3話 茉莉の違和感

夕方になると、図書室の窓は海の方角から差してくる光を失い、灰色の面に変わった。向かいの商店の看板も、通りを走る自転車の車輪も、薄い水の底に沈んだように輪郭がぼやけている。

私は返却本の棚を整理していた。

閉館までまだ一時間ある。利用者は少なく、閲覧室には新聞をめくる音と、古い空調が吐き出す低い唸りだけが残っていた。棚の一番下から文庫本を抜き、背の高さを揃えて戻す。背表紙の傷みを指先で確かめ、濡れたものと乾いたものを分ける。紙は、同じ場所に置かれていても、それぞれ違う匂いを持っている。

そのとき、入口の自動扉が開いた。

潮気を含んだ風が、床に置かれた案内板の紙を一枚だけ揺らした。入ってきたのは、郵便局の制服を着た片岡茉莉だった。肩から古い配達鞄を下げ、濡れた前髪を耳へかけている。いつものように、誰に向けているのか分からない柔らかな笑みを浮かべていた。

「まだ開いてますか」

「あと一時間」

「よかった。返すものがあって」

茉莉はカウンターへ向かわず、返却棚の前で足を止めた。図書室に来ると、彼女は必ずここを見ていく。借りたい本を探しているというより、棚の中に何かが紛れ込んでいないか確かめているようだった。

「本、探しているんですか」

「今日は本じゃなくて、顔を見に来ました」

そう言って、茉莉は笑った。

「望さんの顔です。朝から少し、いつもと違いましたから」

私は棚に本を戻したまま、彼女を見なかった。

「いつもと同じです」

「そういうことにしておきます」

茉莉の声は穏やかだった。けれど、彼女がカウンター脇の机へ視線を移したとき、その笑みがわずかに薄くなった。

机の引き出しには、月曜に届いた茶封筒を入れてある。封筒そのものは見えない。それでも茉莉は、そこにあると分かっているように、引き出しの前で立ち止まった。

「封筒を見せてもらえますか」

「郵便局のものだから?」

「郵便局のものではないからです」

私は返却棚の端に置いた鍵を取り、引き出しを開けた。茶封筒を取り出すと、茉莉は受け取らず、まず私の手元を見た。

「開けてありますね」

「中身は確認しました」

「そうですか」

茉莉は封筒の角を親指で押した。糊の硬さを確かめているらしい。続いて、封の重なった部分を爪でなぞり、消印の滲んだ箇所へ顔を近づける。紙に顔を寄せる仕草は丁寧だったが、単に匂いを嗅いでいるのではなく、湿り気がどこから移ったのかを探っているように見えた。

「旧港倉庫街の集配じゃないですね」

「分かるんですか」

私は思わず尋ねた。

茉莉はすぐには答えなかった。封筒を窓際へ持っていき、灰色の光に透かした。差出人欄の空白の裏側に、糊の筋と、何度も押さえられた指の跡が浮かんでいる。

「集配の区域なら、紙の乾き方が違います。倉庫街は風が強いので、封筒の表面だけが先に乾くんです。中まで湿っていると、角が少し硬くなります。でも、これは腹の部分が柔らかいまま、封だけが乾いている」

「投函したあと、どこかで乾かした」

「たぶん。屋内ですね。窓の近くではなく、風の通らない場所。乾かすために置いたというより、誰かが封をしたまま、しばらく手元に置いていた感じです」

「それだけで、場所まで分かるんですか」

「場所は分かりません。郵便物から場所を断定すると、だいたい間違えます」

茉莉は封筒を机へ戻した。

「でも、どこを通ってきたかなら、少しは分かる。郵便は宛先へ届くまでに、必ず誰かの手を通ります。仕分けの台、鞄の中、ポストの底。そこでつく傷は、それぞれ違うんです」

「これは?」

「誰かが、郵便局へ渡る前に一度、別の場所へ置いています」

「別の場所?」

「投函する人の家かもしれないし、受け取った誰かの部屋かもしれない。けれど、普通の手紙なら、こんな置かれ方はしません。書いたら封をして、すぐ投函する。少なくとも、私が受け持ってきた区域では」

茉莉の指が、封筒の左下を押さえた。そこには薄い赤茶色の汚れがある。朝から何度も見ていたのに、私はそれを土埃だと思っていた。

「この汚れは?」

「古紙の粉か、焼けた木の粉です。倉庫街の木材にも似ていますが、あそこならもっと塩気が混じる。これは乾いたあとでついたものです」

「焼けた木……」

口にすると、朝の封筒から立ち上っていた匂いが戻ってきた。潮とは違う湿った臭い。焦げたものが雨を吸ったあとのような、硬い匂いだった。

茉莉は私の顔を見た。

「何か、思い当たりましたか」

「月舟堂の裏手に、同じような粉が落ちていました」

「月舟堂」

その名が出たとき、茉莉は笑わなかった。

図書室の中に、空調の風が一度だけ通り抜けた。返却棚の最上段に置いた雑誌が、ぱらぱらと頁を鳴らす。紙が擦れる音はすぐに止んだが、茉莉はその間、私から目を逸らさなかった。

「月舟堂から、これが届いたと思っているんですか」

「差出人はありません」

「それは答えになっていません」

「分かっていることが少ないので」

「少ないまま、姉さんの本が出てきた」

私は返事をしなかった。

茉莉は封筒の角を撫でた。笑顔を浮かべようとして、やめたように見えた。

「すみません。言い方が悪かったです」

「いえ」

「でも、望さん。私は、この町で差出人のない郵便がどう扱われるかを知っています。普通なら宛先不明で戻ります。宛名が図書室だけなら、担当の人が確認して、役所か郵便局へ回す。こんなふうに、毎週同じ月曜日に届くものを、そのまま放っておくことはありません」

「毎週、届いているんですか」

「先週も、その前の週も。少なくとも私が覚えているだけで、三通です」

私は封筒から目を上げた。

「どうして、私に言わなかったんですか」

「言っても、届いた事実しか渡せないからです。郵便局の記録には、差出人の名前がない。投函されたポストも、毎回違う。私が見たことを並べても、噂と変わらない」

「でも、知っていた」

「はい」

茉莉の答えは早かった。言い訳を重ねるより、認めてしまう方が正確だと考えている声だった。

「知っていて、黙っていた。仕事の線を越えるのが怖かったんです。郵便物の中身を勝手に推測するのは、配達員の仕事ではないから」

「それでも、見ていた」

「見てしまうんです」

茉莉は視線を封筒へ落とした。

「郵便は、手紙を書いた人が思っているより多くのことを残します。折り方、切手の位置、封の閉じ方。急いでいる人は、だいたい右上を強く押さえる。誰かに読まれるのを怖がっている人は、糊を二度引く。待っている人は、ポストの前で一度だけ足を止める。私はそういうものを見てきました」

彼女はそこで言葉を切り、窓の外を見た。

「けれど、見たものを勝手に物語にしてはいけないとも思っていました。受け取った人が封を開けずに泣いていたとしても、何が書いてあるかを決めつけてはいけない。誰かの生活へ、靴のまま上がり込むようなことはしたくないんです」

「なら、なぜ今ここで話すんですか」

茉莉はしばらく黙っていた。

外を、郵便局の赤いバイクが通り過ぎた。濡れた路面をタイヤが撫で、遠ざかる音が図書室の壁に薄く反射する。

「望さんが、封筒を捨てなかったからです」

「それだけですか」

「それだけで十分なこともあります」

「私が姉の印を見つけたから、ではなく?」

「それもあります」

茉莉はやっと私を見た。

「町の人は、澪さんの話をするとき、みんな同じ顔をします。知らないふりをする顔です。驚いた顔でも、悲しい顔でもない。ただ、話題を別のところへ運ぶための顔。私はそれを何度も見ました。配達先で、澪さんの名前が書かれた封筒を見た気がしたこともあります。でも、確かめられなかった」

「名前が書かれていたんですか」

「はっきりとは。筆圧と、最初の二文字だけです。桐谷、と見えた。でも、桐谷という名字はこの町に一軒だけではない。だから、違うかもしれない。そう思って、記録には残しませんでした」

「どうして今、話すんですか」

「その封筒を受け取った家の人が、封を開けずに泣いたからです」

茉莉の声は低かった。

「泣いたあと、郵便受けの中へ戻しました。私が帰るまで、ずっと。あの家には、郵便受けを開けるための鍵がありませんでした。中から押し戻したんです。つまり、封筒を捨てたかったのではなく、誰かに返したかった。でも返す相手がいなかった」

私は茶封筒を見つめた。

紙の上に残る汚れが、さっきより濃く見えた。誰かの手が触れ、離れ、また触れた。その繰り返しが、紙の繊維を柔らかくしている。

「その家は、どこですか」

茉莉はすぐには答えなかった。

「聞かない方がいいです」

「それは、あなたが決めることですか」

「決めるつもりはありません。ただ、聞けば望さんは行くでしょう。行って、尋ねるでしょう。相手が答えたくないことまで」

「私は、そんなに無遠慮に見えますか」

「いいえ。だから余計に危ないんです」

茉莉は封筒を私へ返した。

「望さんは、物を見てしまう。見てしまったものを、見なかったことにできない。相手が黙っていても、紙の端や棚の空いた場所から、答えを拾おうとする。そういう人は、町では嫌われます。親切にされるより先に、面倒な人だと思われる」

「もう、思われています」

「それでも続けるんですか」

私は封筒の角を指で押さえた。古い紙のざらつきが、皮膚の溝へ入り込む。

「続けます」

「姉さんのために?」

「それだけではありません」

「では、何のためですか」

すぐに答えられなかった。

姉のためだと言えば、話は簡単になる。失踪した人を探している。自分の家族を取り戻したい。けれど、私が本当に怖いのは、澪の行方そのものより、彼女が消えたあとに町が何事もなかったように日常を続けたことだった。

本棚から本が抜かれ、帳簿から名前が抜かれ、会話から人が抜かれていく。その作業を、誰も手を止めずに見ていた。

「記録から消されるのを、見過ごしたくないんです」

私は言った。

「人がいなくなったことを、家出とか、昔のこととか、そういう短い言葉に畳みたくない。澪の本に印があるなら、その印がどこから来たのかを確かめたい。誰かが手に取ったなら、その手をなかったことにしたくない」

茉莉は、静かに私の話を聞いていた。

「そういうところが、澪さんに似ています」

その言葉で、胸の奥が硬くなった。

「似ていません」

「似ています。声の調子ではなくて、見方が」

「私は姉のように、危ないところまで踏み込めなかった」

「踏み込まなかったんですか。それとも、踏み込めなかった?」

茉莉の問いは柔らかかった。だから、逃げ道がなかった。

図書室の時計が、六時を知らせた。短い電子音が三度鳴り、閲覧室の隅で新聞を読んでいた老人が顔を上げた。茉莉はその音を聞いて、配達鞄の肩紐を直した。

「配達記録を、少しだけ見せられます」

「少しだけ?」

「正式な記録を持ち出すことはできません。でも、投函地点を覚えている分なら」

彼女は制服の胸ポケットから、折り畳んだメモ用紙を取り出した。紙は何度も開かれたらしく、折り目が白くなっている。そこには、旧港倉庫街ではない町の南側の路地名が三つ、順不同で書かれていた。

潮見坂裏。旧製氷所脇。南町の空き地前。

「この三か所です」

「毎回、違う場所?」

「はい。最初は潮見坂裏。次は旧製氷所脇。その次が南町の空き地前。投函された時間も少しずつずれています。でも、配達に回る前の封筒の状態は同じでした」

「同じ人が投函している」

「そこまでは言えません。ただ、同じ人が投函地点を選んでいる可能性はあります」

「家の前を避けているように見える、と言っていましたね」

茉莉はメモの裏側を指で押さえた。

「ポストの位置だけでなく、人のいる家を避けています。明かりがついている家、犬が鳴く家、朝早く起きる家。逆に、空き家や、郵便受けだけ新しい家の前は通る」

「郵便受けだけ新しい?」

「古い家なのに、投入口だけ交換されているんです。錆びた門や割れた表札はそのままなのに、郵便受けだけが新しい。受け取るためというより、外から中身を見せないためのものに見えます」

私は、町の南側へ続く道を思い浮かべた。図書室から南町へ行くには、商店街を抜け、古い魚市場の脇を通る。夕方になると、魚の残り香と排気ガスが混じり、風向きによっては海よりも生臭い。さらに先には、使われなくなった製氷所があり、その向こうで道が二つに分かれる。一方は住宅地へ、もう一方は旧港倉庫街へ続いている。

「その三か所は、月舟堂へつながっていますか」

「地図の上では、つながっています」

茉莉は鞄から小さな地図を取り出した。何度も書き足された私用の地図だった。道路の名前だけでなく、塀の切れ目、壊れた街灯、犬のいる家、雨の日に水の溜まる場所まで赤鉛筆で記されている。

三つの地点を線で結ぶと、直線にはならなかった。けれど、どの点からも、月舟堂へ向かう細い道へ抜けられる。

その線は、表通りを避けていた。

「郵便のための道ではないですね」

私は言った。

「では何のためですか」

「見つからないための道です」

茉莉は地図を畳んだ。

「望さん。月舟堂へ行くなら、昼間にしてください」

「理由は?」

「夜の倉庫街で、番台の明かりを見たことがあります」

「誰かいたんですか」

「分かりません。中へ入る人影は見ていない。でも、明かりは点いていた。廃業してから、何度も」

「なぜ、今まで黙っていたんですか」

茉莉は少しだけ笑った。

「見たものを、勝手に物語にしたくなかったからです」

「でも、今日は話してくれた」

「今日は、望さんがもう物語の中に立っているからです」

その言葉の意味を考えているうちに、茉莉は返却棚から一冊の薄い本を抜き取った。表紙を確かめ、貸出カードを開く。彼女は図書室へ来るたび、何か一冊だけ本を手に取る。読むためではなく、棚の位置を確かめるためらしい。

「それ、借りますか」

「借りません。戻すだけです」

「さっきから、返却本の棚を見ていましたね」

「郵便局へ戻る前に、ここを見るのが習慣なんです。図書室は、町の人が持っているものを一度だけ外へ出す場所でしょう。借りた本を返す。返した本が、また別の人へ渡る。郵便と少し似ています」

茉莉は本を元の位置へ戻した。

「でも、返ってこないものもあります」

「本が?」

「本も、人も」

彼女は言い終えると、すぐにいつもの柔らかな笑みを戻した。その笑みが、今度は以前より薄く見えた。

茉莉が帰ったあと、私は窓際へ歩いた。

外はもう暗くなりかけていた。商店街の明かりが濡れた路面に細長く伸び、排水溝へ流れる水の上で震えている。旧港へ向かうトラックが一台、低い音を立てて通り過ぎた。荷台から湿った木材の匂いが流れ、潮の匂いと混ざる。

私は窓を少しだけ開けた。

冷たい風が入り、机の上のメモ用紙をめくった。潮見坂裏。旧製氷所脇。南町の空き地前。三つの地名が、白い紙の上で一瞬だけ見えなくなり、また現れる。

封筒を手に取る。

内側に残った糊の匂いは、まだ消えていなかった。古いインクと湿った紙、その奥にある、硬く冷たい匂い。どこかで誰かが封をし、乾かし、別の場所へ運び、投函した。その手順だけが、紙の繊維に細く残っている。

私は封筒の角を、茉莉から受け取ったメモの上へ重ねた。

角の擦れ方が、メモの折り目と重なった。

誰かが場所を選び、誰かが道を避け、誰かが届かないように届けている。

それは郵便の形をしていたが、手紙ではなかった。 図書室の外で、トラックがもう一度、倉庫街の方へ遠ざかっていった。私は窓を閉め、茶封筒と三つの地名を手帳へ挟んだ。

明日、南町へ行く。

書き留める代わりに、私は手帳の端を指で一度だけ押さえた。紙は黙っていたが、その沈黙は、朝よりもはっきりした輪郭を持っていた。

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茉莉の違和感 - 紙片の目録 - 誰でも作家life