2話 写真の横顔

休み時間のチャイムが鳴ると、教室の空気が一度だけほどけた。

椅子を引く音、廊下へ出ていく足音、誰かが机の上で消しゴムを転がす音。授業中は同じ方向を向いていた生徒たちが、それぞれの小さな事情へ戻っていく。けれど、進路調査票だけは机の上に残されたままだった。紙の白さが、教室のどこにいても目に入る。

私は机の中へ手を入れた。

教科書の下に、透明なクリアファイルを隠してある。ファイルの端を探り、写真を一枚取り出した。文化祭の午後、校舎裏で撮った写真だった。

湊が、少し横を向いて笑っている。

誰かに呼ばれて振り返る途中だったのだと思う。正面を向いているときの湊は、笑うことを先に決めてから笑う。相手を安心させるための顔。場の空気が重くならないように、口元だけを器用に持ち上げる顔。

けれど、この写真の横顔には、その準備がない。

まぶたが少し下がり、頬の力が抜けている。文化祭の看板を支えていた腕には絵の具がつき、制服の袖口には白い粉が残っていた。笑い声の途中で、ほんの一瞬だけ何も守らなくなった顔だった。

私は写真の角を親指でなぞった。

紙は薄い。少し力を込めれば折れてしまう。なのに、この一枚を見ていると、胸の内側に固まっていたものがわずかにほどけた。

湊がここにいる。

それだけで、今日の模試の判定も、赤いチョークで書かれた「本日回収」も、東京という遠い場所も、少しだけ現実から離れる。何かが決まったわけではない。未来が約束されたわけでもない。ただ、写真の中の彼は、私の知っている場所にいた。

「また見てる」

背後から透子の声がした。

私は写真を伏せた。

「見てない」

「見てた。しかも、いつもの一番怖い見方で」

「怖いって何」

「写真を見てるんじゃなくて、写真の中から何かを聞き出そうとしてる目」

透子は私の後ろの席から身を乗り出した。机に肘をつき、伏せた写真の端だけを見ている。新作の菓子を一つ口に入れてから、わざと大げさに首を傾げた。

「それ、文化祭のやつでしょ。何回目?」

「数えてない」

「数えてない人の指じゃないんだよねえ」

透子の視線が、写真の端に置かれた私の親指へ落ちる。私は慌てて手を引いた。指先に、紙のざらつきが残っていた。

教室の前方では、男子が模試の判定表を見せ合っている。

「この判定で東京は無理じゃね?」

「いや、夏までに上がるって先生が言ってたし」

「先生はだいたいそう言うだろ」

その言葉に何人かが笑った。

笑い声の裏側で、誰かが進路調査票を二つ折りにする音がした。紙の折れる音は小さいのに、なぜか耳に残った。

透子は前方を一度見て、それから声を落とした。

「ねえ、澪。ほんとに書けないの?」

「何が」

「志望欄」

「書けるよ」

「じゃあ、何で書かないの」

聞き方は軽かったが、目は笑っていなかった。透子は、冗談で包んだあとに相手の反応を見る。今もそうだった。私が笑って逃げるのか、黙ってやり過ごすのか、返事を遅らせるのか。たぶん全部、見られている。

「東京の美大」

私は写真を裏返したまま言った。

「書くつもり」

「つもり、ね」

「行きたいから」

「うん」

透子はそこで一度、言葉を切った。

「それ、湊が行くから?」

教室のざわめきが、急に近くなった。

私は返事をしなかった。窓の外へ目を向ける。校舎の向こうに見える坂道は、朝より明るくなっていた。駅前から海へ下る坂。昼休みになれば、あの坂を自転車が何台も下っていく。勢いをつければ、海まで止まらずに行けるような坂だった。

湊は昔から、坂道を下るときだけ歩幅が大きかった。

小学生の頃は、私が遅れるとすぐに振り返った。中学生になると、振り返る回数が減った。それでも角を曲がる前には必ず立ち止まっていた。高校に入ってからは、私が追いつくのを待っているのか、ただ信号を見ているのか、分からない立ち方をするようになった。

私はその曖昧さを、ずっと都合よく受け取っていた。

「湊は関係ない」

ようやく言った。

「今の間を見てから言われると、説得力が二割減る」

「関係ないわけじゃないけど、理由の全部ではない」

「全部じゃないなら、何割?」

「分からない」

「正直でよろしい」

透子は菓子の袋を閉じた。さっきまでの軽い動きが止まると、教室の音が一つずつ浮かび上がった。廊下を走る誰かの靴音。窓枠が風で微かに鳴る音。遠くのグラウンドから聞こえる笛。

「澪はさ、湊と同じところに行きたいのか、美大に行きたいのか、自分でも分けられてないんでしょ」

私は写真を見た。

湊の横顔は、私の方を見ていない。見ていないのに、そこにいる。それが、今はひどく不安だった。

「映像をやりたいのは本当」

「それは知ってる。海とか、文化祭の準備とか、誰かが笑う直前とか。澪はそういう、普通なら見過ごすものばっかり撮ってるから」

「見過ごしたくないだけ」

「うん。だから、そこは嘘じゃない」

透子は机の端を指で二度叩いた。

「でも、本当のことが一つなら、他は全部嘘ってわけじゃないでしょ。湊と一緒に行きたい気持ちがあって、美大で映像をやりたい気持ちもある。どっちかを消して、きれいな理由にしなくていいんじゃない」

胸の奥に、細い針を差し込まれたようだった。

私は、進路を決めるなら、動機も一つでなければいけないと思っていた。映像を学びたい。東京へ行きたい。湊の隣にいたい。その三つが絡まっていることを、どれか一つの名前で呼ばなければならないと思っていた。

けれど、名前をつけた瞬間、残りの二つが嘘になるようで怖かった。

「一緒に行けると思ってたから」

口から出た声は、自分で思っていたより小さかった。

透子は何も言わなかった。

「中学のとき、二人で東京に行こうって言った。あれが冗談だったのか、本気だったのか、ちゃんと聞いたことがない。でも、湊がそのまま隣にいるから、私はそれを本気にしていいんだと思ってた」

「湊に聞けばよかったのに」

「聞いたら、違うって言われるかもしれない」

「違うって言われるのが怖い?」

「違うって言われて、それでも行きたいって言える自信がない」

言ってから、机の角へ指を伸ばした。指先で一、二、三と数える。四まで数える前に、透子が私の手首を見た。

「今の、かなり本音じゃん」

「言わなければよかった」

「言ったことは戻せないけど、言ったからってすぐ結論にしなくていいよ」

透子は視線を写真へ戻した。

「私、二人のこと、ずっと見てた」

「……何を」

「並んでるのに、歩幅が同じじゃないこと。湊が先に行って、澪が少し遅れて、でも二人ともそれを直そうとしないこと」

私は顔を上げた。

「それ、見てたの」

「見てたよ。見てたけど、余計なこと言わなかった。二人がそれでいいなら、私が口を挟むことじゃないと思ってたから」

透子はそこで笑った。いつもの軽い笑い方ではなかった。

「でも、今朝の湊は違った。澪の机の横を通るとき、袖がクリアファイルに触れそうになったのに、避けたでしょ」

喉の奥が狭くなる。

「見てたの」

「見てるよ。私、そういうの見るのが仕事みたいなものだから」

「仕事じゃないでしょ」

「じゃあ趣味。人が言わないことを、言わないまま壊していくのを見るのが嫌いなの」

透子の声は静かだった。

窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。誰かが笑い、誰かが名前を呼ぶ。教室の中では、進路調査票の提出先を確認する生徒がいる。日常は何も変わっていないのに、私の中だけ、写真の焦点がずれていく。

私は写真を表へ返した。

湊の横顔は、まだこちらを見ていなかった。

文化祭の日、私はこの写真を撮ったあと、彼に見せなかった。いい写真が撮れた、と言えばよかった。横顔の方が好きだと、冗談にして言えばよかった。けれど、そんなことを言ったら、写真に込めたものまで見抜かれそうだった。

作品には本音が出る。

私はそう思っている。だからこそ、人に見せる写真ほど、嘘をつけなかった。

「その写真、湊に見せたことある?」

透子が尋ねた。

「ない」

「何で?」

「見せたら、どういう顔をするか分からないから」

「笑うんじゃない?」

「たぶん」

「じゃあ、いいじゃん」

「その笑い方が、いつものものだったら嫌」

透子は黙った。

私は写真の中の湊を見つめた。誰にも向けていない笑顔。あの顔が、私の記憶の中だけにあるものなら、まだ守れる気がした。見せてしまえば、彼のものになる。彼自身が見て、何かを言い、私の知らない意味を与える。

そのとき、教室の入り口に湊が現れた。

誰かに頼まれたのか、片手にプリントの束を持っている。笑いながら男子と話していたが、こちらへ近づくにつれて声が小さくなった。

「何、二人で密談?」

透子が先に答えた。

「澪の写真を鑑賞中。入場料は百円」

「高いな。俺、モデルなのに」

「モデル料を払う側でしょ」

湊は私の机の脇に立った。写真は伏せることができなかった。彼の視線が、そこへ落ちる。

ほんの一秒だった。

湊の指がプリントの端をつまみ直した。口元が少し上がる。けれど、笑ったのは口元だけだった。

「それ、文化祭のやつ?」

「うん」

「懐かしいな。俺、顔に絵の具ついてんじゃん」

「ついてる」

「もっときれいに撮れよ。モデルの扱いが雑」

「動いてたから」

「俺が?」

「呼ばれて振り返ったから」

「じゃあ、しょうがないな」

湊は写真を覗き込もうとした。顔が近づく。制服の袖が机の角に触れ、布がかすかに擦れた。

私は反射的に写真を指で押さえた。

湊の目が、私の手元へ向く。

「見せてくれないの?」

冗談めいた声だった。

私は答える前に、一拍置いた。

「まだ」

「まだってことは、そのうち見せる気はあるんだ」

「分からない」

「澪らしいなあ。分からないことを、分からないまま丁寧に保存する」

その言葉が、胸の奥へ引っかかった。

「湊は、何でもすぐ捨てるよね」

自分でも、どうしてそんな言い方をしたのか分からなかった。

湊の笑顔が止まった。

透子が息を吸う気配がした。けれど、口を挟まなかった。

「何を?」

「分からないけど。部活とか、東京の話とか」

湊の指が、プリントの角を折りかけて止まった。

「俺、そんなに捨ててるように見える?」

「見える」

「そっか」

「ごめん。今のは違う」

「いや、いいよ。澪がそう見たなら、たぶんそういう顔してたんだろ」

軽く返したのに、声が軽くなかった。

湊は写真をもう一度見た。今度は横顔ではなく、写真を持つ私の指を見ていた。何か言いかけて、やめる。ポケットの中で指を握ったのが分かった。

「俺、写真に写るの苦手なんだよな」

「知ってる」

「何で?」

「撮られると、笑うから」

湊は一瞬、目を伏せた。

「笑わないと、困るだろ」

「誰が」

「周りが」

「困ればいいのに」

「澪は、そういうこと言うようになったな」

「なってない」

「なってる。前はもっと、何でも見てるだけだった」

私は返事ができなかった。

湊は、私が見ていることを知っていた。袖口も、歩幅も、視線の揺れも。知らないふりをしていただけなのかもしれない。そのことが、突然怖くなった。

チャイムが鳴った。

湊はプリントを教卓へ運ぶため、私の机から離れた。通り過ぎるとき、袖が今度はクリアファイルに触れた。透明な板の下で、進路調査票の白い欄が揺れる。

湊は足を止めなかった。

私も、呼び止めなかった。

写真の中の横顔だけが、時間から取り残されたように笑っている。

授業が始まってからも、私はその写真をしまえなかった。教科書の下に隠し、机の角へ指を置いたまま、何度も紙の厚みを確かめた。

この写真を撮った日の湊は、まだ東京へ行くつもりだったのだろうか。

それとも、もう何かを知っていたのだろうか。

写真の中に答えはない。横顔は、こちらを見ない。見ないまま、何も言わないまま、ただそこに残っている。

私は初めて、そのことを安心ではなく、不安として受け取った。

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