5話 茉莉の配達経路

翌朝、私は開館前に図書室を出た。

空はまだ明るくなりきっていなかった。海の向こうから押し寄せた雲が、町の屋根を低く覆っている。雨は降っていないのに、道路も塀も、夜のあいだに薄い水を含んでいた。歩道の縁に溜まった水へ、電線の黒い影が細く揺れている。

南町へ向かう道は、商店街を抜けて魚市場の脇を通る。朝の市場では、店先に並べられた発泡スチロールの箱から魚の生臭さが流れ、濡れたアスファルトに氷の白い欠片が散らばっていた。私は足元を避けながら歩いた。靴底が氷を踏むたび、薄い音がした。

潮の匂いに、魚の内臓と洗剤の匂いが混じる。そこから先へ進むと、町の音が少しずつ遠くなった。商店のシャッター、トラックのエンジン、呼び込みの声。どれも背中側へ置き去りにされ、代わりに古い家の軒から落ちる雫と、遠くの船の汽笛だけが残った。

潮見坂裏のポストは、石塀と空き地の間に立っていた。

赤い塗装が剥げ、投入口の縁だけが妙に新しい。茉莉の話を知らなければ、ただ交換されたのだと思っただろう。だが、古い塀に残る苔の跡と、ポストの表面に浮いた新しい塗料の艶は、そこだけ時間の流れが違うことを示していた。

私はポストの下へしゃがみ込んだ。

地面はまだ湿っていた。砂と細かな木屑が、排水溝の手前に薄く溜まっている。指先で触れると、赤茶色の粉が皮膚の溝へ入り込んだ。月舟堂の裏手で見た粉と似ている。けれど、同じだと断定するには、まだ何かが足りなかった。

立ち上がったとき、坂の上から自転車のベルが鳴った。

片岡茉莉が、古い配達鞄を肩から下げて下りてくるところだった。彼女は私に気づくと、少し驚いたように目を細め、それからいつもの柔らかな笑顔を浮かべた。

「やっぱり来ましたね」

「来ると言いました」

「言ってはいません。顔に書いてありました」

茉莉は自転車をポストの脇へ止めた。鍵をかける前に、後輪を一度だけ蹴って確かめる。仕事の動作に見えたが、彼女の場合、物の位置を自分の記憶へ固定するための仕草なのだと思う。

「ここが最初の投函地点ですか」

「私が確認できた中では、最初です」

「確認できた中では?」

「月曜便が始まった時期を、正確には覚えていません。私がこの区域を担当したのは、四年前からです。それ以前にも同じものが届いていたかもしれない」

「郵便局の記録には?」

「差出人不明の郵便としては残っていません。宛先不明なら返送記録がつきます。でも、これは毎回きちんと図書室へ届いている。宛名が町立図書室だけでも、配達先として処理できてしまうんです」

茉莉はポストの投入口へ手を伸ばした。指先で金属の縁を撫で、すぐに離す。

「ここから出された封筒は、集配車に回る前に、いったん南町の集配袋へ入ります。そのあと中央局へ戻り、区分されて図書室へ向かう。経路だけなら、普通の郵便と変わりません」

「では、どこが違うんですか」

「投函する場所です」

茉莉は配達鞄から、折り畳んだ地図を取り出した。紙は何度も開かれたらしく、折り目が白くなっている。地図の上には赤鉛筆の点がいくつも打たれていた。

「普通、同じ差出人が毎週出すなら、家の近くのポストを使います。遠くても、通勤や買い物の途中にある場所を選ぶ。でも月曜便は違う。毎回、前とは別の場所です」

「同じポストを避けている?」

「はい。しかも、目立つポストではなく、人の生活から少し外れたところを選んでいる」

彼女は地図の一点を指で押さえた。

「潮見坂裏。次が旧製氷所脇。その次が南町の空き地前。ここから先は、港へ向かう道と住宅地へ戻る道が分かれます。月曜便は、いつもその分岐の近くにあるポストから投函されている」

「分岐に意味があるんですか」

「道を選ぶというより、道を選ばないための場所です」

茉莉は地図を私へ向けた。

赤い点を線で結ぶと、月舟堂へ向かう最短経路から少しずつ外れていく。けれど、完全に離れているわけではない。旧港倉庫街を囲むように、細い輪を描いていた。

「この道筋は、郵便局の配達ルートではありません」

「でも、投函された後は郵便局の網に入る」

「そうです。投函するところまでは、誰か個人の道です。そこから先だけ、郵便局の道になる」

「郵便局の道を使って、個人の道を隠している」

私が言うと、茉莉はしばらく黙った。

「そういう言い方をすると、郵便局全体が共犯みたいですね」

「そうは言っていません」

「分かっています。ただ、私たちは届いたものしか見ません。どこから来たかは、消印と区分記録に残る範囲でしか分からない。投函する前に誰が持っていたか、どこで封をしたか、何を避けて歩いたか。そこは記録されないんです」

茉莉の声は穏やかだったが、最後の言葉だけ、少し低くなった。

「記録されない部分を利用された」

「たぶん」

「たぶん、ではなく?」

「そこはまだ断定できません」

茉莉は笑みを崩さなかった。

「望さんは、私より断定が早いですね」

「紙が同じだからです」

私は手帳から、これまで届いた三通の封筒の記録を取り出した。封筒そのものは持ち歩いている。重要な紙は折らず、別の封筒へ入れて持つ。姉がそうしていたのを覚えている。

「角の擦れ方、封の糊、紙の湿り方。投函地点は違うのに、傷み方が似ている。少なくとも、投函前に同じ場所か、同じ種類の場所に置かれている」

茉莉は私の手帳を覗き込み、封筒の角に残る赤茶色の斑点を見た。

「これは、先週のものですか」

「三通とも、似た汚れがあります」

「同じ粉かもしれません」

「月舟堂の裏手にもありました」

「倉庫街には古紙回収の業者がいくつかあります。焼けた木材を置いている場所もある。似た汚れだけなら、発信源の証拠にはなりません」

「分かっています」

「それでも、月舟堂だと思うんですね」

「思うのではなく、近づいています」

茉莉は地図を折り直した。二つ折りにしたあと、さらに角を揃え、折り目を親指で押さえる。その手つきは、封筒の角を確認するときと同じだった。

「図書室へ戻る前に、二か所、寄ってもいいですか」

「配達があるでしょう」

「順路の途中です」

私たちは潮見坂裏から坂を下り、古い住宅地へ入った。

道は細く、家と家の間を縫っていた。塀の内側から椿の枝が伸び、濡れた葉が肩へ触れる。人の気配は少なかったが、窓の向こうにテレビの音が聞こえる家もあった。茉莉は歩きながら、道順を小さく口の中で繰り返していた。

「潮見坂裏、南二番、旧製氷所脇、空き地前……」

歌うようではない。忘れないために、足の運びへ言葉を結びつけているらしい。

最初に立ち寄ったのは、古い平屋だった。郵便受けだけが新しく、外壁の木材は黒ずんでいる。表札は外されたまま、釘の穴だけが二つ残っていた。

茉莉は門の前で足を止めた。

「ここに、月曜便を受け取る家があります」

「図書室に届くのに?」

「以前は、この家にも似た封筒が届いていました」

「誰宛てですか」

「名前は言えません」

「見たんですね」

「配達員として、宛名を確認しただけです」

「でも、中身を見た」

「見ていません」

茉莉は私を見た。その柔らかな顔から、笑みが消えていた。

「封を開けていない人がいたんです。毎週、同じ曜日に封筒が届く。受け取った人は、投函された時刻を確認するように玄関の時計を見て、それから封筒を胸へ抱えた。けれど、開けなかった」

「なぜ分かるんですか」

「開けない人の手は、封筒の真ん中ではなく、端を持ちます。中身を読みたい人は腹を支える。読めない人、読んではいけないと思っている人は、角を持つ」

私は自分の指先を見た。

いつも、紙の角を持っている。

「その人は、泣いたんですか」

「一度だけ」

茉莉は門の内側へ視線を向けた。

「配達が終わって戻ると、まだ玄関にいました。封筒は郵便受けの中。取り出さずに、立ったまま泣いていた。声は出していませんでした。私が見ていると気づいたのでしょう。手で郵便受けを閉め、私に背を向けました」

「あなたは、何も聞かなかった」

「聞けませんでした」

「仕事だから?」

「仕事だからです。それに、聞いてはいけない沈黙もあります」

「では、話してはいけない沈黙は?」

茉莉は答えなかった。

雨粒が、軒先から一定の間隔で落ちている。古い郵便受けの中には、広告の束が押し込まれていた。新しい投入口の奥だけが黒く、外からは中身が見えない。

「この町では、沈黙が誰かを守ることがあります」

茉莉が言った。

「病気のこと、借金のこと、家族のこと。言わないことで、生活を続けられる人もいる。だから私は、黙っている人をすぐに疑いたくないんです」

「でも、黙っていることが、別の誰かを消すこともある」

「はい」

「澪のことも?」

茉莉は一度だけ、目を閉じた。

「桐谷さんの姉さんについて、私は何も知りません」

「知っている人を見たことは?」

「見たことはあります」

「誰を?」

「名前は言えません」

「またですか」

「違います。私が見たのは、知っている人の顔ではなく、知っている人が知らないふりをする顔です」

茉莉は声を荒らげなかった。むしろ、いつもより丁寧に言葉を選んだ。

「郵便局には、町の人が直接言わないことが流れてきます。宛先を書き間違えた手紙、差出人を書かずに出された葉書、何度も戻ってくる封書。誰かが言えなかったことが、別の人の手を通って届く。けれど、私たち配達員は、届いたものを渡すだけです。内容を正しくすることはできない」

「それで、ずっと見ていたんですか」

「見ていました。見て、覚えて、でも記録にはしなかった」

「なぜ?」

「記録にすれば、誰かの生活へ私の判断を押しつけることになるからです。私が怪しいと思ったものを、怪しい郵便として残せば、その人は記録の中で怪しい人になる。郵便は、届く前より届いた後のほうが重いんです」

彼女は新しい郵便受けの投入口へ指を触れた。

「でも、何も残さなければ、最初から何もなかったことになる。最近は、その間で迷っています」

私は茉莉の横顔を見た。柔らかな声の奥で、彼女自身もまた、見て見ぬふりをした時間を抱えている。

「だから、私に地図を渡した」

「地図だけです。判断は望さんがする」

「責任を私に渡しているんですか」

「いいえ」

茉莉はようやく私へ向き直った。

「私が見た道を、道のまま渡しているんです。そこを歩くか、引き返すかは、望さんが決めることです」

住宅地を抜けると、旧製氷所が見えてきた。

建物は長く使われていない。壁面の白い塗料は剥げ、鉄製の扉には錆が浮いている。裏手には古紙回収業者の資材置き場があり、濡れた段ボールと木材が高く積まれていた。風が抜けるたび、紙の端が一斉に擦れ合う。ざわざわという音が、遠くの波音に重なった。

茉莉は積まれた資材へ近づき、古い木箱の脇でしゃがんだ。

「ここに、同じ汚れがあります」

木箱の底に、赤茶色の粉が溜まっていた。私は指を伸ばしかけて、止めた。

「触らないんですか」

「同じか確かめたい」

「触るなら、手袋を使ってください」

茉莉が鞄から薄い手袋を取り出した。配達用ではなく、何かを拾うために持っているものらしい。

私は手袋を受け取り、粉の端を少しだけ掬った。乾いた木の匂いがした。潮の匂いはほとんどない。指先へ移った粉は、月舟堂の裏手で見たものと似ていたが、やはり同じだと断言はできなかった。

「ここから封筒が出た?」

「分かりません。ただ、この周辺のポストは、月曜便の投函地点に何度か選ばれています」

「誰かがここで封をしていた可能性は」

「あります。でも、古紙回収の人が使っている場所でもあります」

「封筒の匂いは?」

「この場所の匂いに近いです」

茉莉は自分の配達鞄を開き、月曜便の控えを取り出した。紙の端を揃えたまま、三つの投函記録を並べる。

「見てください」

「何を?」

「日付の下の時刻です」

一通目は、朝の集配が始まる直前。

二通目は、その十五分後。

三通目は、さらに二十七分後。

私は数字を見比べた。

「投函地点が違うのに、時間が近すぎる」

「そうです」

「一人で移動したなら、無理ではないけれど……」

「自転車なら可能です。歩きでは難しい。けれど、ここから潮見坂裏へ戻るには、表通りを使う必要がある。表通りには、朝の市場と郵便局の職員がいます」

「見られる」

「だから、投函した人が一人ではない可能性もあります」

茉莉の言葉が、資材置き場の湿った空気に沈んだ。

「複数の人間が、同じ封筒を順番に投函した?」

「そのほうが、時間には合います」

「でも、封筒の傷み方は同じ」

「一人の人間が、投函を頼んだ。あるいは、投函する人たちに、同じものを渡した」

「なぜ、そんな面倒なことをするんですか」

茉莉はすぐには答えなかった。

旧製氷所の壁から、水滴がゆっくり落ちている。地面にできた小さな水溜まりへ落ち、輪がいくつも広がる。

「一人が届けるより、複数の人の手を通したほうが、誰の郵便か分からなくなるからです」

「記憶を、誰のものか分からなくするために?」

「そこまでは、私には言えません」

「でも、月曜便はそういう形をしている」

「はい」

茉莉は控えを閉じた。

「宛先はいつも図書室です。差出人はない。投函地点は変わる。郵便局を通るから、届いた記録だけは残る。けれど、誰が送ったかは残らない。誰かが、記録を残すことと、所有者を消すことを同時にやっているように見えます」

所有者を消す。

その言葉が、胸の内側で紙を裂くように響いた。

澪の本から蔵書印が剥がされ、切符が抜かれ、貸出記録の返却日が消されていた。けれど、完全には消えていない。消そうとした手つきだけが残っている。

「茉莉さん」

「はい」

「この道を使う人間が、月舟堂に向かっているとしたら、どこから入ると思いますか」

茉莉は旧製氷所の裏手から、さらに先の道を見た。

道の先には、倉庫街へ続く錆びた柵がある。柵の一部だけが新しい針金で補修されていた。風が吹くと、針金が金属音を立てる。

「正面ではないと思います」

「なぜ?」

「正面は、荷物を運ぶ人のための道です。人に見られます。けれど、月曜便の経路は、ずっと人目を避けている」

「では、裏手?」

「裏手に、古い排水路があります。今は使われていませんが、倉庫街の中へ入れる。雨が強い日は水が溜まるので、普通の人は通りません」

「茉莉さんは通ったことがあるんですか」

「配達の仕事で、近くまで行ったことはあります」

彼女はそこで一度、息を置いた。

「その排水路の先に、月舟堂の裏口があります」

「裏口を知っているんですね」

「知っているのは、道の位置だけです。扉が開くかどうかまでは知りません」

「でも、番台の明かりを見た」

「夜に一度だけ。いえ、正確には一度ではありません。何度か見ました。ただ、見たたびに、明かりの位置が少し違った」

「番台ではない?」

「番台の奥に、人が移動しているのかもしれません」

茉莉は私の顔を見た。

「今夜、行くつもりですか」

「昼間に行けと言ったのは、茉莉さんでしょう」

「昼間ならいい、と言ったわけではありません」

「では、いつならいいんですか」

「誰かと一緒なら」

「誰と?」

「警察の人」

私は答えず、旧製氷所の向こうへ目を向けた。雲の切れ目から、白い光が差している。倉庫街の屋根が一枚ずつ濡れて光り、その奥に月舟堂のある方角が見えた。

茉莉は配達鞄から、三枚目の月曜便の控えを抜き出した。そこには投函地点と時刻のほかに、手書きの小さな印があった。

「これは?」

「私がつけた印です」

「何の印ですか」

「投函したあと、封筒がどちらの方向へ運ばれたか」

「投函後に?」

「集配車に入る前に、誰かがポストの前を通っていることがあるんです。郵便を見に来る人ではありません。ポストの横を通り、投入口へ手を添え、すぐに離れる。何も取らない。ただ、入っていることを確かめるように」

「その人の顔は?」

「帽子を深くかぶっていました。顔は見ていません」

「体格は?」

「分かりません。見たのは背中だけです」

「それでも覚えている」

「配達員ですから」

茉莉は言った。

「人の顔を覚えるより、歩く音を覚えます。急いでいる人は踵が浮く。迷っている人は、角で一度だけ足を止める。何かを確かめた人は、帰るときに歩幅が変わる。この人は、ポストを確認したあと、必ず歩幅を広げました。届いたことを知って安心したのか、逆に、早くその場を離れたかったのかは分かりません」

「その歩き方を、他の場所でも見ましたか」

「一度だけ」

「どこで?」

茉莉は、地図の端を指した。

「久我原家の裏手です」

名前を聞いた瞬間、私は茉莉の指先を見た。彼女はすぐに地図を閉じた。

「ただし、同じ人だとは言えません」

「家の裏手に、何があるんですか」

「古い書庫の搬入口。今は使われていないはずです」

「なぜ知っているんですか」

「配達区域ですから。家の正面だけでなく、裏口や勝手口の位置も覚えています」

「久我原家へ、月曜便が配達されることは?」

「ありません」

「では、なぜその人が裏手に?」

「分かりません」

茉莉の声は、ここで初めて少しだけ硬くなった。

「分からないまま、私は何度も配達しました。月曜便を図書室へ届け、同じような封書が町の家へ届くのを見て、受け取った人の顔を覚えた。全部、仕事の範囲内だと思おうとしたんです」

「思えなかった」

「はい」

彼女は地図を鞄へしまった。

「望さん。私は、郵便を運ぶ人間です。誰かの秘密を暴く人間ではありません。でも、郵便を使って誰かを消しているなら、私はもう無関係ではいられない」

「だから私に渡す?」

「望さんが、紙の上に残ったものを見落とさないからです」

その言葉は、以前の澪を思い出させた。

本の余白を覗き込み、切符の角を折り、誰にも気づかれない小さな印を残していた姉。私はその背中を追いながら、紙を見ることを覚えた。けれど澪のように、見たものをすぐに記録へ変えることはできなかった。

「私が見つけたら、どうするんですか」

「記録します」

「それで何が変わる?」

「変わらないものもあります」

茉莉は答えた。

「人が戻らないこと。消えた時間が埋まらないこと。町の人が急に正直になるわけではないこと。でも、何もなかったことにはできなくなる。郵便は、届いた時点で記録になります。受け取られなくても、返されても、誰かが投函した事実だけは残る」

風が旧製氷所の壁を回り込み、私たちの間を抜けていった。濡れた木材と古紙の匂いがした。私は手袋を外し、赤茶色の粉を小さな紙袋へ入れた。

茉莉はそれを見て、何も言わなかった。

帰り道、私は彼女と並んで歩いた。

市場の方へ戻るにつれて、町の音が少しずつ増えていく。魚を運ぶ台車の軋み、信号機の電子音、学校帰りの子どもたちの声。南町の静けさが、背後で薄い膜のように閉じていった。

けれど、地図の赤い点は手帳の中に残っている。

封筒は毎回、違う場所から投函される。

それでも、その前後にある湿気、粉、糊の乾き方は同じだった。別々の地点から届いたのではない。同じ手が、別々の地点を経由させている。

私は歩きながら、配達控えの番号を指でなぞった。

数字の並びは、ただの管理番号に見える。けれど、そこには曜日と時刻、投函地点、集配へ渡るまでの間隔が刻まれている。郵便局が残した記録ではなく、茉莉が見逃さずに拾った記憶だった。

図書室へ戻るころには、雲の隙間から薄い日が差していた。

私は机へ座り、三通分の控えを並べた。

潮見坂裏。

旧製氷所脇。

南町の空き地前。

その三点を線で結ぶと、月舟堂の裏手へ向かう道が、一本だけ浮かび上がった。表通りを避け、家々の明かりを避け、郵便局の視線を避ける道。

けれど、その道は完全には隠れていない。

茉莉が覚えていた。

私が紙の上へ写した。

そして、投函された封筒そのものが、湿気と糊と赤茶色の粉を抱えて残っている。

私は手帳を閉じた。

そのとき、机の引き出しの奥で、封筒の角がかすかに擦れた。紙と紙が触れ合う、乾いた音だった。

私は引き出しを開け、茶封筒を取り出した。

角の擦れた箇所へ、旧製氷所で採った粉を近づける。色も匂いも似ている。けれど、決め手にはならない。

それでも、私の中では何かが動き始めていた。

郵便は、情報を運んでいたのではない。

誰かが消した道筋を、別の道筋へ移し替えていた。

本の持ち主が消され、紙片だけが残るように。投函した手が消され、届いた事実だけが残るように。

私は封筒を手帳へ挟んだ。

明日、早瀬さんに会う。

警察へ持ち込むには、まだ曖昧すぎる。けれど、曖昧なものを曖昧なまま抱えていたから、澪の失踪は二十年も動かなかった。

窓の外で、郵便局のバイクが町の南側へ走っていった。

その音を聞きながら、私は赤い点の並んだ地図を思い浮かべた。点と点の間には、誰かが歩いた距離がある。歩いた時間がある。立ち止まった場所がある。

そして、そのどこかに、姉が残した紙片もあるはずだった。

紙は黙っている。

けれど、黙っている場所を選ぶことだけはできる。

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