第1話 赤字の朝

朝の教室に入って、私が最初に見たのは、黒川先生の背中だった。
窓際の列には、まだ誰も座っていない。冬の終わりの光がガラスを通り抜け、机の表面を薄く青くしている。黒川先生は黒板の前で立ち止まり、チョークを指先で一度だけ回した。それから、赤いチョークを持ち替える。
黒板の右上に、大きな字が現れた。
本日回収
線はまっすぐで、文字の間隔も揃っていた。赤い粉が黒板の溝に細く残っている。まだ始業前なのに、その四文字だけで教室の空気が授業中のように固くなった。
「おはよう、澪」
後ろから声をかけられ、私は少し遅れて振り返った。
早乙女透子が、片手にコンビニの小さな袋を提げて立っている。髪の先が風で乱れていた。袋の中身を机に置く前に、彼女は私の顔と、黒板と、机の上の紙を順に見た。
「おはよう」
「返事が三秒遅い。朝から重いねえ」
透子は隣の席に鞄を置き、袋から新作らしい小さな菓子を取り出した。包装の文字を読んでいるふりをしながら、視線だけをこちらへ戻す。
「そんな顔で見るなって。紙が先に怯えるだろ」
机の上には、進路調査票、模試の判定表、志望校の案内、それから文化祭の写真を入れた透明なクリアファイルが並んでいた。
私は進路調査票の端を指で押さえた。紙の角が少し反っている。何度も鞄から出し入れしたせいだ。志望欄は空白のままだった。
「紙は怯えないよ」
「人間が怯えてると、だいたい紙にも伝染するんだよ。ほら、こっちまで寒い」
「窓が開いてるから」
「そういうところ。空気を読んでるようで、たまに読まない」
透子は笑いながら窓を閉めた。金具がかちりと鳴る。海の方から入っていた風が止まり、教室の中には、暖房の乾いた匂いと、誰かが持ち込んだ缶コーヒーの甘い香りが残った。
黒川先生がこちらを見た。
「望月」
声は大きくない。それでも、教室の後ろまで届く。
「はい」
「用紙の記入欄は、空欄でも提出できる」
私は顔を上げた。
「……空欄でも、ですか」
「提出はできる。進路は決まらない」
黒川先生はそれだけ言うと、出席簿を教卓の上に置いた。赤いチョークを箱に戻す手つきまで無駄がない。
透子が私の机の下で、靴先を軽く当ててきた。
「ほら。脅しじゃなくて事実だって」
「分かってる」
「分かってる人は、紙を三分も押さえつけない」
指を離そうとしたが、うまく力が抜けなかった。進路調査票は薄い紙一枚なのに、指先の下で、何か重たいもののように動かなかった。
教室の後ろでは、男子が予備校の話をしている。
「駅前の春期講習、早く申し込まないと席なくなるらしい」
「マジ? 俺、昨日見たら東京の寮、もう結構埋まってた」
「お前そこ受かる前提なの、すげえな」
笑い声が上がる。
東京。寮。春期講習。受験料。下宿先。
言葉が机の列の上を飛び交い、まだ誰のものでもない春を、早い者勝ちで取り合っているように聞こえた。
この学校では、東京へ行くことが夢で、地元に残ることが現実だった。誰かがそう決めたわけではない。廊下の掲示板に貼られた合格者一覧や、職員室前の大学案内や、模試の判定表の数字が、いつの間にかそういう順番を作っていた。
私の模試の判定は、東京の美大に対して、ぎりぎりのところにある。努力すれば届く、と言われる位置。努力しなければ落ちる、とも言われる位置。
その判定表の上に、文化祭の写真を重ねていた。
写真の中で、湊は少し横を向いて笑っている。正面を向いた笑顔より、横顔の方が、彼の気の抜けた感じがよく分かる。誰かに呼ばれて振り返る途中の、まだ笑うと決めていない顔。
私は写真の端を親指でなぞった。
「また見てる」
透子の声が低くなる。
「見てない」
「見てる人の指なんだよ、それ」
「どんな指」
「写真の端を、破れない程度にずっと撫でる指」
返事の代わりに、私は写真をクリアファイルへ戻した。
透子はそれ以上言わなかった。言わない代わりに、机の上の模試の判定表を裏返す。数字が見えなくなっただけで、胸の奥に張りついていた焦りが少し遠のいた。
「澪」
「なに」
「美大、行きたいんでしょ」
私は窓の外を見た。校舎の向こうに、海へ下る坂道の上端が見える。朝焼けはもう消えかけていて、空は白い。坂の先には海がある。ここからは見えないけれど、風の匂いで分かる。
「行きたいよ」
「なら書けばいいじゃん」
「簡単に言わないで」
「簡単に言ってない。難しいから、書いたら?」
透子は菓子の袋を開け、ひとつ口に入れた。噛みながら、少しだけ窓の外を見る。
「志望校を書くくらいで、人生の全部が決まるわけじゃないよ」
「でも、何も決まってないってことも、書いたら分かる」
「それは書かなくても分かってるじゃん」
言葉が止まった。
透子は、こういう時だけ、私の逃げ道をきれいに塞ぐ。追い立てるのではなく、扉の前に立つ。出ていくか、戻るかを自分で決めるまで、どちらにも動かない。
私は机の角を指で三度なぞった。
東京の美大で映像を学びたい。
その気持ちは、ずっと前からあった。海辺の濡れた路面に光が伸びる瞬間や、誰かが笑う直前にほんの少しだけ目を細めることや、帰り道に歩幅が合わなくなること。そういうものを、言葉にできないまま消したくなかった。
私は映像で、それを残したい。
けれど、そこへ行きたいと思った最初の頃、私の隣には湊がいた。
中学三年の春、駅前の古い雑貨屋の前で、私たちは東京の話をした。湊は店先のガラスに映った自分を見ながら、東京って人が多すぎて迷子になるらしい、と笑った。私は、じゃあ二人で行けばいい、と言った。彼は少し遅れて、そうしよう、と返した。
冗談だったのかもしれない。
その頃の私たちは、何でも一緒に決めた。帰る時間も、寄り道する店も、文化祭で撮る写真の順番も。だから東京へ行くという言葉も、特別な約束ではなく、明日の予定を決めるのと同じ軽さだった。
なのに私は、その言葉を手帳の隅に書いた。
湊は書いたかどうか、聞けなかった。
教室の前の扉が開いた。
瀬戸湊が入ってくる。肩に鞄をかけ、髪の先をまだ少し濡らしたままだった。外を走ってきたのかもしれない。息は乱れていないが、襟元の布が肌に貼りついている。走ったあと、彼はしばらく人の目を見ない。呼吸が整うまで、見ないことにしている。
私の視線は、先に彼の袖口へ向かった。
制服の袖に、薄い皺が寄っている。右手の指がポケットの中で動いた。何かを握っているときの癖だった。
湊は教室を見渡し、私を見つけた。
「おはよ。朝から全員、顔が受験生じゃん」
「三年生だからね」
透子が答える。
「三年生って、もっとこう、落ち着いた感じじゃないの?」
「湊の辞書には落ち着くって載ってないでしょ」
「失礼だな。俺、落ち着きだけはあるよ」
「それは落ち着いてるんじゃなくて、何も考えてないだけ」
「ひどいなあ。俺だって進路のことくらい考えてるって」
湊は笑いながら、自分の席へ向かった。
その笑い方は、いつもより少しだけ速かった。
私は彼の背中を見た。机の脇を通るとき、湊の肩が私の机の角に触れそうになり、ほんの少し外側へ逃げた。制服の袖が、私のクリアファイルの端をかすめる。
指先に、布の熱が残った気がした。
「望月、瀬戸」
黒川先生が出席簿を開いた。
「はい」
「いるなら返事をしろ」
「はいはい、います」
湊が手を上げる。教室の何人かが笑った。
黒川先生は笑わなかった。だが注意もしなかった。ただ、赤い文字の下に置かれた回収箱へ一度視線を向けた。
箱の中は空だった。
空なのに、これから何十枚もの紙が落ちていくことだけは分かる。紙が一枚ずつ重なり、誰かの迷いも、家族の事情も、言えなかった願いも、同じ箱の底へ積まれていく。
「進路調査票は、朝のSHRで回収する」
黒川先生が言った。
「第一志望が未定でも提出しろ。未定であることを書くのも、今のお前たちの判断だ。書かないまま人に決めてもらうのは、判断ではない」
教室のざわめきが少しずつ消えた。
「それから、他人の欄を覗くな。誰がどこへ行くかは、本人が言うまで本人のものだ」
最後の言葉だけ、声が低かった。
私は進路調査票へ目を落とす。志望校の欄は、白いままだった。
隣の席で、透子がシャーペンを机に置く。芯が折れたのか、小さな音がした。湊は自分の席で、濡れた前髪を指先で払っている。窓の外では、朝の坂道を自転車が一台下っていく。ベルの音が、教室のガラスを薄く震わせた。
いつもの朝だった。
いつもの朝のはずなのに、私はなぜか、湊の席を見てしまう。
合わせなくても並んでいられると、ずっと思っていた。
その考えが、紙の空欄より先に、少しずつ形を失い始めていた。
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