第3話 下宿先の冗談

昼前の休み時間、私は進路調査票をクリアファイルへ戻した。
写真を先にしまい、模試の判定表をその上へ重ねる。白い紙が見えなくなるだけで、机の上は少し片づいたように見えた。けれど、紙を隠しただけで空欄が消えるわけではない。透明なファイルの下で、志望欄は相変わらず白いままだった。
教室の後ろでは、昼休みを待てずに弁当箱を開ける音がしている。誰かが購買のパンを見せびらかし、誰かが模試の判定表を取り上げられて、やめろよ、と笑っていた。笑い声の隙間から、東京という言葉が何度も聞こえた。
駅前の予備校。 春からの講習。 寮の抽選。 下宿先。
その言葉を聞くたび、机の上に湊の席があるような気がした。実際には、教室の斜め後ろに彼の机がある。けれど東京という場所を思い浮かべると、いつも隣に湊が立っていた。
私は席を立った。
何を話すかは決めていなかった。決めていないのに、足だけが彼の方へ向かった。そういうときの私は、走り出す前の湊に似ているのかもしれない。考えるより先に、靴が地面を蹴っている。
湊は机の上でペンを回していた。
右手の親指と人差し指の間を、黒いペンが滑っていく。回して、受け止め、また回す。失敗しない。青果店の匂いが制服の袖口に薄く染みついていて、近づくと、洗剤の香りの奥から土と果物の甘さがした。
彼は私に気づくと、ペンを止めた。
「何。珍しい。そっちから来るなんて」
「別に」
「別にの顔じゃないけど」
「どんな顔」
「俺に何か聞きたいけど、聞いたら負けだと思ってる顔」
「勝ち負けじゃないよ」
「進路の話はだいたい勝ち負けになるだろ。判定とか、順位とか、合格者数とか」
湊は笑った。
笑ったけれど、ペンを机へ置く指先が少し強かった。カツ、と硬い音がする。
私は彼の机の角へ目を落とした。そこには、駅前の不動産会社でもらったらしい小さな封筒が置かれていた。白い封筒の端に、青い文字で「学生向け物件」と印刷されている。
胸の奥が、浅く鳴った。
「東京に行ったら」
「うん」
「下宿先とか、どうするの」
自分でも驚くほど、声が軽かった。
湊はすぐには答えなかった。視線を封筒へ落とし、それから私の顔へ戻す。返事の前に一拍置く癖がある。昔から知っている間だった。何かを選んでいるときの間。言うことを決めたのではなく、言わないことを決めているときの間。
「いきなり現実かよ」
「現実でしょ。家賃とか、駅からの距離とか、風呂が共同かどうかとか」
「澪、物件の話になると急に強いな」
「強くない」
「いや、強いよ。海辺の写真撮ってるときは、波の反射がどうとか、夕方の光がどうとか言ってるのに」
「それとこれは別」
「別じゃないだろ。東京で暮らすなら、光より先に家賃を見るんだよ」
「だから、どうするの」
湊はペンを指先で押した。机の上を転がったペンが、端で止まる。
「そういうのは、そっちが先に決めるんじゃないの」
「何それ」
「澪、部屋探しとか好きそうじゃん。間取り図見て、ここは朝の光がいいとか、窓の向きがどうとか、勝手に決めそう」
「勝手には決めないよ」
「じゃあ、俺にも相談してくれる?」
「湊が行くなら」
言ってから、自分の声に混じった条件に気づいた。
湊が行くなら。
その一言だけが、机の上に落ちた。軽口の形をしていたのに、床まで沈んでいくような音がした。
湊の口元から笑いが消える。
窓の外で、運動部の誰かが大声で呼び合っている。教室の中では、椅子を引く音がした。私たちの周りだけ、音の流れが少し遅れている。
「俺のことまで、お前に任せる気、まだある?」
「任せるって、何を」
「住む場所とか、行く場所とか。俺がどこにいるかまで、澪が決めてくれるのかなって」
「そんなつもりじゃない」
「じゃあ、どんなつもり?」
いつもの湊なら、ここで笑って別の話へ移る。実際、口元は少し上がりかけていた。けれど、笑う形になる前に止まった。制服の袖を引っ張る。隠したいときの仕草だった。
私は、その袖口から目を離せなかった。
「一緒に行くと思ってたから」
声が小さくなった。
「東京に?」
「うん」
「いつから?」
「分からない」
「分からないのに、そう思ってたんだ」
「湊だって、そう言ったじゃん」
湊の指が止まる。
私の中で、三年前の駅前が急に明るくなった。雑貨屋のガラスに映った私たちの制服。夕方の自転車のベル。湊が、東京は人が多すぎて迷子になるらしい、と言っていたこと。私が、二人なら迷子にならない、と返したこと。
それから彼が、少し遅れて笑ったこと。
「二人とも東京に行こうって」
私は続けた。
「あれ、湊も覚えてるよね」
「覚えてるよ」
「冗談だった?」
聞いた瞬間、胸の内側が冷えた。
答えを聞く前なのに、もう何かを失ったような気がした。問いを口にしたことで、今まで曖昧なまま置いていたものへ、初めて輪郭が与えられてしまった。
湊は目を伏せた。机の下で、靴先が床を一度だけ蹴る。
「冗談じゃないよ」
「じゃあ、本気?」
「その時は」
「今は?」
湊は答えなかった。
私は息を止めたまま、彼の顔を見ていた。笑っていない。けれど苦しそうにも見えない。湊は、苦しいときほど普段より平気な顔をする。その顔を私は何度も見てきた。野球部を辞めた日も、祖父の店を手伝い始めた日も、彼は同じように笑っていた。
笑って、何もなかったことにした。
「今は、まだ決めてないだけ」
やがて湊が言った。
「進路調査票も空欄なんだろ」
「見たの?」
「見てない。澪は、決めてないときほど机の角を三回触るから」
私は反射的に自分の指を見た。
いつの間にか、机の角へ触れていた。一本、二本、三本。湊はそれを知っていた。知っていて、今まで何も言わなかった。
「湊だって、決めてないじゃん」
「俺は考えてる」
「私だって考えてる」
「知ってる」
「知ってるなら、何でそんな言い方するの」
「どんな言い方?」
「私が何も考えてないみたいに」
声が少し強くなった。
教室の何人かがこちらを見た気配がする。透子は自分の席から動かなかった。ただ、手に持っていたシャーペンを机へ置いた。芯の先が木の表面に触れる、小さな音がした。
湊は私を見た。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「澪がちゃんと考えてるのは知ってる。美大のことも、映像のことも。海の光とか、人の顔とか、そういうのを残したいんだろ」
「だったら」
「だから、俺のことまで理由にしなくていいって言ってる」
言葉が、思ったより深く入った。
「理由にしてない」
「してるだろ」
「してない」
「じゃあ、何で俺が行くならって言ったの」
「それは……」
言葉が詰まる。
湊は視線を逸らした。窓の外へ目を向ける。その先には校舎の屋根と、白く霞んだ海がある。彼の横顔に、冬の光が薄く差していた。
「俺のことまでお前に任せる気、まだある?」
湊がもう一度言った。
今度は冗談ではなかった。
「東京に行くって決めたら、澪が行くから俺も行く。澪が部屋を探すから、俺もそこに住む。そういうふうに、俺の未来までお前の隣に置いていいのかって聞いてる」
「置いてない」
「置いてるよ。俺も同じだ。澪が東京に行くって言うから、俺も行くって言いやすかった」
私は顔を上げた。
湊の声は低く、いつもの軽さがほとんどなかった。だからこそ、言葉の一つ一つが直接届いた。
「でも、誰かと一緒なら行けるっていうのは、行きたいってことと同じじゃないだろ。俺は、澪の隣にいたいから東京へ行くのか、自分で行きたいから行くのか、そこをちゃんと考えないといけない」
「……湊は、行きたくないの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、行きたいの?」
「それも、今は簡単に言えない」
「何で」
「何でって聞かれて、すぐ答えられるなら、こんな顔してない」
彼は笑おうとした。けれど、笑いきれなかった。
私はその表情を見て、胸の奥が細く痛むのを感じた。湊が何かを隠している。家のことかもしれない。店のことかもしれない。祖父のことかもしれない。聞けば、きっと何かが変わる。
けれど、私は聞けなかった。
聞いたら、引き止められなくなる気がした。事情を知ってしまえば、東京へ行こうと言うことが、わがままになる。湊の決めたことに手を伸ばすことが、誰かの生活を乱すことになる。
それが怖かった。
透子が立ち上がった。
「二人とも、揃いも揃って顔がうるさい」
いつもの調子だった。けれど、目だけは笑っていない。
「昼休み前に重い話を始めないでよ。こっちはまだ菓子を食べ終わってないんだから」
「透子、うるさい」
湊が言った。
「はいはい。うるさい人は、うるさくない人の代わりに聞くけどさ」
透子は私たちの間にある机一つ分の距離を見た。
「東京に行くかどうかは、今日ここで決めなくてもいいと思う。でも、二人とも『一緒に行く』を便利な言葉にしすぎてない?」
「便利?」
私が聞き返す。
「うん。怖いことを考えなくて済む言葉。進路も、寂しさも、好きかどうかも、全部まとめて『一緒に行く』って言えば、考えたふりができる」
湊が透子を見る。
「急に鋭いこと言うなよ」
「急じゃない。ずっと言おうとして、タイミングを逃してた」
「透子まで、何か知ってるみたいに言う」
「何も知らないよ。だから決めつけてない。ただ、二人が同じ言葉を使って、別のことを考えてるのは分かる」
透子はそこで一度、視線を外した。
「澪は湊と離れたくない。湊は澪の夢を壊したくない。たぶん、それだけでもう、二人とも相手に本当のことを言えなくなってる」
教室の空気が、ゆっくり沈んだ。
湊は机の上の封筒を裏返した。学生向け物件の文字が見えなくなる。
「透子って、ほんと余計なこと言うよな」
「余計なことしか言わないよ。必要なことは本人に言わせたいから」
「じゃあ、俺から言うことは何もない」
「それ、言わないって決めた人の顔」
湊の口元が引きつった。
私は彼の袖口を見た。袖を引っ張った指が、白くなっている。力を入れている。けれど、顔には出さない。出さないことに慣れている。
「湊」
名前を呼ぶと、彼の目がこちらへ向いた。
近い。机一つ分しか離れていない。それなのに、間に透明な壁があるようだった。私は手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れるべき場所が分からない。
「下宿先のこと、私が勝手に決めるつもりじゃなかった」
「うん」
「ただ、二人で考えるものだと思ってた」
「うん」
「一緒に行くなら」
そこで言葉が止まる。
湊は急かさなかった。透子も何も言わなかった。二人とも、私が言えるまで待っている。その待たれ方が、かえって怖い。
「一緒に行くなら、同じ部屋じゃなくてもいいし、同じ大学じゃなくてもいい。毎日会わなくてもいい。でも、同じ街にいると思ってた」
湊の指が止まる。
「それって、俺がいないと東京へ行けないってこと?」
「違う」
「違わないだろ」
「違う。違うけど……」
私はクリアファイルの端を握った。
「湊がいる未来を、私は自分の未来の中に入れてた。入れていたかった。だから、そこから湊だけいなくなると、東京そのものが別の場所になる」
言い切ったあと、喉が痛んだ。
今まで、こんなことを口にしたことはなかった。恋だと呼べるほどまっすぐでもなく、友情だと片づけられるほど軽くもない。湊と同じ未来を望む気持ちは、名前をつけないまま、私の進路の奥に絡みついていた。
湊はしばらく何も言わなかった。
やがて、机の下で靴先を一度だけ動かした。
「俺だって、同じだったよ」
その声は、教室のざわめきに消えそうなほど小さかった。
「澪が行くなら、俺も東京へ行けると思ってた。俺一人なら、たぶん途中でやめてた。東京の学校を調べるのも、文具を買うのも、寮の資料を捨てずに持ってたのも、澪が隣にいると思ってたからだ」
「じゃあ、どうして」
そこまで言って、私は口を閉じた。
湊は私を見なかった。袖を引っ張り、机の上の封筒を鞄へしまう。封筒の角を、几帳面に揃えてから入れた。
「まだ、何も決めてないって」
彼は笑った。
「今日はそれで勘弁して」
いつもの軽口に戻そうとしている。けれど、その笑顔は朝より薄かった。笑いの奥に、何かを押し込めている。私はそれが分かってしまった。
昼休みを知らせるチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に動き出す。弁当箱の蓋が開き、椅子が引かれ、廊下から別のクラスの声が流れ込んでくる。私たちの会話は、日常の音に押し流されていく。
湊が立ち上がった。
「購買、行ってくる」
「もう売り切れてるよ」
透子が言う。
「じゃあ、売り切れを確認してくる」
「何それ」
「確認は大事だから」
湊は笑い、教室の後ろへ歩き出した。
私は呼び止めなかった。
ただ、彼の歩幅を見ていた。いつもより少し速い。追いつかれるのを待つ歩き方ではない。かといって、完全に置いていく歩き方でもない。半歩だけ先へ出て、こちらが来るかどうかを確かめるような速度だった。
「追わないの?」
透子が聞いた。
「追わない」
「本当に?」
「今は」
湊は教室の扉を出る前に、一度だけ振り返った。
私と目が合う。
彼は何か言いかけた。けれど、すぐに口元を上げた。いつもの、誰かを安心させるための笑い方だった。
そして、廊下の向こうへ消えた。
私は机の上に残った透明なクリアファイルを見た。下宿先の話は終わっていない。東京へ行くのかどうかも、湊が何を隠しているのかも、まだ何一つ分からない。
ただ、三年前の「二人で東京へ行こう」という言葉が、冗談だけではなかったことだけは分かった。
それが分かったせいで、かえって苦しくなった。
昼休みの教室は明るい。窓の外では、海へ下る坂道を自転車が何台も走っている。誰もがどこかへ向かっている。速度を上げ、風を受け、曲がり角の先へ消えていく。
私は進路調査票の白い欄へ指を置いた。
紙の上には、まだ何も書かれていない。
その空白が、初めてただの迷いではなく、湊の知らない私自身の問題なのだと、少しだけ見え始めていた。
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