第1話 月曜の封筒

月曜の朝、町立図書室の窓はまだ潮気を含んだ灰色の光を返していた。硝子の向こうに旧港のクレーンが霞み、その輪郭がぼやけて見えるほどの湿度が、開館前の館内にまで忍び込んでいる。桐谷望は返却棚の前に立ち、昨日の閉館後に積み残された本を、著者名のあいうえお順ではなく、背の高さと厚みで先に大まかに分けてから細かく並べ直していく。これは誰にも頼まれた仕事ではない。ただ、そうしないと一日が始まらないという、彼女だけの儀式に近い手順だった。
指先が本の背をなぞる。革の匂い、糊の匂い、埃と紙が擦れて立つ乾いた匂い。望はその匂いの層を、無意識のうちに分解して読む癖がある。誰の手に何日置かれていたか、湿気の多い部屋にあったか、陽の当たる窓辺にあったか――そういう情報は、口では語られないまま、紙の内側に沈殿していく。
職員用の机に近づいたとき、望はそこに見慣れない茶封筒があるのに気づいた。
差出人の欄は空白だった。宛名も、正確には「町立図書室」としか書かれていない。消印は判が滲んでいて、局名の一部が黒く潰れている。封を塞ぐ糊の線だけが、周囲の紙の古びた色合いから浮き上がるように、不自然な白さを保っていた。
望は封筒を取り上げず、しばらく机の上に置いたまま、指先だけをそっと角に這わせた。
――封の重なり方が、妙だ。
そう思った瞬間、胸の奥に何かが沈む感覚があった。糊の盛り上がりは真新しい。けれど封筒の腹全体は、幾度も手のひらで押されたように、繊維がやわらかくくたびれている。まるで、誰かがこの封筒を何度も開け閉めしながら、最後にもう一度だけ丁寧に糊を引いたかのようだった。
「望さん、それ今日届いたやつ?」
背後から声がかかり、望は顔を上げた。カウンター担当の同僚が、返却された絵本の山を抱えたまま、こちらを覗き込んでいる。
「差出人がないから、また回覧文書の誤配かなと思って」
望はそう答えながら、封筒を静かに引き出しの上に移した。同僚は特に興味を示さず、絵本の山を子供向けコーナーへ運んでいってしまう。望はその後ろ姿が完全に見えなくなるのを待ってから、ようやく封を切った。
中から出てきたのは、罫線も余白もない一枚の紙だった。「蔵書売却リスト」という表題が、薄い墨の色で、いやに端正な字で刷られている。望の目が最初に引かれたのは、その題字そのものではなかった。各項目の脇に、細かな注記が並んでいたのだ。
版元。刷りの版数。蔵書票が貼られている位置――表見返しの右上か、左下か。頁の折れ癖――外側から内側へか、内側から外側へか。書き込みに使われた筆記具の種類と、文字の圧の強さ。挟み込まれていた紙片の種類、切符であれば発着駅と種別まで。
これは印刷された目録ではない。誰かが本を一冊ずつ手に取り、その手触りを確かめながら、書き写した記録だ。望はそう感じた瞬間、背筋のあたりに冷たいものが走るのを覚えた。
紙自体にも違和感があった。表面は新しいはずなのに、繊維の粗さが均一ではない。指の腹で押すと、下に隠れた層があるような、わずかな段差を感じる。市販の紙にはない癖だった。古い帳簿や書類を裁って、裏紙として再利用したときに残る、あの独特の凹凸に似ている。
望は紙を裏返し、光に向けて透かしてみた。すると薄く、別の文字の影が浮いて見えた気がした。だが目を凝らすと、それはただの繊維の乱反射だったのかもしれない。確信は持てなかった。ただ、そういう見え方をする紙自体が、すでに普通ではなかった。
昼休みになると、望は閲覧室の隅の、誰も座らない席に腰を下ろした。リストをもう一度取り出し、司書用の手帳の間に挟み込む。手帳の紙背にじわりと汗が移っていくのが分かった。見慣れた作業のはずなのに、指先だけが落ち着かない。
――なぜ、こんなものが届くのだろう。
望はそう自問しながら、リストの一行一行を目で追う。書名だけを見れば、それはただの古い文学全集や随筆集、忘れられかけた地方出版の随筆だった。だが、そこに付された注記の細やかさが、望の中の何かを揺さぶっていた。
紙は、人の記憶より正直だ。望はいつもそう思っている。証言は歪む。噂は増幅する。だが折れた頁の角度や、鉛筆の圧の強弱は、嘘をつかない。だからこそ、このリストの緻密さが、望には単なる商売の記録ではないように思えた。これはまるで――誰かの暮らしを、頁の裏側から覗き見て、写し取ったもののようだった。
窓の外で、旧港へ向かうトラックの低い音が響いていく。潮の匂いに混じって、どこか焦げたような、湿った木の匂いが一瞬だけ鼻先を過ぎった気がした。望はその匂いの記憶を辿ろうとしたが、思い出せそうな輪郭に届く前に、廊下から利用者の声がして途切れてしまった。
その日の終業後、望は封筒の角を切らずに残していたことに気づいた。捨てればいいだけの紙屑のはずだった。だが指がどうしても、それを屑籠へ運ぶ動きを拒んだ。
彼女は机の引き出しを開け、奥の仕切りに封筒の角をそっと納めた。理由は説明できない。ただ、これは後で見返すための保管ではなく、捨てることそのものができないという、もっと単純で、もっと切実な拒絶だった。
引き出しを閉めるとき、望はふと自分の指先が、姉の澪と同じように、紙の角を撫でていたことに気づく。誰に教わったわけでもない癖だった。けれど、それはずっと昔、月舟堂の棚の間で、澪の背中を追いながら覚えてしまった仕草なのかもしれない。
図書室の照明が落とされ、望は最後に施錠の確認をしながら、もう一度リストの束を胸元に抱えた。紙の匂いが、いつもより近く、いつもより息苦しく感じられた。町の静けさの奥に、まだ形を持たない何かが、確かに息をしているような気がした。
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