6話 修復士の指先

瀬尾一樹の作業場は、旧港倉庫街から少し離れた坂の途中にあった。

元は魚網を保管する小さな倉庫だったらしく、入口の引き戸には、塩気を含んだ風が長年かけて削った白い筋が残っている。看板は出ていない。窓も小さく、外から中の様子をうかがうことはできなかった。

私は昼過ぎにそこを訪ねた。

早瀬さんに、売却リストの紙質を見られる人間を紹介してほしいと言ったところ、彼は少し考えてから瀬尾の名前を出した。

「証拠になるかどうかは、見てもらわないと分からない。ただ、紙のことなら、あいつの判断は信用できる」

そう言って、早瀬さんは古いメモ帳の余白に住所を書いた。文字は小さく、行間が狭かった。書き終えると、彼は紙を二度折り、折り目を指で押さえた。

「先に言っておく。紙質が一致しても、発信源が月舟堂だと確定するわけじゃない」

「分かっています」

「分かっていない顔をしている」

「顔は見ていないでしょう」

「見ている」

早瀬さんはそう言って、缶コーヒーの蓋を閉めた。

「だから、確認できることだけを確認してこい。焼け跡がある、古い帳簿を再利用している、誰かが何度も触れた。そこまでは事実。そこから先は仮説だ」

「仮説がなければ、事実を並べる意味がありません」

「仮説は持て。ただし、仮説に証拠を合わせるな」

彼の言葉を手帳に書き留めようとして、私はやめた。代わりに、手帳の端を指で押さえた。

坂を上るにつれて、海が背後へ遠ざかっていく。潮の匂いは薄れ、代わりに濡れた土と、古い家の庭から流れてくる椿の青臭い匂いが濃くなった。雨上がりの道路には細い砂が残り、車が通るたび、タイヤの下でかすかな音を立てた。

瀬尾の作業場の引き戸を叩くと、内側から錠の外れる音がした。

「桐谷さんですね」

瀬尾は白い作業着を着ていた。袖口に糊の乾いた跡がいくつもあり、髪には紙屑が一片だけ付着している。彼は私の顔より先に、手にしていた封筒へ目を落とした。

「早瀬さんから聞きました」

「何を」

「紙を見てほしいと」

「それだけですか」

「それ以上は、あなたの口から聞くことになっています」

瀬尾は扉を大きく開けた。

中へ入ると、紙の匂いがした。古紙、革、薄めた糊、乾いた木材。図書室にも紙の匂いはあるが、ここでは一冊ごとの匂いが分かれていた。机の上に置かれた本からは、それぞれ違う時間が立ち上がっている。

右手の壁には、紙質見本帳が背の高さを揃えて並んでいた。棚の下には糊の小瓶、細い綴じ糸、骨製のへら、刷毛が配置されている。道具は多くない。けれど、どれも使う順番まで決められているように見えた。

瀬尾は机の中央に白い布を敷いた。

「その上へ」

私は封筒から、三週分の蔵書売却リストを取り出した。重要な紙は折らずに持ち歩くため、薄い保存用の封筒へ入れてある。封筒を差し出すと、瀬尾はすぐには受け取らなかった。

「手袋は必要ですか」

「あなたの手の状態が悪くなければ、素手の方が分かります」

「紙を傷めませんか」

「傷める触り方をしなければ」

瀬尾はそう言い、蛇口の方へ向かった。石鹸で手を洗い、指の間まで丁寧に水を流す。タオルで拭いたあと、指先を一度だけ光へかざした。

「何を見ているんですか」

「水分が残っていると、紙へ移ります」

「そこまで気にするものですか」

「紙は、触れたものを忘れません」

その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。

瀬尾は手袋をはめず、リストを持ち上げた。親指と人差し指で端をつまみ、紙の重さを確かめるようにわずかに上下させる。それから、右下の角をほんの少しだけ折り返した。

「これは店で刷ったものじゃないですね」

「月舟堂で作られた可能性は?」

「店で作ったとしても、印刷所の紙ではない。少なくとも、まとめて裁断された新しい紙を使ってはいません」

瀬尾は机の上に紙を置き、細い定規を端へ当てた。

「裁断痕が毎回違う。こちらは刃が一度で入っている。こちらは途中で止まり、少しずれてから切り直している。さらに、端の繊維が一方向だけ潰れている。古い帳簿を何枚か重ねて裁ち、その後で表面に薄い紙を貼った痕跡です」

「裏紙を使ったということですか」

「単純な裏紙ではありません。裏側の文字を見せたくなかったのでしょう。古い紙をそのまま使えば、光に透かしたときに記録が浮く。だから上から別の紙を貼って隠している」

「何の記録を?」

「そこまでは、まだ読めません」

瀬尾は三枚のリストを重ねた。紙の端を揃え、上から小さなガラス板を載せる。薄い紙が押され、繊維の重なりが少しだけ浮かび上がった。

「一枚目と二枚目では、貼られた紙の繊維が違います。三枚目だけ、下の帳簿紙がかなり古い。貼った人間が、同じ材料を使い続けていない」

「そのことから、何が分かりますか」

「材料を買っていない。手元にあるものを使っている。古い帳簿を裁り、必要な大きさにして、表面を隠す。つまり、この紙は誰かが長い期間、記録を扱っている場所で作られている」

「図書室や町史保存会でも?」

「可能性はあります。ただし、図書室の紙はもっと乾いています。町史保存会は保存箱の匂いが強い。これは湿気を含んだまま一度火に近づけられ、その後、風の通らない場所で圧をかけられている」

私は紙の端へ鼻を近づけた。

糊の匂いの奥に、焦げた木のような臭いがある。これまで何度も感じてきた匂いだった。

「火災の跡ですか」

「火災とは限りません」

瀬尾はリストの隅を拡大鏡で覗き込んだ。

「紙が直接燃えたなら、繊維はもっと脆くなる。これは熱にさらされたあと、乾いた煤か灰のようなものが付着し、後から押さえつけられている。近くに燃えたものがあった。あるいは、燃えた場所から紙を運び出した」

「旧家の書庫火災について、知っていますか」

瀬尾は拡大鏡から目を上げた。

「知っています」

「どの程度?」

「火事のあと、焼けた本の修復を頼まれたことがあります。僕がこの町へ来る前、都市の工房で」

瀬尾は机の引き出しから、厚い布で包まれた本を取り出した。包みを解く動きは慎重だった。布が擦れ、乾いた音を立てる。

現れたのは、黒ずんだ革の表紙だった。

背は崩れ、角には細かな亀裂が走っている。表紙の一部は火で縮み、下の板が露出していた。けれど、見返しだけは奇妙なほどきれいに残っている。薄い生成り色の紙に、献呈の言葉が鉛筆で書かれていた。

〈久我原家へ 町の記憶を、次の世代へ〉

署名は煤で潰れ、読めなかった。

私は見返しの右下に目を止めた。朱色の蔵書印が、かすれながら残っている。円の右下が欠けていた。

澪の印ではない。

けれど、リストに記されていた印影の癖と似ていた。

「この本は、どこから?」

「依頼書には、旧家の焼失蔵書とだけありました。持ち込んだのは町史保存会の人間です」

「久我原さん?」

「名前は書かれていませんでした」

「それで、修復したんですか」

「完全にはしていません」

瀬尾は献呈本の背を撫でた。指先が革のひび割れを避け、焼けて硬くなった部分だけをそっと押さえる。

「依頼は、見返しを新しく貼り替えて、献呈の文字を読めるようにしてほしいというものでした。表紙も作り直して、焼けた形跡をできるだけ見えなくしてほしい、と」

「断った?」

「最初は受けるつもりでした。修復士は壊れた本を戻す仕事ですから。ただ、剥がれた見返しの下から、別の文字が出てきた」

「何と書いてあったんですか」

「人名です」

瀬尾は答えた。

「献呈先とは別の人の名前。しかも、同じ本が以前は別の家にあったことを示す日付が残っていた。依頼書に書かれていた来歴と合わなかった」

「誰の名前ですか」

「桐谷澪」

作業場の外で、風が引き戸を細く鳴らした。

私は献呈本へ手を伸ばしかけたが、止めた。瀬尾が私の手元を見ている。差し出すつもりはないらしい。彼は本を閉じず、見返しの上へ薄い和紙を戻した。

「彼女を知っていたんですか」

「会ったことはありません」

「では、なぜ名前を覚えているんですか」

「消され方が、普通ではなかったからです」

瀬尾の声は低かった。いつもの抑揚のない話し方だったが、言葉の底に硬いものがある。

「献呈本の所有者を変更するなら、古い蔵書印を剥がす。新しい所有者の印を押す。記録上も寄贈や相続に合わせる。そういう作業なら、珍しくありません。けれど、この本は印を剥がしたあと、見返しそのものを貼り替えていた。しかも、下に残った名前を完全に削らず、読めるか読めないかの境目で残していた」

「わざと?」

「そこは断定できません」

「でも、あなたはそう思っている」

瀬尾はしばらく黙った。

作業台の上で、糊の小瓶の蓋がわずかに浮いている。彼はそれに気づくと、話の途中にもかかわらず蓋を締め直した。ねじ山を一周、二周、最後に少しだけ戻す。そこまでしてから、ようやく私を見た。

「修復で最も難しいのは、壊れたものを元に戻すことではありません。誰かが、元に戻したように見せながら、別の形へ変えている場合です」

「修復と改ざんの違いは?」

「痕跡を残すかどうかです」

瀬尾は献呈本の見返しを指した。

「ここへ新しい紙を貼るなら、いつ、何を使い、どこまで手を入れたかを記録する。それが修復です。古い名前を削って、別の紙を貼り、何もしていないように整えるなら、改ざんになる。見た目がきれいかどうかではありません。触れた手を残すか、なかったことにするかです」

私は自分の手を見た。指の腹に、朝から何度も触れた紙のざらつきが残っている気がする。

「リストも同じですか」

「同じ方向を向いています」

瀬尾は三枚の紙を持ち上げた。

「書名や注記が変わっているだけなら、ただの更新記録です。けれど、頁の折れ、書き込み、切符、蔵書印。それらが週ごとに少しずつ失われている。これは本の状態を記録しているのではなく、本から何を奪ったかを記録している」

「奪った?」

「持ち主の時間です」

その言葉を聞いたとき、私は冷たい興奮を覚えた。疑いが、別の形の確信へ変わる瞬間だった。

瀬尾はリストを机へ戻し、紙面の端を指した。

「ここを見てください。三枚とも、折った者の圧痕が残っています」

「指の跡ですか」

「指紋ではありません。折るときに力をかける位置です。普通は中央を押さえる。でも、この紙は右端から七ミリほど内側に、細長い圧がある。折ったあと、紙の端を揃えるために、同じ場所を何度も撫でている」

「同じ人が?」

「おそらく」

瀬尾は一枚目と二枚目を重ねた。

「ただし、力の強さが違います。一枚目は迷いがある。二枚目は折り目が深い。三枚目では、端を押さえたあと一度開き、別の位置で折り直している」

「何度も読み返した」

「あるいは、何を残し、何を外すかを選び直した」

私は紙の上へ視線を落とした。

リストは、郵便で運ばれている。けれど、投函される前に何度も机へ置かれ、開かれ、折られている。誰かが本の状態を確かめ、項目を選び、紙の形を整えている。

その手は、月舟堂の中にあるのか。

それとも、外から届いたリストを誰かが受け取り、何度も読み返しているのか。

瀬尾は私の考えを見透かしたように言った。

「触れた回数だけでは、場所までは決められません」

「分かっています」

「ただ、紙の端に残る糊の種類は、封筒のものと同じです」

彼は小さな刷毛で、リストの端を指し示した。

「この糊は、一般的な事務用ではない。保存修復に使う薄い糊を、少し水で伸ばしている。乾くと白く残り、湿気を吸うと再び柔らかくなる。古い帳簿を貼り合わせるには向いていますが、郵便封筒を閉じるには不向きです。だから封筒の糊は別のものを使っている」

「作った人間と、投函した人間は別?」

「可能性はあります」

「でも、紙を作った場所には修復用の道具がある」

「刷毛と糊だけなら、古書店にも保存会にもある。月舟堂にも、町史保存会にも、修復を頼んだ家にも」

「この献呈本を修復した工房にも?」

「あります」

瀬尾は一度、目を伏せた。

「僕のいた工房にも」

「そこで、この本の名前を消す作業を頼まれた」

「そうです」

「あなたは従わなかった」

「結果としては」

彼は献呈本を閉じ、布の上へ戻した。

「依頼主は、修復ではなく、見え方の変更を望んでいました。焼けた本に焼け跡が残っていると、由来を尋ねる人が出る。由来を尋ねられると、蔵書の移動について説明しなければならない。だから、表紙を新しくし、見返しを貼り替え、献呈先だけを残す。そうすれば、本は立派な寄贈品になる」

「本の中身ではなく、来歴を変える」

「来歴は所有権に関わります。所有権は、金だけではなく、責任にも関わる」

「その本には、誰の責任が残っていたんですか」

瀬尾は答えなかった。

沈黙が長くなった。外で、坂を下る自転車のベルが鳴り、すぐに遠ざかる。作業場の中では、紙の端が乾くときの、ほとんど聞き取れない音だけがしている。

「僕は、依頼を断りました」

瀬尾が言った。

「その後、本は別の工房へ送られた。僕の手元に戻ったときには、見返しが貼り替えられていた。名前はほとんど読めなくなっていた。でも、完全には消えていなかった」

「それで、この町へ来たんですか」

「それだけではありません」

瀬尾は献呈本の背を、指で一度撫でた。

「消された名前が、消えた人と同じ扱いを受けていたからです。本を捨てるのではなく、別の棚へ移す。別の名義をつける。表紙を直して、見た目だけは生きているようにする。僕は、そのやり方を知っていました。知っていたのに、都市では何も止められなかった」

「だから、ここで修復を続けている」

「修復ではありません。確認しています」

「何を?」

「まだ残っている傷を」

瀬尾の声に、初めて感情の輪郭が浮かんだ。怒りに似ていたが、もっと長く冷やされたものだった。

「傷を消してしまえば、誰が何をしたか分からなくなる。だから、直すときも、直した跡を残す。紙が破れた理由、糊を使った日、貼り替えた箇所。全部を記録する。それが本に対する最低限の礼儀です」

私は机の上の試し貼り帳を見た。細長い紙片が何枚も挟まれ、それぞれに日付と材質名が記されている。端が焦げた紙、赤茶色に染まった紙、糊の厚みを変えた紙。捨てられなかった傷が、紙の束になって残されていた。

「その記録を、見せてもらえますか」

「今はまだ」

「なぜ?」

「まだ、あなたが何を探しているのか、完全には分からないからです」

「姉のことを探しています」

「それだけですか」

私は答えなかった。

澪の本。町史保存会の記録。焼失した旧家の蔵書。毎週届くリスト。別々のものに見えていたものが、紙の繊維の中でひとつにつながり始めている。

「姉が残したものを探しています」

私は言った。

「姉が見たものではなく、姉が残そうとしたものを。もし澪が本の中へ印を残し、紙片を挟み、書き込みをしたなら、それは誰かに読まれるためだったと思います。私に読ませるためだったのか、別の誰かに向けたのかは分からない。でも、誰かの都合で剥がされたままにはしたくない」

瀬尾は私を見なかった。献呈本の傷んだ背へ視線を置いたまま、長く黙っていた。

「あなたは、見つけたものを元に戻したいんですか」

「戻せないものがあることは分かっています」

「では、何を?」

「なかったことにされない形へ置き直したい」

自分で言いながら、その言葉が澪のものに似ていることに気づいた。

姉は、失われるものを元通りにしようとはしなかった。汚れた切符を汚れたまま本へ挟み、折れた頁を伸ばさず、書き込みの上から別の文字を書かなかった。残すということは、きれいにすることではない。そこに誰かの手があったと分かる形で、置いておくことだった。

瀬尾はようやく顔を上げた。

「それなら、これを」

彼は紙質見本帳を開き、後ろの方から一枚の薄い紙片を抜き取った。焦げ跡のある栞だった。赤茶色の布地の端がほつれ、中央に細い黒い線が走っている。

「売却リストの隅に付着していた焦げ色と、同じ繊維が混じっています」

私は栞を受け取らず、机の上で見つめた。

「献呈本のものですか」

「違います。けれど、同じ場所を通った可能性がある」

「どこで見つけたんですか」

「さっきの本の中です」

「では、なぜ売却リストに?」

「付着したのではなく、比較のために近づけただけです」

瀬尾は栞を指で押さえた。

「この黒い線を見てください。焦げではありません。鉛筆の跡です。火に近づく前に、誰かが栞の端へ印をつけている」

「何の印ですか」

「分かりません。ただ、同じような線が、売却リストの下層紙にも残っています」

瀬尾はリストを一枚、光へ透かした。

薄い影の中に、横向きの線が見えた。私は第1週の紙を思い出した。窓際で透かしたとき、文字のようにも見えた線。あれは繊維の乱れではなかった。

「帳簿の罫線?」

「おそらく」

「栞の線と、帳簿の線が同じ位置にある」

「正確には、同じ規則で引かれています。ページの端から一定の幅を空け、短く切る。目録の分類線か、照合のための印でしょう」

私は紙を覗き込みながら、息を浅くした。

誰かは本を売ったのではない。

どの頁に何があり、何を抜き、どの名を残すかを、帳簿の線に沿って選別していた。

瀬尾はリストの端に残る圧痕を、骨製のへらの先で示した。

「この紙を折った人は、右手の人差し指に力をかける癖があります。折り目をつける前に、ここを押さえてから、端を撫でる」

「誰か分かりますか」

「人までは」

瀬尾はそこで言葉を止めた。

「ただ、僕の知っている手つきに似ています」

「誰の?」

彼はすぐには答えなかった。作業台の上で、私の封筒とリストを一枚ずつ重ね、向きを揃える。表題の位置、端の余白、折れの線。すべてを整えてから、瀬尾は低い声で言った。

「桐谷澪さんです」

胸の奥で、何かが一度だけ大きく沈んだ。

「会ったことはないと言いましたね」

「会っていません。ただ、彼女が使っていたという鉛筆の跡を見たことがあります。あの献呈本の下に残っていた名前の周囲に、細い鉛筆線があった。紙を折る前に、端を押さえた線です」

「姉の手つきを、なぜ知っているんですか」

「本が知っていたからです」

瀬尾はそう言った。

「本人の顔も、声も、歩き方も知らない。でも、頁の端をどう押さえ、どこで息を止め、どの傷を残したかは、本に残っている。あなたが印の位置を覚えているように、僕は紙の傷を覚えている」

言葉が途切れた。

作業場の中には、糊の匂いと古いインクの感触が満ちていた。私はリストの端へ指を置いた。圧痕の細い線に触れる。誰かがここを押さえた。何度も紙を折り、開き、選び直した。その人の指先が、まだ紙の内側に沈んでいるようだった。

「澪は、ここへ来たんでしょうか」

「それは分かりません」

「でも、彼女の手つきが残っている」

「手つきが似ているだけかもしれない」

「あなたは、そんなふうに逃げる人ではないと思っていました」

瀬尾の眉間に、わずかに皺が寄った。

「逃げているわけではありません。紙の傷から、人間を特定することはできない。似た道具を使えば、似た痕跡が残る。あなたがそれを姉のものだと思いたい気持ちは分かる。でも、証拠を願いに合わせると、最後に残るのは傷ではなく、こちらの都合です」

その言葉は厳しかった。

けれど、私は反発できなかった。澪を見つけたいという気持ちが、目の前の紙を姉の形へ変えてしまう危険を、私は知っている。印を見つけたときも、切符の跡を見たときも、私は何度も同じことをしてきた。

姉であってほしい。

姉が残したものであってほしい。

その願いが強すぎれば、他人の手まで澪にしてしまう。

「分かりました」

私は言った。

「似ているだけなら、似ているだけとして残します」

瀬尾は少しだけ目を細めた。

「それができるなら、あなたはここへ来るべき人です」

「どういう意味ですか」

「傷を見つけた人は、たいてい元に戻したがる。破れを隠し、汚れを落とし、読めない文字を推測で埋める。でも、あなたは今、似ている痕跡を似ているまま残そうとした」

「姉に似ていると言われたくないだけです」

「それでも構いません」

瀬尾は献呈本を布で包み直した。

「次のリストが届いたら、また持ってきてください。できれば封筒も、開封した状態のままで」

「何か分かりそうですか」

「分かることを増やせます」

「発信源は?」

「紙だけでは決められません。けれど、作業場の種類は絞れる。糊、断裁、圧のかかり方。そこに火の痕が重なるなら、焼失した蔵書を扱った場所と近い」

「月舟堂ですか」

「月舟堂か、その周辺です」

瀬尾は私の持ってきたリストを返した。渡す前に、三枚の向きを揃え、角を指で押さえた。

「それから、気をつけてください」

「何に?」

「このリストを作っている人間は、記録を残したいだけではない。残すものを選んでいる」

「選んでいる?」

「本の状態ではなく、持ち主の痕跡を選んでいる。切符を残す週と、抜く週がある。蔵書印を記す週と、位置だけを記す週がある。これは記録ではなく、編集です」

「誰かの人生を?」

「誰かが、誰かの人生を読める量まで切っている」

その表現に、私はリストを持つ手へ力を込めた。

瀬尾はさらに続けた。

「ただし、完全に消すつもりなら、こんなに細かく書かない。記録し、送っている。見つけてほしいのか、見つけさせたくないのか、作っている本人も決め切れていないのかもしれません」

「反撃ではなく、迷い?」

「紙には、迷った人間の手つきが残ります」

彼はリストの右端を指した。

「折り直しがある。最初に決めた位置を、一度開いている。残す項目を変えたか、送る相手を変えたか。最後まで迷って、それでも封をした」

私は、姉の最後の姿を思い浮かべた。

家を出る前、澪は何を手にしていたのだろう。どの本を持ち、どの本を置き、どの頁を折ったのだろう。誰かへ何かを伝えようとして、結局、言葉ではなく紙片だけを残したのか。

「澪は、私へ送ろうとしたのでしょうか」

「分かりません」

瀬尾は答えを濁さなかった。

「ただ、あなたのところへ届いている。それは事実です」

作業場を出ると、午後の港風が坂を上ってきた。海の匂いに、古紙回収所から流れてくる湿った木の臭いが混ざっている。私は封筒を胸元へ抱え、坂を下った。

手の中のリストは、先ほどより重く感じられた。

それは本の売却記録ではなかった。誰かの時間から切り取られた、紙片の目録だった。切符、折れ、印、書き込み。残されたものも、抜き取られたものも、すべて同じ紙面に並んでいる。

瀬尾の言葉が、歩くたびに胸の内側で響いた。

残すものを選んでいる。

風が強くなり、私はリストの端を押さえた。紙がばたつき、指先に古いインクのざらつきが移る。

そのとき、三枚目の紙の下端に、これまで見えなかった細い圧痕が浮かんだ。

折り目のすぐ脇に、鉛筆で引かれた短い線が二本。

澪が考え事をするとき、頁の端へつけていた印と同じ長さだった。

私は足を止めた。

港の向こうで、船の汽笛が低く鳴った。倉庫街の錆びた屋根が風に軋み、遠くのどこかで、紙を束ねるような音がした。

二本の線は、文字ではなかった。

けれど、ただの傷とも思えなかった。

私はそれを消さずに、手帳の最後の頁へ写した。

そして、写し終えたあとも、元の紙をしばらく閉じることができなかった。

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修復士の指先 - 紙片の目録 - 誰でも作家life