取り、少しだけ形を変えて返す。場の空気が重くなりそうな瞬間に冗談を差し込む。それは彼にとって呼吸と同じだった。

私は彼の口元を見た。

笑っているのに、頬がほとんど動いていない。目の下に薄い影があり、右手はポケットの中で何かを握っている。指の関節が、布越しにも分かるほど固く浮いていた。

湊は私の席へ近づいてきた。

透子が隣で、机の上のシャーペンを横に置く。芯が折れたわけではない。会話が始まる前の、彼女の小さな合図だった。見ている、と伝えるための合図。

湊は私の前で足を止めた。

「澪」

名前を呼ばれただけで、胸の奥が狭くなった。

「なに」

返事が遅れた。湊の視線が私の指先へ落ちる。進路調査票の端を押さえていた親指が、紙に白い跡を残していた。

彼は一度、笑おうとした。

失敗した。

「俺、東京には行かない」

声は、教室のざわめきに紛れるほど小さかった。それでも私は聞き取った。

聞き取ってしまった。

椅子を引く音が遠くなる。窓の金具が風に鳴る音も、廊下を走る足音も、透子が息を止めた気配も、すべて薄い膜の向こうへ退いていく。

東京には行かない。

その一文だけが、耳の奥で何度も形を変えずに残った。

「……何が?」

やっと出た声は、自分でも驚くほど平らだった。

「何がって?」

「今の」

「ああ、進路の話」

「東京に行かないって」

「うん」

湊は頷いた。頷いたあとで、右の袖口を引っ張る。隠したいときの仕草だった。

「だから、そういうこと」

「どういうこと」

「東京には行かない。地元にいる」

まだ、意味が追いつかない。

昨日まで机の上にあった下宿先の封筒。三年前の駅前で交わした言葉。東京の学校を調べるとき、湊が私の隣から覗き込んできた画面。どれも消えたわけではないのに、置き場所だけがなくなったようだった。

「理由は?」

聞いたつもりだった。

けれど声になったのは、途中で切れた息だけだった。

湊は私の顔を見た。目が合ったのは一瞬だった。すぐに視線を逸らし、教室の後ろにある回収箱へ向ける。

「あとで話す」

「いつ」

「今日。放課後」

「今日って、どこで」

「どこでもいいだろ。海でも、駅前でも、ファミレスでも」

「どこでもよくない」

今度は声になった。

湊の眉がわずかに動く。怒ったわけではない。ただ、予想していた反応と違ったのかもしれない。

「澪、今ここで話すことじゃない」

「じゃあ、いつ話すの。昨日も、まだ決めてないって言った。今朝は行かないって言った。決めてないのに行かないことだけ決まるの、どういうこと」

言葉が出始めると止まらなかった。

胸の内側に溜めていたものが、順番を待たずに口元まで押し上がってくる。机の角を指でなぞろうとしたが、指先が震えてうまく触れられなかった。

湊はまた笑おうとした。

「いや、澪さん、朝から詰めるねえ。俺、まだ髪も乾いてないんだけど」

「笑わないで」

湊の口元が止まった。

「笑ってないって」

「笑ってる」

「これはもう、癖」

「じゃあ、その癖を今だけやめて」

言ったあと、教室の空気が変わった。

透子がこちらを見ている。教室の後ろで話していた男子も、声を落としている。誰かの机からペンが転がり、床に落ちた。乾いた音が、一度だけ響いた。

湊は黙った。

濡れた前髪から雫が落ち、頬を伝って顎の先へ集まる。拭おうとした手が途中で止まり、彼はそのままにした。

「……分かった」

いつもの軽い声ではなかった。

「あとで話す。ちゃんと」

「本当に?」

「約束する」

その言葉に、胸が痛んだ。

約束という言葉を、私たちは三年間、便利に使ってきた。二人で東京へ行こう。いつか写真を撮りに行こう。卒業しても、たまには会おう。言った瞬間は本気だったのに、確かめないまま時間だけが進んでいった。

「約束、もう増やさないで」

湊の顔から、わずかに色が引いた。

そのとき、黒川先生が教室の後ろから戻ってきた。出席簿を片手に、もう一方の手で回収箱を持っている。箱の底に、厚紙を敷いた音がした。

「席に着け」

大きな声ではなかった。

それでも、教室の全員が自分の机へ戻った。

湊も一歩退いた。私の机の角に触れそうだった膝を、わずかに外へ逃がす。制服の袖がクリアファイルの端をかすめた。濡れた布が、指先のすぐそばを通り過ぎる。

触れていない。

触れていないのに、熱だけが残った。

黒川先生は教卓の前に立ち、出席を取り始めた。名前を呼ばれた生徒たちが返事をする。その一人ひとりの声が、教室を現実へ戻していく。

「瀬戸」

「はい」

湊の返事は、普段より低かった。

「望月」

「……はい」

私の声は、自分の席からではなく、どこか遠くから聞こえた。

黒川先生は出席簿を閉じ、回収箱を教室の中央へ置いた。

「進路調査票を回収する。提出できない事情がある者は、提出できないと書いて出せ。空欄のまま人間関係に預けるな」

その言葉に、教室の何人かが顔を上げた。

私は湊を見た。

彼は見ていなかった。濡れた髪を指で払っている。払った前髪がまた額へ落ちる。手の甲に、青い傷があった。薄く腫れている。青果の箱か、店の棚か、硬い角に擦った傷だろう。

それを見た瞬間、昨日の封筒がよみがえった。

学生向け物件。

東京へ行くために、彼は何かを調べていた。調べて、考えて、迷っていた。その過程ごと、私の知らないところへ隠していた。

どうして。

その問いが、喉の奥で固まった。

黒川先生が一枚目の進路調査票を回収箱へ入れる。紙が箱の底に触れる音は、思っていたより軽かった。けれど、その軽さが怖かった。誰かの未来が、薄い紙一枚の重さで落ちていく。

前の席の生徒が立ち、箱へ向かう。

「先生、第一志望、変更してもいいんですか」

「変更するための調査票だ」

「でも、書いたら後戻りできないっていうか」

「書かなくても時間は進む」

黒川先生は生徒の顔を見た。

「後戻りできるかどうかは、紙では決まらない」

生徒は黙って用紙を落とした。

教室の外で、チャイムが鳴った。SHRの始まりを告げる音だった。

湊の机の上には、進路調査票が見当たらない。

私はそれに気づいた。クリアファイルの下にも、教科書の間にもない。机の脇に掛けた鞄の口は閉じられている。

黒川先生が視線を上げた。

「瀬戸」

湊は立ち上がらなかった。

「進路調査票は」

「持ってます」

「出せ」

「……はい」

湊は鞄を開けた。

中から出てきたのは、折り畳まれた紙ではなく、古い青い封筒だった。封筒の角は擦れて白くなっている。彼は一瞬だけそれを見つめた。それから、別のポケットへ手を入れ、進路調査票を取り出した。

紙は二つ折りにされていた。

折り目が何度も開かれた跡がある。

湊は席を立った。回収箱へ向かう途中、私の横を通る。歩幅はいつもより小さい。私に合わせているのか、足に力が入らないのか分からない。

彼の肩が、私の肩に触れそうになった。

湊はまた避けた。

私は紙を握りしめた。

「瀬戸」

黒川先生の声が飛んだ。

湊は回収箱の前で止まっている。

「提出は、本人の手で」

「分かってます」

「なら、置け」

湊は調査票を箱へ落とした。

紙が他の書類の上に乗り、端が少し跳ねた。黒川先生がそれを指先で整える。几帳面な手つきだった。

湊は席へ戻った。

私の進路調査票は、まだ机の上にある。志望欄は空白だ。東京の美大の名前を書けばいい。書くつもりだった。ずっと、そのつもりだった。

けれど今は、ペン先をどこへ置いても、湊のいない東京が紙の上に広がる。

黒川先生は、教卓の前から教室を見渡した。

「迷っている者は、迷っているまま書け。今日の時点での自分を、他人の都合で消すな」

誰も返事をしなかった。

湊が机の下で靴先を動かしている。床を蹴ってはいない。蹴る寸前で止めている。その止め方を、私は知っていた。

走り出したいときの足だ。

私はペンを持った。けれど、紙には触れなかった。

透子が隣で、机を軽く二度叩いた。

私を急かす音ではない。見ている、という合図だった。

私は湊の背中を見た。

濡れた髪はまだ乾いていない。襟元には、朝の冷たさが残っている。彼はいつものように、何も抱えていない顔をしている。だが、その顔を作るために、どれだけのものを押し込めているのか、私はもう見ないふりができなかった。

放課後まで待てば、理由を聞ける。

そう思おうとした。

けれど、回収箱に落ちた紙の音が、何度も耳の奥で鳴った。東京へ行かないという言葉は、すでに湊の口から出てしまっている。どれだけ理由を聞いても、どれだけ事情を知っても、その言葉がなかったことにはならない。

私は立ち上がった。

椅子の脚が床を擦った。

黒川先生がこちらを見る。

「望月」

「はい」

「どうした」

喉が乾いていた。透子の視線が横から届く。湊の肩が、わずかに固くなる。

私は進路調査票を持ったまま、回収箱の前へ歩いた。

「出します」

「まだ書いていない」

黒川先生が言った。

「空欄でも提出はできる」

「……はい」

「空欄で出すのか」

問いは短かった。

答えを与えないための問いだった。

私は紙の白い欄を見た。空欄は、ただ何もないのではない。湊の言葉も、私が飲み込んだ問いも、三年前の約束も、全部がまだ書かれていない形でそこに残っている。

「今は、書けません」

口にした瞬間、胸の奥がひどく冷えた。

黒川先生はすぐに返事をしなかった。赤いチョークの粉が、黒板の溝に細く溜まっている。教室の窓から差す光は、朝より少し高い位置にあった。

「書けない理由は、自分のものか」

私は答えられなかった。

湊がこちらを見た気配がした。けれど、顔を向けることができない。

黒川先生は回収箱の蓋を少し持ち上げた。

「提出しろ。空欄であることも、今のお前の言葉だ」

私は用紙を箱へ落とした。

紙の角が指先に触れ、薄く皮膚を擦った。痛みは小さかった。けれど、その小ささが今はありがたかった。確かに自分の手で置いたのだと分かるからだ。

席へ戻る途中、湊と目が合った。

彼は笑わなかった。

笑わない湊の顔を、私はほとんど知らなかった。濡れた髪の先から落ちた雫が、頬を伝って顎へ落ちる。彼はそれを拭わないまま、私を見ていた。

その視線の中に、謝罪があるのか、困惑があるのか、決意があるのか、私には判別できなかった。

ただ、逃げる前の人間の目だけは分かった。

湊は、まだここにいる。

けれど、もうすぐ走り出す。

放課後まで待てば、理由を聞ける。

そのはずなのに、私は自分の足が、すでに彼を追う準備を始めているのを感じていた。

← 横にスクロールして読み進められます

濡れた髪の朝 - 行かない理由 - 誰でも作家life