4話 売却リストの背骨

月曜の朝、町立図書室の窓は、雨上がりの光をうまく通さなかった。

硝子の向こうでは、旧港のクレーンが灰色の霧に沈んでいる。屋根から落ちた雫が、軒先の金属板を一定の間隔で叩いていた。館内にはまだ利用者の気配がなく、返却口の前に残された靴跡だけが、床の上で濡れた線を引いている。

私は返却棚の前に立ち、昨夕から積まれていた本を一冊ずつ手に取った。

背の高さを揃える。次に厚みを揃える。それから著者名の順に戻す。図書室の規則では、最初から著者名で並べればいいことになっている。けれど、紙の状態が違う本をいきなり隣り合わせにすると、棚の中で呼吸が合わないように感じる。

革装の本は、乾いた場所にあった。表紙の端に細かな白い粉が浮いている。

薄い文庫本は、誰かの鞄の底で長く押されていた。背の中央が沈み、表紙だけがわずかに反っている。

同じ返却棚に置かれた本でも、それぞれに違う場所から戻ってくる。私はその違いを見ていると、誰かの暮らしが、ほんの少しだけ手の中へ移ってくるような気がした。

職員用の机の脇まで来たとき、見慣れない茶封筒が置かれているのに気づいた。

宛名は「町立図書室」だけ。差出人の欄は空白だった。切手の横に押された消印は滲み、局名の一部が黒い塊になっている。封を閉じた糊だけが、そこだけ時間から取り残されたように白かった。

私はすぐには触れなかった。

封筒というものは、表面より角に事情を残す。運ばれる途中で何かに押しつけられたのか、誰かが何度も持ち替えたのか、投函する前に躊躇したのか。角の擦れ方と腹の柔らかさを見れば、少なくとも手にされていた時間の長さは推測できる。

私は指先で、封筒の右下を撫でた。

紙は柔らかかった。だが封の糊は新しい。閉じる前には何度も開かれていたのに、最後だけは念入りに塞いだような状態だった。

「望さん、それ、今日届いたやつ?」

背後から同僚の声がした。

私は封筒を机の奥へ少し移した。

「さっき見つけた。回覧文書かもしれない」

「差出人、ないの?」

「ない」

「また変なのが来たねえ」

同僚は笑いながら、返却された絵本を抱えて児童コーナーへ向かった。彼女にとっては、差出人のない封筒も、宛名を間違えた町内会の通知も、雨で濡れた新聞も、開館前に片づけるべき雑事の一つなのだろう。

私は同僚の背中が棚の陰へ消えるのを待った。

それから、封筒を手に取った。

湿った古紙の匂いがした。海風とも、図書室の本棚とも違う。濡れた木材の奥に、長く閉じ込められていた空気の匂い。ほんのわずかに、焦げたものが雨を吸ったような臭いが混じっている。

封を切る前に、私は机の引き出しから赤鉛筆を取り出し、封筒の角を一度だけなぞった。汚れの位置を記録するためだった。あとで同じものが届いたとき、比較できるように。

そんな必要があるのかどうかは、まだ分からなかった。

けれど、捨てる可能性のあるものほど、先に残しておかなければならない。

私はペーパーナイフを差し入れ、糊の線に沿って封を開いた。

中から出てきたのは、罫線も余白もない一枚の紙だった。

表題は、薄い墨で端正に刷られている。

〈蔵書売却リスト〉

書名だけを見れば、古い随筆集や地方出版の詩集、絶版になった文学全集が並んでいる。けれど、私の目を止めたのは、その脇に添えられた注記だった。

〈表見返し右上、蔵書票。角、外側から内側へ折れ〉

〈鉛筆書き、濃度弱。書き始めに二度止まる癖〉

〈切符一枚。旧駅発、港中央着。日付欠損〉

〈奥付裏に茶色の輪染み。湯呑みではなく、紙袋の底面によるもの〉

売却価格も、買い手の名前もない。

本がいくらで売れたのかではなく、本がどこに置かれ、誰の指で開かれ、どんな紙片を挟まれたまま過ごしたのかが記されていた。

私は一枚目の下端を指で押さえた。

紙の繊維が均一ではない。表面は白く整えられているのに、指の腹にはかすかな段差が返ってくる。古い帳簿か書類を裁断し、別の紙を薄く貼って作ったような感触だった。

光に透かすと、紙の下に文字の影が浮かんだ。

私は窓際へ移動した。

灰色の光の中で、紙を傾ける。影は文字のようにも、ただ繊維が乱れているだけのようにも見えた。右端に、数字らしいものが三つ。左下には、横線の一部。

目を凝らすほど、何も確かではなくなる。

「何か見える?」

同僚が児童コーナーから戻ってきた。

私は紙を伏せた。

「裏紙みたい」

「売却リストって書いてあるけど、図書室に売る本なんてあったっけ」

「分からない」

「月舟堂じゃない?」

その店名が出た瞬間、指先が紙の端で止まった。

同僚は気づかず、机の上の返却カードを束ねている。

「ほら、古本屋の月舟堂。昔、図書室の本をまとめて引き取ったことがあったでしょう。閉店する前に。町史保存会の紹介で」

「いつの話?」

「さあ。私が入る前だから、十年以上は前かな。看板を外してから、もうずっと開いてないけど」

「閉店したのは、いつ?」

同僚は返却カードを机の端で揃えながら、少し考えた。

「たしか、店主さんが亡くなってからじゃなかった? 妹さんも、その頃に町を出たって聞いたけど」

「妹さん?」

「桐谷さんの家の……」

そこで同僚は言葉を止めた。

返却カードの束を、必要以上に丁寧に揃えている。紙の端が机に当たる音だけが、何度も繰り返された。

私は彼女の顔を見なかった。代わりに、机上のリストへ目を落とした。

「澪のこと?」

「いや、私は詳しくは知らないよ」

「聞いたことはあるでしょう」

「昔の話だから」

「昔の話なら、聞いてもいいと思う」

同僚は困ったように笑った。

「望さん、そういうところ、変わらないね」

「どういうところ?」

「聞かなくていいことまで、ちゃんと聞こうとするところ」

その言葉に、胸の奥がわずかに硬くなった。

私は姉がいなくなったあと、町の大人たちが同じ言い方をするのを何度も聞いた。

昔のことだから。

もう終わったことだから。

本人が望んだことだから。

どの言葉も、蓋のようだった。中に何が入っているのかを確かめる前に、閉じてしまうための蓋。

「月舟堂から、これが届いたと思う?」

私は訊いた。

「差出人がないんでしょう」

「名前がないことと、関係がないことは別」

「でも、売却リストなんて、店が閉じていたら送れないじゃない」

「閉じているから送れないとは限らない」

「望さん」

同僚は声を低くした。

「澪さんのこと、まだ調べてるの?」

私は返事をしなかった。

返却棚の向こうで、利用者が一人入ってきた。濡れた傘を傘立てに差し、受付の機械へカードをかざす音がする。日常は、誰かの不在とは関係なく進んでいく。貸出期限は来るし、本は返却される。棚の空きは埋められ、名前は帳簿へ記される。

私はリストを手帳へ挟んだ。

同僚は、それ以上言わなかった。

昼休みになると、私は閲覧室の奥の席へ移った。窓から離れた、書架の影に近い場所だった。机の上へリストを広げ、先週届いた紙と並べる。

私は先週分を、今朝まで一度も開かなかった。

開けば、何かがつながってしまう気がしていたからだ。二通の紙を見比べるということは、偶然の余地を自分から狭めることになる。姉の名を探すのではなく、姉の痕跡が続いていることを認めることになる。

それでも、紙を重ねた。

二枚の端は完全には揃わなかった。裁断の角度が少し違う。けれど、紙の下にある粗い繊維の筋は、途中で同じ方向へ走っていた。

表題の下に並ぶ書名の順番も違っている。

先週の一番上にあった本が、今週は四番目に下がっている。二番目の本は消え、末尾に別の一冊が加わっていた。売却されたのなら、次の週に順位を変えて残る理由がない。

私は書名を手帳へ写し、二枚のリストを横に並べた。

同じ本の注記が、少しずつ変わっている。

〈頁の折れ、浅くなる〉

〈鉛筆圧、前回より弱い〉

〈切符、抜去〉

〈蔵書票、剥離跡あり〉

私は息を止めた。

本が売買されているのではない。

そこに残っていたものが、一つずつ取り外されている。

切符が抜かれ、書き込みが薄くなり、蔵書票が剥がされる。頁の折れだけが残り、それも誰かの手で伸ばされていく。

記憶を保存しているのではない。

記憶を、細かく分けている。

私はリストの余白に、小さく線を引いた。

一冊目。港中央駅の切符。

二冊目。映画館の半券。

三冊目。喫茶店の紙ナプキン。

四冊目。旧駅の乗車券。

ばらばらの紙片は、並べるとひとつの道筋になった。

旧駅から港中央へ向かい、映画館の裏手を通り、町外れの喫茶店へ行く。日付はすべて欠けているが、切符の様式と紙の変色から、おおよその順番は分かった。

私はその道を知っていた。

澪がよく歩いていた道だった。

子どもの頃、姉は私を連れて、港の古い映画館へ行った。映画を見るためではなく、映画館の裏手にある小さな喫茶店で、焼きすぎたトーストを食べるためだった。帰りには旧駅の売店で切符を買い、使い終わった半券を本へ挟んだ。

「捨てないの?」

私が訊くと、澪は半券の端を指で折った。

「捨てたら、行ったことまで軽くなるでしょう」

「切符一枚で?」

「一枚だから残るの。たくさんあると、どれが本当か分からなくなるから」

澪はそう言って、詩集の見返しに切符を挟んだ。

その本が、今週のリストの末尾にあった。

私は手帳から、図書室の古い貸出カードを取り出した。過去の記録は、書庫の奥に残っている。カード式の貸出記録は既に使われていないが、除籍されていない本については、古いものも一部が保存されていた。

詩集の題名を探す。

カードの端に、澪の名前があった。

桐谷澪。

貸出日は、失踪する二週間前。返却日は記録されていない。

私はカードの紙面を指でなぞった。名前の下には、返却済みを示す赤い印が押されている。けれど印の上から、別の薄い朱が重なっていた。誰かが後から押し直したように見えた。

返却された本なら、なぜ返却日がないのか。

返却されていないなら、なぜ返却済みの印があるのか。

私はカードを閉じ、リストの書名へ戻った。

詩集の注記には、こうあった。

〈私印、表見返し右下。押印後、閉じたまま乾燥。切符一枚、抜去跡〉

蔵書印。

私は手帳の内側に挟んでいた木片を取り出した。

澪が使っていた蔵書印の、欠けた印面の一部だった。印そのものは失踪後に見つからなかった。けれど、机の引き出しの奥から、削りかけの木片だけが出てきた。私はそれを、姉の持ち物として長いあいだ保管している。

木片の欠け方を、私は覚えている。

右下が沈んでいる。押すと、円の一部だけが薄くなる。

リストの注記にある「私印、表見返し右下」は、ただの所有表示ではなかった。

誰かが、澪の印の位置を確認している。

私は詩集のカードを持ったまま、しばらく動けなかった。

喪失感というものは、消えるのではなく、置き場所を変えるだけなのかもしれない。姉がいなくなった直後、それは胸の中にあった。年月が経つと、家の空いた棚へ移った。誰かが話題を逸らすたび、町の沈黙へ移った。

今、それは紙の上へ戻ってきた。

私はリストの一行を赤鉛筆で囲んだ。

〈切符一枚、抜去跡〉

紙の中央に、細い繊維の裂け目が残っている。切符を抜き取るとき、糊で貼られていたのではなく、長く挟まれていた紙片が摩擦で頁を傷めたときにできる跡だった。

抜き取った者は、切符だけを持ち去った。

なぜ、紙片だけが必要だったのか。

私は切符の行き先を確認した。港中央。日付は消えている。だが切符の裏側に残った印刷の濃さから、同じ時期に使われたものだと推測できる。

澪は、これを残した。

そして誰かが、これを取り除いた。

私は目を閉じた。

姉が失踪した夜、家の玄関には古い革靴が残っていた。財布も、冬物の上着も、本棚の大半も。その中から、旅に出たと考えられるものだけが、都合よく消えていた。

当時の私は、澪が本当に出ていったのだと思った。

町の人がそう言ったからではない。そう思わなければ、どこへ行ったのかも、なぜ帰らないのかも、考え続けなければならなかったからだ。

私は姉を、記録のない場所へ追いやった。

誰かがそうしたのではなく、私自身が。

そのことに気づくと、指先が冷えた。

午後、私は書庫へ入り、古い寄贈記録を調べた。町史保存会から一括して寄贈された本の中に、月舟堂の名前があるか確認するためだった。

保存箱を開くと、乾いた埃が舞った。紙の匂いの奥に、古い糊と、わずかな煤の臭いがある。私は記録簿を背の順に並べ、年代の古いものから開いた。

月舟堂。

その名前は、二十年前の記録に一度だけ現れていた。

〈旧蔵書整理分、月舟堂へ移管。詳細別紙〉

別紙は綴じられていない。

私は記録簿の綴じ目を確認した。糸は切れていない。最初から、別紙だけが抜かれている。抜いたあと、綴じ直した痕跡もない。

ページの隙間から、細い紙片が落ちた。

私は反射的に手を伸ばした。

紙片は、記録簿の背に押し込まれていた。表面には何も書かれていない。けれど、指で触れると中央に硬い折り目がある。開くと、古い鉛筆の文字が一行だけ残っていた。

〈目録にない本ほど、先に動く〉

字は細く、小さかった。

私はその筆跡を知っていた。

澪の文字だった。

最後の「く」の払いが、少しだけ長い。鉛筆を紙から離す前に、次の文字へ向かおうとする癖がある。急いでいるのに、書くことを途中で諦めていない字。

紙片を持つ手が震えた。

その震えを止めるため、私は記録簿を閉じた。閉じた拍子に、背表紙が軋む。紙と紙の擦れる音が、誰もいない書庫で大きく響いた。

夕方、私は図書室の机へ戻った。

その日の閉館まで、何人かの利用者が来た。子どもが絵本を返し、老人が新聞を読み、学生が参考書を借りた。私はいつも通りに貸出処理をし、返却日を記し、印を押した。

けれど、押印するたび、紙面の下に別の記録が隠れているように思えた。

名前を消すための線。

返却済みと見せるための印。

本来あるはずの別紙。

私は閉館後、二週分のリストを机いっぱいに広げた。

書名を横一列に並べ、注記の変化を写す。頁の折れ、筆圧、切符、印、染み。ばらばらだった記述が、少しずつ一本の背骨を持ちはじめる。

最初の週は、持ち主の生活が記されていた。

次の週は、その生活から紙片が抜かれていた。

そして今週は、本の所有者を示す印だけが残されている。

記憶は、売られていたのではない。

切り分けられ、順番を変えられ、誰のものだったか分からない形にされていた。

私は最後の詩集の欄へ目を落とした。

〈蔵書印、右下部に欠損。印影、桐谷澪のものと一致〉

その注記だけは、他の項目より文字がわずかに濃かった。

誰かが、私に見つけさせるために書いたのか。

それとも、見つかることを恐れながら、それでも書かずにはいられなかったのか。

私は答えを出せなかった。

窓の外は暗くなっていた。旧港へ向かうトラックが、濡れた道路を低い音で走っていく。潮の匂いに混じって、湿った木と古いインクの臭いが流れ込んだ。

私はリストを一枚ずつ重ねた。

紙の擦れる音が、誰かの歩く音に似ていた。

姉の失踪は、遠い昔の空白ではない。

本が一冊ずつ動き、記録が一行ずつ書き換えられるたびに、まだ続いている。

私は封筒の角を引き出しから取り出し、リストの上へ置いた。角の擦れた部分と、紙面の赤茶色い汚れが重なる。

その瞬間、紙の端に残った焦げ色の下から、薄い文字が浮かんだ。

月舟堂。

私は息を止めた。

目を離してもう一度見ると、文字は繊維の陰へ沈んでいた。けれど、見間違いではなかった。紙の奥に、消された記録がある。

私はリストを手帳へ挟み、姉の筆跡が残る紙片をその隣へ入れた。

明日、月舟堂へ行く。

そう決めたとき、図書室の奥、誰もいないはずの書庫で、本が一冊だけ倒れた。

背表紙が棚板へ触れ、乾いた音を立てる。

私はしばらく動かなかった。

それから、明かりを消さずに、書庫の方へ歩き出した。

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