第2話 失踪印

午後二時を過ぎると、図書室の窓から差し込む光は、朝よりも白くなった。潮気を含んだ灰色が薄れた代わりに、硝子の向こうの景色が妙に近く見える。向かいの商店の軒先、電線に止まった鳩、通りを横切る自転車の籠まで、すべてが湿った膜を一枚かぶっていた。
私は返却された本を、カウンターの内側にある作業台へ運んだ。
返却本の点検は、貸出票の確認から始める。ページの抜け、濡れ、書き込み、飲み物の染み。利用者は本を返すとき、たいてい自分の触れた痕跡を隠そうとする。消しゴムの粉を払ったり、折れた頁を伸ばしたり、汚れた箇所を内側へ押し込んだりする。その隠し方にも、持ち主の気質は残る。
私は一冊ずつ本を開き、角を揃え、背を指でなぞった。
最後から三冊目に、薄い文庫本があった。
表紙は日に焼け、背の文字がほとんど消えている。返却期限票には、図書室の貸出印が二つだけ残っていた。どちらも古い日付で、最初の貸出記録から今まで、長いあいだ誰にも借りられていなかったらしい。
私は本を開いた。
背表紙のすぐ内側、見返し紙の右下に、朱色の丸い印が押されていた。
指が止まった。
朱肉が薄く、円の一部がかすれている。印の右下だけ、ほんのわずかに欠けていた。その欠け方を、私は知っていた。知っているというより、指先の奥に刻まれていた。
桐谷澪。
姉の蔵書印だった。
本を閉じる音が、作業台の上で異様に大きく響いた。閲覧室で新聞をめくっていた老人が顔を上げる。私は反射的に文庫本を胸元へ引き寄せ、何でもないように貸出票の束へ手を伸ばした。
「どうかしましたか」
老人が訊いた。
「いえ。頁が少し傷んでいたので」
声は出た。けれど、自分のものではないように遠かった。
老人はそれ以上尋ねず、新聞へ戻った。紙を折る音がした。ぱさり、と乾いた音だった。その音の向こうで、私の呼吸だけがうまく続かなかった。
澪の印は、家を出る前に何度も見た。
姉は蔵書印を自分で彫った。既製品の判子を嫌い、古い木箱の底板から切り出した木片を削って、何日もかけて丸い印面を作った。印の輪郭は完全な円ではなかった。右下がわずかに沈み、押すたびにそこだけ朱が薄くなる。
「欠けてるほうが、私の本だって分かるでしょう」
幼い私がそう言うと、澪は眼鏡を押し上げて笑った。
「分かるために押すんじゃないよ。誰かが触ったことを、忘れないために押すの」
その言葉を、私は長いあいだ覚えていた。
けれど、覚えていたのは言葉だけではなかった。印を押すとき、澪は本を机の端にきっちり合わせた。見返し紙の右下から、指二本分だけ上。判子を離すときは、まっすぐ持ち上げず、ほんの少しだけ左へ滑らせる。だから印の一部が横へにじむ。
目の前の印には、そのにじみまで残っていた。
私は作業台の下から、司書用の手帳を取り出した。朝届いた蔵書売却リストを、まだそこに挟んである。封筒から取り出した紙は、手帳の紙背に沿って少しだけ曲がっていた。私はリストの項目を開き、文庫本の題名を探した。
あった。
書名の右に、細い文字で注記がある。
〈私印、表見返し右下。朱の欠け、右下部。巻末より三頁目に、外側から内側へ折れ。返却期限票一枚。日付、二度訂正〉
私は文庫本をめくった。
巻末から三頁目。頁の外側の角が、内側へ向かって折られていた。折り目の先は一度伸ばされ、その上からまた折られている。紙の繊維が白く浮き、爪で押した跡が二本、斜めに走っていた。
返却期限票は、巻末の見返しに挟まっていた。
角が一つ、内側へ折られている。鉛筆で書かれた日付は、上から薄く消され、別の日付が書き直されていた。消し跡の下に、最初の数字がかすかに残っている。
私は鉛筆を取り出し、紙の上に直接書かず、手帳の余白へ数字を写した。
二十年前の日付だった。
正確には、澪が失踪した年の、失踪する三日前。
窓の外をバスが通り過ぎ、湿った路面の水を跳ね上げた。白い水しぶきが一瞬だけ光り、そのまま路肩の黒い汚れへ溶けた。
私は文庫本を閉じられなかった。
澪がいなくなったあと、家に残された本は、誰かによって片づけられた。母は「売った」と言い、父は何も言わなかった。姉の部屋から本棚が運び出されたことも、月舟堂の棚が途中から空になっていたことも、私は子どもだったから見間違えたのだと思おうとした。
警察の人は、家出の可能性が高いと言った。
町の人は、あの子は昔から本ばかり読んでいたから、どこか遠くへ行ったのだろうと話した。
誰も、澪が何を持って出たのかを尋ねなかった。何を置いていったのかも。
私はそのとき、尋ねるべきだった。
姉の本はどこへ行ったのか。なぜ、部屋の棚だけが途中で片づけられていたのか。なぜ、月舟堂は澪が消えた直後に看板を外したのか。
けれど、子どもの私は大人の沈黙を、答えの一種だと思っていた。
それ以上聞けば、何かが本当に壊れる気がした。
「桐谷さん」
カウンターの向こうから、同僚が声をかけた。
「その本、返却処理は済んでる?」
「まだ」
「古い本だから、傷みがひどければ除籍候補に回しておいて。蔵書印も個人のものみたいだし」
私は文庫本の表紙を見た。
「除籍候補にはしません」
「でも、利用も少ないし、背も――」
「この本は、廃棄の基準に入れません」
声が低くなった。語尾を短く切る、いつもの話し方だった。
同僚は少し驚いた顔をした。
「ずいぶん珍しいね。望さんがそこまで言うの」
私は返事をしなかった。文庫本の背を、指で一度なぞった。擦れた布張りの感触が、皮膚の下へ沈んでいく。
除籍するということは、図書室の記録からこの本を外すことだ。誰が借り、いつ返し、どの頁が傷んでいたか。その履歴を、ひとつの処理番号へ畳み込むことでもある。
それは本を捨てるよりも、澪の印をもう一度消すことに近かった。
同僚は肩をすくめ、別の返却本へ移った。私は文庫本を自分の手帳の横へ置き、朝のリストと見比べた。
題名、印の位置、頁の折れ、返却期限票。
四つの情報が重なっている。
これは偶然ではない。
そう断定するには、まだ証拠が足りなかった。だが、偶然と呼ぶには、リストの記述が具体的すぎた。誰かがこの本を開き、印を確かめ、折れた頁を数え、期限票の日付を書き写した。その人物は、澪の本を知っていた。
あるいは、澪自身が残した記録を見ている。
私はそこまで考えたところで、手が止まった。
澪が生きているとは、まだ思えなかった。思えば、失踪してからの年月を自分で支えられなくなる。生きている可能性を考えることは、希望を持つことではない。今日まで何も知らずにいた自分の時間を、一度に否定することだった。
けれど、死んだとも思えなかった。
死んだという記録も、遺体も、最後に見た人の証言もない。ただ、町の人々が一斉に口を閉ざし、姉の名前が会話から抜け落ち、家の棚から本が消えた。その空白だけが残っている。
私は文庫本の見返しをもう一度開いた。
朱印の縁に、薄い黒い線が付着していた。印を押した後に、紙を閉じたまましばらく置いたときにできる、微かな擦れだった。朱肉が乾く前に本を閉じたのだろう。澪は急いでいたのかもしれない。
その黒い線を見つめていると、幼い日の月舟堂が浮かんだ。
棚の間を歩く澪の背中。湿った木の床。奥の番台に置かれた黒い鉛筆。澪は本を仕入れると、必ず最初に見返しを開いた。題名より先に、そこにある余白を見る。誰かの名前、日付、贈り物の言葉、消された跡。
「本の中身は、読めば分かるでしょう」
澪はそう言った。
「でも、見返しは読まれない。だから、いちばん本当のことが残るの」
私はその声を思い出しながら、文庫本の見返しを撫でた。
紙は乾いていた。けれど、その奥に誰かの指の温度がまだ残っているように感じた。
閉館時刻が近づき、閲覧室の利用者が一人、また一人と帰っていった。椅子を引く音、返却口へ本が滑り込む音、遠くで掃除機が唸る音。そのすべてが、図書室の日常を元の形へ戻していく。
私は文庫本を貸出処理の棚へ戻さなかった。
リストと一緒に手帳へ挟み、立ち上がった。重さはたいしたことがない。けれど、手に持つと、二十年分の時間が一冊の中へ押し込められているようだった。
図書室を出る前、私は管理記録の端に、本の題名と返却日を書いた。
その下に、蔵書印の位置も記した。
表見返し、右下。
欠け、右下部。
それから、少し迷って、最後に一行を加えた。
〈桐谷澪の印と一致〉
文字を書き終えたとき、胸の奥で何かが冷たく固まった。
私はもう、姉の失踪を家族の記憶だけに置いておけない。誰かが本を動かし、誰かが記録を写し、誰かが毎週それを送り続けている。
澪は消えたのではない。
少なくとも、誰かは彼女を消し切れていない。
その事実が、救いより先に怒りとして残った。 図書室の照明を落とすと、最後まで白く残った文庫本の印が、暗がりの中で小さな傷のように浮かんで見えた。
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