8話 井戸の底にある顔

床板を戻さず、そのまま裏手へ回った。

仏間の床下から持ち出した木札を、私は右手に握っていた。表面には祖母の筆跡で「し」とだけ刻まれている。木の冷たさは、握っているうちに体温へ馴染むことがなかった。指先の感覚が薄れ、掌の中央だけが、井戸の底へ引かれているように冷えていた。

夜明け前の庭は、まだ暗かった。

空は東の方からわずかに白み始めているのに、家の裏手には光が届かない。石段の苔は黒く濡れ、草の葉先には細かな水滴が並んでいた。雨は降っていない。風もない。それなのに、湿り気だけが庭全体に沈んでいる。

私は石段を下りた。

一段ごとに、靴底が苔を押し潰す。水分が染み出し、古い土の匂いが立った。家の中から離れるほど、空気は冷たくなるはずだった。だが実際には、井戸へ近づくにつれて、冷気が皮膚の内側から上がってくるようだった。

祖母は毎朝、雨戸と井戸の蓋を確かめていた。

その姿を何度も見てきた。朝食の支度をする前に、まず裏手へ出る。井戸の錠前に触れ、蓋の端を押し、戻ってくる。子どもの私は、それを水道の蛇口を閉めるのと同じ程度の習慣だと思っていた。

祖母は戻ると、必ず手を洗った。

石鹸を泡立て、指の間まで擦り、最後に布巾で水分を拭き取る。私が「何をしているの」と聞いたとき、祖母は答えなかった。ただ、濡れた布巾をきれいに畳み、台所の隅へ掛けた。

あの手順は、掃除ではなかった。

何かに触れた手を、家の中へ持ち込まないためのものだった。

井戸の前に立つと、古い錠前が見えた。金具は赤茶けているのに、鍵穴の周囲だけは磨かれたように黒い。祖母が毎日、同じ鍵を差し込んでいた跡だった。

私は鍵を回した。

錆びた金属が、小さく鳴った。

その音は庭へ広がらなかった。井戸の内側へ落ちて、深いところで一度だけ反響した。

私は手を止めた。

返ってきた音は、金具の音より少し遅かった。

聞き間違いだと思うには、遅れ方が正確すぎた。

木札を握り直し、蓋の取っ手へ手をかける。表面は乾いているように見えたが、触れた瞬間、指の腹へぬめった冷たさが貼りついた。水ではない。夜露でもない。長いあいだ土の中に埋まっていた金属に触れたような、身体の奥へ沈む冷たさだった。

蓋を少しずらす。

底から冷気が上がってきた。

冷たい空気の中に、湿った石と古い鉄の匂いが混じっている。私は懐中電灯を点け、井戸の内側へ向けた。光は途中で弱まり、底へ届かない。水面があるはずの位置は黒く沈み、何も映していなかった。

私はもう少し蓋を開けた。

水面が見えた。

黒い水だった。朝の白みを受けても、底から光を返さない。水の表面には薄い膜が張っているようで、その膜の下で、灰色の粉がゆっくり動いていた。

覗き込む。

最初に見えたのは、仏間だった。

水面の中に、家の内側が映っている。見慣れた障子、経机、仏壇。けれど映像は現在のものではなかった。仏間にはまだ新しい畳が敷かれ、障子紙も白い。仏壇の前に、祖母が座っていた。

背中を丸め、短い鉛筆を持っている。

その向かいに、幼い私が立っていた。

夏の薄い寝間着を着ている。髪は寝癖で跳ね、片方の肩だけが妙に下がっていた。私は何かを聞いているようだった。誰かに呼ばれたのか、誰かを待っているのか分からない。ただ、首を少し傾け、障子の向こうを見ている。

その顔には、まだ恐怖がなかった。

無知な子どもだけが持つ、相手を疑う理由のない表情だった。

幼い私は、障子へ一歩近づいた。

水面の中で、祖母が立ち上がる。

だが映像の動きは、現実より遅れていた。幼い私が一歩進んだあと、祖母が立つ。私の手が障子の桟へ伸びたあと、祖母が走り出す。音はない。けれど、何が起きたのかは分かった。

私はここで、何かに呼ばれた。

そして、返事をしようとした。

水面の幼い私が、ゆっくり振り返った。

顔がこちらを向く。

私と同じ顔だった。

けれど目だけが、私の記憶にないほど濡れていた。

水面の中の幼い私が、口を開く。

声は聞こえなかった。

それでも、何を言おうとしたのかは分かった。

母さん。

私は反射的に井戸の縁を掴んだ。

木が湿っていた。

指が滑り、爪の間へ冷たいものが入り込む。私は息を呑んだ。水面の映像が揺れ、幼い私の顔が水の波に崩れていく。

崩れた顔の奥から、別のものが浮かび上がった。

人の顔ではなかった。

水面の下から、誰かがこちらを見上げている。目鼻の位置は定まらず、濡れた紙を指で押したように、輪郭だけが歪んでいた。顔と呼べる形を保っていないのに、見られていることだけは分かる。

私は蓋から身を引いた。

その瞬間、背後で台所の引き戸が鳴った。

乾いた音だった。

振り返ると、戸口に母が立っていた。

寝巻きの上に薄い羽織を重ね、髪も結んでいない。なのに顔だけは、外出するときのように整っていた。唇の色も、眉の形も乱れていない。感情を顔に出さないために、長い時間をかけて身につけた表情だった。

母は井戸を見た。

水面へではなく、井戸の蓋へ目を向けた。それから、私の手元へ視線を落とした。

右手の木札。

左手の濡れた指。

母の顔から血の気が引いた。

「何を見たの」

声が小さかった。

「子どもの頃の俺が映った」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

母はすぐにこちらへ来なかった。井戸と私の間にある石を避けるように、遠回りして近づいた。足元の草へ触れないように歩いている。祖母が夜の廊下を歩いたときと同じ、音を残さない歩き方だった。

「井戸の縁に触ったのね」

「見れば分かるだろ」

「玲司、手を出して」

「何を見たのか答えてくれ」

「手を出して」

「母さん」

「いいから。濡れているでしょう。家へ戻る前に拭かないといけないの」

母は懐から布を取り出した。白い布だった。端がきちんと折られ、縫い目も揃っている。持ち歩いていたのか、車に置いていたのか分からない。だが、祖母の布巾と同じ匂いがした。洗剤と、古い香と、乾ききらない木の匂い。

私は手を出さなかった。

「祖母も、こうやって拭いていたのか」

「そうよ」

「何を拭いた」

「手。鍵。蓋。濡れたところ。家へ入る前に、触れたものを拭いた」

「どうして説明しなかった」

母は布を握ったまま、井戸を見た。

「説明したら、あなたはここへ来なかった?」

「来たよ」

「そうね。あなたは、説明されなくても来る。だから説明しなかった」

「それは理由になっていない」

「私にとっては理由だったのよ。あなたを守るために、あなたが自分で確かめる人間にならないようにしたかった。見せない。聞かせない。話題を変える。水を流す。戸を閉める。そうやって、あなたの前からこの家を少しずつ遠ざけたつもりだった」

「遠ざけたんじゃない。俺から記憶を取り上げただけだ」

「取り上げたのではないわ」

母はようやく私の方を見た。

「あなたが持っていたら、生きていけないと思ったの」

「それを決めたのは誰だ」

「私よ」

「祖母じゃなくて?」

「しのさんは、何も決めなかった。決める代わりに、毎晩残った。私には残れなかった。あなたを連れて出るしかなかった」

「祖母を置いて?」

「そうよ」

「それで、俺を守ったつもりか」

「つもりじゃない。守ったの」

母の声が初めて強くなった。

「私は、しのさんのようにはなれなかった。夜中に声を聞いても、黙って布巾を取ることも、濁った水を捨てて、朝には何もなかったように味噌汁を作ることもできなかった。あの人は怖がらなかったんじゃない。怖がる時間を、生活の手順で潰していたのよ。私にはそれができなかった。だから逃げた。あなたを連れて、家から離れて、名前を呼ばれても自分の生活が続く場所へ行った」

「それなら、どうして今ここにいる」

「あなたが来たからよ」

「俺が来なければ、戻らなかった?」

「戻らなかった」

「祖母の葬式にも?」

「戻ったわ。あれは昼だったから」

「昼なら大丈夫なのか」

「大丈夫だと思っていたの」

母はそこで言葉を切り、白い布を井戸の縁へ置いた。布が触れた場所から、薄い灰色の染みが広がる。

「でも、あの人が亡くなったあと、家の水が濁った。葬式の朝も、四十九日の朝も。しのさんがいなくなったから、誰かが代わりに戸を閉めなければならない。そう思ったのよ」

「誰が?」

母は答えなかった。

「母さんか」

「違う」

「俺?」

母の目が、初めて揺れた。

「あなたが名前を渡したから」

井戸の底で、水がかすかに動いた。

私は蓋の内側へ目を向けた。先ほど見えた顔は消えている。水面には、黒い空だけが映っていた。けれど、消えたとは思えなかった。見えない場所へ移っただけだ。家のどこかへ、井戸の外へ、こちらの背後へ。

「名前を渡したって、何の話だ」

「日記を読んだ。木札に書かれた名前を見た。ここを覗いた。今も、目を離せずにいる。その一つひとつが、向こうにとっては返事なのよ」

「声を出していない」

「声だけが返事じゃない」

「そんな理屈なら、何をしても返事になる」

「そうよ」

母は布を拾い上げ、私の手を取った。拒む暇を与えない力だった。冷たい布が指の間へ入り、爪の脇まで拭っていく。

「だから、しのさんは何もさせなかった。夜に音がしても、音のした場所へ行かない。濡れた物を見つけても、素手で触らない。名前を呼ばれても、返事をしない。返事をしないというのは、声を出さないことじゃないの。そこへ自分を向けないこと。見ないこと。確かめないこと。気づいていても、生活の方へ戻ることなの」

「それでは、何も知らないままだ」

「知らないままでいられるなら、そのほうがいい」

「俺はもう知りたいんだ」

「知りたいと思うことも、こちらへ顔を向けることよ」

母は私の手を拭き終えると、布を四つに折った。染みのついた面を内側へ隠し、何事もなかったように羽織のポケットへ戻す。

「母さんは、若いころここで返事をしかけたと言ったな」

「言ったわ」

「そのとき、何が見えた」

母は長いあいだ黙っていた。

東の空が少し明るくなった。杉の間から、薄い青色が滲んでいる。鳥の声はまだしない。村全体が起きる前の、誰のものでもない時間だった。

「あなたの声よ」

「俺の?」

「まだ小さかったあなたの声。裏口の外から、母さん、と呼んだ。私は、あなたが外へ出たと思った。だから返事をした。しのさんが手を叩いて止めた。私が戸を開けようとした手を、何度も叩いた。あの人は怒鳴らなかった。ただ、私の手を掴んで、流しへ連れていった。蛇口を開いて、湯を沸かして、布巾を洗った」

「俺は、外にいなかったのか」

「いなかったわ。あなたは町の病院にいた」

「どうして病院に?」

「父親が倒れたから」

母の声が、庭の湿った空気に沈んだ。

「その夜、あなたの父親が病院へ運ばれた。あなたも一緒だった。私はしのさんと家に残っていた。父親はその前から、夜になると手の痺れを訴えていた。最初は疲れだと思っていた。けれど、あの夜から、名前を呼ばれても自分が呼ばれたと分からないことが増えた。家の中にいても、どこか遠くを見るようになった。しのさんは、それを『持っていかれた』と言った」

「何を」

「記憶よ。あるいは、名前。どちらなのか、私には分からない。父親は病院から戻ってこなかった。死んだわけではないわ。けれど、戻ってきても、家族の顔を見ても、しばらく誰の名前も言えなかった。私のことも、あなたのことも」

母は井戸を見なかった。

「しのさんは、その夜から毎日書き始めた。来たものを追い払うためじゃない。持っていかれたものを、これ以上渡さないために。塩や糸や土を差し出し、自分の爪を削り、使い終えた鉛筆を包み、夜ごと一行を書く。『今夜も来た』と書いているあいだだけ、家の中に残っているものを数えられた。私たちの名前がまだここにあると、確認できた」

「祖母は、俺の名前も書いたのか」

「書かなかった」

「どうして」

「書けば、覚えられるから」

「でも、日記には毎日一行だけ書いた」

「名前は書かなかった。あなたの名前を呼ぶときも、しのさんは必ず昼間にした。夜はあなたを呼ばなかった。呼びたくても、呼ばなかった」

その事実が、胸の奥へ遅れて届いた。

祖母は、夜に私の名を呼ばなかった。

子どものころ、夜中に目を覚ましても、祖母は「玲司」と呼ばず、布団の端を二度叩いた。朝になってから、眠れたかと訊いた。私はそれを、祖母の無口さだと思っていた。

違った。

祖母は私の名前を、夜に渡さないようにしていた。

「それなら、どうして俺は何も覚えていない」

「覚えさせないようにしたからよ」

「誰が」

「しのさんが。私も手伝った」

「どうやって」

「朝になると、あなたの前で別の話をした。夢を見たと言えば夢にした。夜中の声を聞いたと言えば、風だと言った。井戸を覗いたことを忘れさせ、障子の向こうに立っていたものを、見なかったことにした。あなたが何かを思い出そうとするたび、私は話題を変えた。あなたを守るために、あなたの記憶を薄くした」

「守るためなら、嘘をついてもいいと思ったのか」

「思ったのよ」

母は私の手を離した。

「そのときは、そう思った。でも、嘘は消えない。消えたふりをして、家族の中に残る。あなたは何も知らずに育った。私はあなたを守ったと思いながら、あなたの中に空白を作った。空白は、後から何でも入れられる。恐怖も、疑いも、他人の声も」

井戸の底で、水が一度だけ揺れた。

水面に、幼い私の姿が浮かんだ。

今度は仏間ではなかった。井戸の縁に立つ私を、少し離れた場所から見ている。顔は見えない。けれど服装も背丈も、私が覚えている自分と同じだった。

幼い私は、こちらを見上げている。

その背後に、何かが立っていた。

顔はない。

ただ、子どもの肩へ濡れた手を置いている。

私は息を止めた。

水面の中の幼い私が、ゆっくり振り向いた。

背後のものへではない。

こちらへ。

その口が動く。

今度は声が聞こえた。

「玲司」

母の声だった。

私は喉を閉じた。

母は隣にいる。今、声を出していない。なのに水面の中から、母の声が私の名を呼んだ。

もう一度。

「玲司」

母の指が、私の腕に食い込んだ。

「見ないで」

母はそう言ったが、声は水面の声と同じだった。

私は母の顔を見た。

母の唇は閉じている。

それなのに、声だけが井戸から続いた。

「玲司。こっちへ来て」

木札を握る手に力が入った。木の角が掌へ食い込む。返事をするつもりはなかった。近づくつもりもなかった。ただ、声の正体を確かめたかった。

水面の中で、幼い私が手を伸ばした。

井戸の底から、細い指が水面を押し上げる。

水が盛り上がった。

母が私を引いた。

「離れて!」

私たちは同時に後ろへ下がった。井戸の蓋が、ひとりでに動いた。開いたままの隙間が、ゆっくり狭くなる。誰かが内側から蓋を引いているようだった。

母は私の腕を掴み、石段へ向かった。

「走らないで」

「走ったほうがいいだろ」

「走ると、音が残る」

「そんなこと言っている場合か」

「音を残したら、家までついてくる!」

母の声が庭に響いた。

すぐに、別の場所から同じ声が返ってきた。

「家までついてくる」

母は足を止めた。

返ってきた声は、母の声だった。

だが、私の隣にいる母は何も言っていない。母の顔が強張り、唇を噛む。返事をしないために、歯を食いしばっているように見えた。

私は石段の途中で振り返った。

井戸の蓋は閉じていた。

錠前も掛かっている。

なのに、蓋の上に濡れた手形がひとつ残っていた。大人のものではない。幼い子どもの手ほどの大きさだった。

五本の指が、蓋の端からこちらへ伸びている。

私は木札へ目を落とした。

祖母の「し」という文字が、濡れた木の中で薄く崩れていた。崩れた墨は、線になって掌へ滲み、私の皮膚の上に別の文字を作ろうとしている。

玲。

そこまで浮かんだところで、母が私の手を強く握った。

「閉じて」

「何を」

「手を。見ないで。読むな」

「俺の名前が出ている」

「だから、読んではいけないの」

「もう読んだ」

「読んだことにしないで!」

母の声が震えた。

「玲司、お願いだから。あなたが覚えたら、向こうもあなたを覚える。あなたが自分の名前をここで確かめたら、その名前は家の中に残る。残った名前は、夜に呼ばれる。しのさんは、それを十年かけて防いだの。あなたの名前を、ここへ置かないために」

「祖母は死んだ」

「だから今、あなたが代わりになろうとしているのよ」

その言葉に、私は握っていた木札を落とした。

木札は石段を転がり、井戸の方へ戻っていった。途中で一度跳ね、濡れた地面の上に伏せる。

表面の「し」が見えた。

次の瞬間、木札の上に水滴が落ちた。

水滴は一つではなかった。井戸の方角から、見えない雨のように、木札へ次々と落ちてくる。周囲の地面は乾いているのに、木札だけが濡れていく。

母が私を石段の上へ引き上げた。

「家へ戻る。声がしても、振り返らないで」

「木札を置いていけない」

「置いていくの」

「祖母が持っていけと言った」

「しのさんは、あなたに渡したんじゃない。私に持たせたのよ」

「同じだろ」

「違う」

母は私の前へ回り、両肩を掴んだ。

「あなたが持つと、あなたのものになる。私が持てば、私のものとしてまだ耐えられる。ずっとそうしてきたの。あなたの熱も、記憶も、恐怖も、家の話も、全部私のところで止めた。止めたつもりだった。でも、止めるだけでは何もなくならない。いずれ溢れて、次の人へ流れる。あなたはもう、その水の中へ足を入れてしまった」

「なら、俺はどうすればいい」

「何もしないで」

「できない」

「できないから、お願いしているのよ。あなたは事実を知りたい。祖母が何を見ていたのか、何を失ったのか、どうして黙っていたのか、全部確かめたい。でも、確かめることが、誰かを救うとは限らない。知ったことで、知らなくてよかったものまで自分の中へ入れることがある。私が逃げたのは、弱かったからだけじゃない。あなたを連れて、ここから離すためだった。しのさんを見捨てた罪を抱えてでも、あなたの名前を家から持ち出すためだったの」

母の目に、初めて涙が浮かんだ。

けれど落ちなかった。

「私は、あなたを守ったと思いたかった。今も思いたい。でも、あなたがここへ戻ってきたことで、私の嘘も、しのさんの沈黙も、全部ひとつの場所へ集まってしまった。もう、なかったことにはできない。だからせめて、これ以上返事をしないで。私の声が聞こえても、あなたの声が聞こえても、祖母の声が聞こえても。誰の声か確かめようとしないで。確かめた瞬間、それはあなたの知っている声になる」

私は母の顔を見つめた。

「母さんの声でも?」

「私の声でも」

「母さんが本当に呼んでいても?」

「そのときは、昼間に呼ぶわ」

母はそう言って、私の肩から手を離した。

庭の奥で、何かが軋んだ。

井戸の蓋が閉じた音ではない。

家の中の、仏間の襖が動いた音だった。

夜は明けようとしている。東の空は明るくなっているのに、家の中にはまだ暗がりが残っている。その暗がりが、裏口から庭へ細く流れ出してきた。

私は振り返りそうになった。

母が手を伸ばし、私の視界を塞いだ。

「見ないで」

手のひらから、石鹸と布の匂いがした。母の手は震えていた。それでも私の目を覆い、家の方角から引き離そうとしている。

その背後で、祖母の声がした。

「玲司」

母の手が強くなる。

声は、祖母が生きていたころと同じだった。低く、穏やかで、急かすことのない声。昼間に私を呼ぶときの声。台所から、湯が沸いたと知らせるときの声。

私は返事をしなかった。

声はもう一度、私の名を呼んだ。

今度は、私自身の声だった。

幼い私の声でも、今の私の声でもない。二つが重なり、濡れた木の隙間から押し出されるような声だった。

母が私を家へ向かって引いた。

私は足を動かした。

一歩。

もう一歩。

石段を上がるたび、背後の声が遠くなる。けれど、遠ざかっているのではなかった。私の中へ移ってきている。耳で聞こえる距離から、胸の奥で鳴る距離へ。

玄関の前で、私は一度だけ木札の方を見た。

井戸のそばに、木札はなかった。

濡れた地面に、祖母の「し」だけが残っている。

木札そのものが消えたのか、濡れた跡に沈んだのか、私には分からなかった。

家へ入ると、仏間の襖が少し開いていた。

昨夜、閉めたはずだった。経机の引き出しも、床下の板も、戻していない。薄暗い仏間の奥から、古い香の匂いが流れている。

母は私を台所へ押し込み、蛇口をひねった。

水音が家の中へ広がった。

私は濡れた手を見た。母が拭いたはずの指先に、黒い線が残っている。線は一本ではなかった。祖母の日記の文字に似た角度で、ゆっくりと形を変えている。

玲。

私は手を握り込んだ。

それ以上、読まないために。

蛇口から流れる水が、透明から灰色へ変わった。排水口へ落ちる水の中で、細かな土の粒が渦を巻いている。

母はそれを見て、蛇口を閉めなかった。

明るくなった庭の向こうで、井戸の蓋がひとつ、内側から叩かれた。

二度。

間を置いて、もう一度。

私は日記の入った鞄へ手を伸ばした。

母が私の手首を掴む。

「まだ、夜じゃない」

「分かってる」

「なら、どうして」

私は答えられなかった。

日記の最後の頁を、確かめたくなっていた。

昨夜の一行の下に、何が書かれているのか。

祖母の筆跡なのか。

私の筆跡なのか。

それとも、まだ誰のものでもない空白なのか。

確かめたいという気持ちは、恐怖よりも強かった。

私は鞄の留め具へ指をかけた。

そのとき、仏間の奥から、紙をめくる音がした。

一枚。

もう一枚。

母が私の手を離す。

家の中に、朝の光が差し込んでくる。

けれど日記の最後の頁だけは、夜の底に置かれたままだった。

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井戸の底にある顔 - 井戸の返事 - 誰でも作家life