9話 村上三郎の言い残し

井戸から家へ戻ってからの数時間、私は仏間の畳に座り込んだまま、日記にも木札にも触れずにいた。触れないでいることが、これほど疲れるものだとは思わなかった。手を伸ばせばすぐそこにあるものを、伸ばさずにいる。その緊張だけで、肩の奥が鈍く痛んだ。

母は台所から出てこなかった。蛇口の水音が途切れず続いている。止めれば何かが起きる、というよりは、水音を続けることで自分の輪郭を保っているように見えた。

昼過ぎ、玄関の戸が控えめに叩かれた。

私が土間へ出ると、そこに村上三郎が立っていた。今日も靴を脱がず、上がろうとしない。ただ、いつもより深く、家の奥へ視線を這わせている。目は畳の縁の高さで止まり、それより上へは上がらなかった。

「茶でも、いかがですか」

「いや、すぐ帰る」

そう言いながらも、村上は框に浅く腰を下ろした。私は茶を出した。湯気が立つのを、村上はじっと見ていた。飲むためではなく、湯気が消えるのを待つために見ているようだった。何度か咳払いをしてから、ようやく口を開く。

「久世家では、昔から、夜半の呼びかけに返事をしてはいけない」

そこで止まった。続きを促すつもりで黙っていると、村上は額の汗を指の背で拭い、視線を庭の方へ逃がした。

「今日は、雨が近いな。井戸端の草が、もう倒れてきとる。冬支度も早めにせんと」

「村上さん」

「何だ」

「何に対する返事をしてはいけないんですか」

村上の喉が、小さく動いた。答えの形をした空気が、いったん喉の奥まで上がって、また下へ戻っていくのが分かった。

「そういうことを訊くもんじゃない」

「訊かなきゃ、分からないままです」

「分からないままでいいことも、この世にはあるんだ」

「祖母は十年、分かったままで生きていました」

その言葉に、村上は初めて私の顔をまっすぐ見た。八十年近く山里の湿った空気を吸ってきた目が、少しだけ濁って見えた。

私は懐から木札を取り出し、卓の上に置いた。床下から拾い上げた、あの「し」の一字が刻まれた札だった。井戸端で消えたものとは別に、まだ数枚が私の手元に残っている。

村上の顔から、血の気が引いた。だが手は伸ばさなかった。伸ばせば触れてしまう。触れれば、何かが確定する。そういう恐れが、老いた指先にはっきりと表れていた。

「これが、何か知っていますね」

「知っとる、と言えば、あんたは楽になるかもしれん」

村上は札を見たまま、低い声で言った。

「だが、俺が知っとることを口にした瞬間、それはもう、俺だけが知っとる話じゃなくなる。ここにあるあんたにも、乗ってしまう。俺はそれが、怖い」

柱時計の秒針が、湿った部屋の空気を細かく刻んでいた。母は台所から出てこなかったが、水音がいつのまにか止まっていることに、私は気づいていた。話を聞いている。聞いていないふりをしながら。

村上は長い沈黙のあと、ようやく続きを口にした。

「十年前、この家で、一度だけ返事があった」

「誰が返したんですか」

「言わん」

「何が入ってきたんですか」

「それも言わん」

「なぜ、そこまで言葉を惜しむんですか」

村上の目が、初めて怒りに近い色を帯びた。だがそれは私に向けられたものではなかった。もっと古い、自分自身に向けられた怒りのように見えた。

「言葉を惜しんどるんじゃない。言葉を、削っとるんだ。あんたには分からんだろうが、この家のことは、口にした分だけ、こっちの側から向こうの側へ、橋が架かる。橋が架かれば、渡ってくるものがある。だから俺たちは、何十年も、削って、削って、生きてきたんだ。伝わらなくても、伝わりすぎるよりは、まだましだと思って」

「それでも、その夜から呼び返される場所ができたんですね」

村上は頷きも否定もしなかった。ただ、湯呑みの中の茶を見つめ、湯気がもう立っていないことを確かめてから、ぽつりと言った。

「その場所は、井戸でも仏間でもない。家の中の、どこにでも移る。人が声を返した、その瞬間に、こっちからは見えん引き戸が、どこかで、すっと開くんだ。開いた戸は、簡単には閉まらん。しのさんは、それを閉じ続けることに、残りの人生を使った」

「毎晩、同じ手順で」

「そうだ。木札を置く。塩を包む。日記に一行書く。それだけのことを、休まず、崩さず、十年」

「その手順を、誰も引き継いでいない」

村上の視線が、私の背後、仏間の襖の方へ動いた。私は振り返らなかった。振り返れば、何かが確定してしまう気がした。

「引き継がせんために、しのさんは十年、頑張っとった。あんたが今、その頑張りを、逆に辿ってしまっとる」

「祖母は、なぜ最初の夜に、返事があったことを誰にも言わなかったんですか」

「言えば、それが本当にあると認めることになる。あんたは記録に頼る人間だから分からんかもしれんが、この家では、言葉にすることそのものが、返事になる。しのさんはそれを知っとったから、誰にも説明せず、家族にも見せず、ただ手を動かし続けた」

「黙ることで、戦っていた」

「そうだ」

村上はそこで、大きく息を吐いた。長い間、胸の底に溜めていた空気を、ようやく外へ出すような吐き方だった。

「あんたの婆さんは、強かった人間じゃない。強く見えるように、崩さんかっただけだ。怖くても布巾を取る。聞こえても湯を沸かす。何かが増えても、引き出しの中で順番に並べる。それを十年続けられる人間なんて、そうそういるもんじゃない」

私は木札を握った。冷たさは変わらなかった。

「村上さんは、返事をしかけたことがあると言っていましたね。若い頃に」

村上の顔が、初めて年齢よりも老けて見えた。

「一度だけだ。井戸のそばで、名前を呼ばれた。誰の声かは、今でも分からん。分かりたくもない。その時、たまたま隣にしのさんの、まだ若かった頃の姿がおって、俺の口を、手のひらで塞いだ。それだけのことで、俺は今もこうして生きとる」

「祖母は、あなたのことも守ったんですか」

「守った、というより、閉じたんだ。俺の口を。そういう人間だったよ、あの人は」

村上は湯呑みに手を伸ばし、冷めた茶をひと口だけ飲んだ。それから、ゆっくりと框から立ち上がった。

「もう帰る。長居は、しない方がいい」

「まだ、聞きたいことがあります」

「聞いても、俺はこれ以上言わん。言えば、俺の口からも、橋が架かる」

土間で靴を履き直しながら、村上は懐から小さな紙片を取り出した。折り目のついた、古い紙だった。それを卓の端に置き、振り返らずに戸口へ向かう。

「これだけ、渡しておく。読んで、どうするかは、あんたが決めろ」

戸が開き、午前の名残の白い光が土間へ差し込んだ。縁側の影が短く、真昼に近い時間だと分かる。村上の背中は、その光の中で妙に薄く見えた。

「家のことは」

戸口で、村上は最後にそれだけ言った。

「家の中で、腐らせるしかない」

振り返らないまま、彼は坂道を下っていった。杖もつかず、しかし足取りは重い。知っている者の余裕ではなく、言い切らなかった者の疲れが、その背中の丸みに沈んでいた。

戸が閉まったあと、私は紙片を開いた。書かれていたのは、日付だけだった。

十年前の九月二十一日。

日記の最初の頁、祖母が初めて「今夜も来た」と書いた、あの夜と同じ日付だった。

台所の方で、水音がまた小さく始まった。母が、いつからそこに立っていたのか、私には分からなかった。

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