6話 濁る朝

眠りは浅く、途切れがちだった。

枕元に置いた腕時計を何度も確かめた。午前二時十七分。その数字を見るたびに、私は布団の中で身を固くした。母の言葉が耳の奥で繰り返される。数字を残すと、次はその時刻に来る。だが、来るのを待つことと、来ることを知らずにいることの、どちらが恐ろしいのか、私にはもう判別がつかなくなっていた。

結局、朝の光が障子を白く染める頃まで、私はほとんど眠れなかった。

起き上がると、まず家の中を一巡することが、いつのまにか私の日課になっていた。片付けのための巡回ではない。異変を探すための巡回だ。祖母がかつて夜ごと繰り返していた行為の、昼版のようなものだと自分でも分かっていた。

雨戸の桟に指を這わせる。木の内側に、まだ乾ききらない湿りが残っていた。昨夜は雨が降っていない。空気も乾いていたはずだ。それなのに、木の繊維は水を吸ったように重い。

座敷の畳へ目を落とすと、畳の目に沿って小さな水滴が並んでいた。数えると七つ。昨日は五つだった。増えている。私はメモ帳を取り出し、日付と数を書き込んだ。九月十五日、水滴七。書きながら、これが何かの検査記録のように見えてくることに、自分でも薄気味悪さを覚えた。

台所の床板は、踏むたびにわずかに沈む場所があった。祖母が生きていた頃には気づかなかった沈みだ。屈み込んで鼻を近づけると、木材から鉄の匂いが立ちのぼる。錆びた鎌の匂いに似ていた。指先で触れると、木は湿っているのに、表面は乾いて見える。触れて初めて分かる湿りだった。

私はそれらの発見を、日記の日付と重ねる作業を続けていた。畳の水滴が増えた日は、たいてい日記の筆圧が深い。雨戸の湿りが強い朝は、頁の端が波打っている。台所の鉄の匂いが濃い日は、次の頁の「今夜も来た」の「た」の払いが、心なしか長く伸びていた。

祖母は、毎晩同じ手順で境界を引き直していたのではないか。私はそう考えるようになっていた。日記は記録ではない。境界線を引き直すたびに、その線がどこまで持ちこたえたかを確かめる、点検の跡だ。

その日の午後、私は裏手の井戸へ向かった。

石段は昼間でも冷たく湿っていて、苔の匂いが強かった。井戸の錠前に手をかける。金具は錆びついているのに、動きだけは滑らかだった。まるで頻繁に開け閉めされてきたもののように。

蓋を少しずらすと、桶の中の水が見えた。

濁っていた。

前夜、雨は降っていない。天気予報も晴れだった。庭の土も乾いている。それなのに、桶の底から灰色の澱が立ちのぼり、水全体を薄く曇らせていた。私は柄杓を取り、水面をそっと掬った。

鼻を近づけた瞬間、思わず顔をしかめた。

湿った土の匂いの奥に、古い金属が錆びるときの、あの独特な気配が混じっている。血の匂いとまでは言わない。だが、それに近い何かが、水の底に沈んでいるようだった。

柄杓を桶へ戻し、私は井戸の奥をもう少し覗き込もうとした。

その瞬間、背後で台所の戸が小さく鳴った。

振り返る。

誰もいなかった。

庭には私しかいない。母は町へ買い出しに出かけていて、家には私ひとりのはずだった。風もない。木々の葉も動いていない。それなのに、戸は確かに鳴った。木の枠に何かがぶつかったような、乾いた小さな音だった。

私は井戸の縁に手を置いたまま、しばらく動けなかった。

視線を足元に落とすと、砂利の上に濡れた石がひとつだけあった。

周囲の砂利はどれも乾いている。朝から晴れていて、庭全体が乾いた匂いを立てているのに、その一つだけが、まるで今しがた水中から引き上げられたばかりのように、黒く濡れていた。

私はしゃがみ込み、その小石を拾い上げた。

冷たかった。

夏の終わりの陽射しの下にあったはずなのに、指先から体温を奪っていくような冷たさだった。表面を親指の腹で擦ると、湿り気は消えず、むしろ指の側に移ったように、私の指先がひどく冷えていった。

小石には、模様のような凹凸があった。目を凝らすと、それは自然にできた石の割れ目ではなく、何か細い道具で刻まれた線のように見えた。

一本。

もう一本。

三本目の線を目で追おうとした瞬間、線同士が繋がって、文字のような形になった。

「し」

祖母の名前の頭文字だった。

私は小石を握りしめたまま、井戸の方を見た。

水面は先ほどより濃く濁っている気がした。灰色だったものが、今は薄墨のような色を帯びていた。柄杓を通して水を掬っただけなのに、まるで私が触れたことで、水そのものが応答したかのようだった。

母がいつも言っていたことを思い出す。触れたことを消すためではなく、触れたものを家の中へ持ち込まないために、祖母は必ず洗った。

私はその意味を、今になってようやく理解しかけていた。触れることそのものが、返事になる。名前をつけることが、呼びかけに応えることになる。ならば、この小石を拾い上げた時点で、私はもう何かに返事をしてしまったのではないか。

握りしめた掌の中で、小石はますます冷たくなっていった。

凍えるような冷たさに耐えかね、私は思わず手を開いた。小石は砂利の上に落ち、乾いた音を立てて転がった。

落ちた場所を見て、私は息を呑んだ。

周囲の砂利が、石の落ちた場所を中心に、輪を描くようにわずかに濡れていた。まるで小石が水面に落ちたかのように、乾いた地面へ波紋の跡だけが広がっている。

私はその場から動けなかった。

どれくらい時間が経ったのか分からない。気づけば、母の車の音が坂道の下から聞こえてきていた。私は慌てて井戸の蓋を戻し、錠前を掛けた。金具が噛み合う音は、いつもより重く響いた。

台所へ戻ると、水道の蛇口から水を出し、両手を洗った。透明な水が指の間を流れていく。石鹸をつけて何度も擦っても、掌の芯に残った冷たさは消えなかった。

母が玄関から入ってきた。買い物袋を提げたまま、私の顔を見て、すぐに何かに気づいた様子だった。

「井戸に行ったのね」

「水を見ただけだ」

「見ただけで、その顔になるの」

母は袋を上がり框に置き、こちらへ近づいてきた。私の手を取り、掌を上に向けさせる。じっと見つめたあと、母は小さく息を吐いた。

「触った?」

「石を、少しだけ」

「捨てた?」

「落とした」

「拾わなかった?」

「拾わなかった」

母はそれを聞いて、初めてわずかに肩の力を抜いた。だが安堵にはほど遠い表情だった。

「しのさんも、同じことをしていたわ」

「石を拾うことを?」

「拾わないことを、よ」

母は台所の椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。

「濡れた石や、乾いた場所に落ちている湿った物を見つけると、しのさんは絶対に素手では触らなかった。布を巻いて、井戸へ戻すか、燃やすか、どちらかにしていた。理由は聞いていない。ただ、触れたものを家の中へ入れてはいけないというのだけは、口を酸っぱくして言われた」

「なぜ、俺には教えなかった」

「教えたら、あなたは実験するでしょう。触ったらどうなるか、拾ったらどうなるか、確かめようとするでしょう」

私は何も言い返せなかった。母の言う通りだった。もし今朝、母がいなかったら、私はきっとあの石をポケットに入れて、家の中で観察していたはずだ。日記と同じように、日付をつけ、変化を記録し、答えを探そうとしていたはずだ。

「母さんは、なぜ祖母のやり方をそこまで覚えているんだ。教わっていないと言ったのに」

母はしばらく黙っていた。買い物袋の中から野菜を取り出し、手を動かしながら、ようやく口を開いた。

「教わったんじゃない。見て、真似して、体に入ってしまっただけ。人間は、そういうふうに覚えることがあるの。理由を知らないまま、動作だけを覚えてしまう。それが一番怖いことだと、今なら分かる」

「怖いことだと分かっていて、俺にも同じことを望むのか」

「望んでいないわ」

母は野菜を洗う手を止め、私を見た。

「望んでいない。でも、あなたはもう、しのさんの手つきを真似し始めている。物の位置を揃える。日付を記録する。触れたものを洗う。教えていないのに、あなたの中にすでにあるの。血が繋がっているというのは、そういうことなのかもしれない」

その言葉に、私は自分の掌を見た。冷たさはまだ残っていた。祖母の几帳面さを、私はずっと性格の問題だと思っていた。だが、それは性格ではなく、十年かけて体に刻み込まれた、生き延びるための作法だったのかもしれない。そして今、その作法が、教えられもしないのに私の中で息を吹き返している。

夕方近く、私はもう一度井戸へ向かった。母は止めなかった。ただ、玄関先に立って、私の背中を見送っていた。

井戸の水は、昼間よりもさらに濃く濁っていた。柄杓で掬うことはしなかった。ただ蓋の隙間から覗き込み、水面に映る自分の輪郭を確かめる。

輪郭は、思ったよりも歪んでいた。

風のない夕暮れの中で、水面だけがかすかに揺れている。私はしばらくそれを見つめ、蓋を静かに戻した。

台所へ戻ると、母が夕食の支度をしていた。湯呑みを二つ並べる手つきは、昨日と変わらず、私の分だけ縁ぎりぎりまで注がれている。

「母さん」

「何」

「祖母は、この石にも名前をつけていたのか」

母の手が止まった。

「何の話」

「『し』という文字が、石に刻まれていた」

母は振り返らなかった。ただ、湯呑みを持つ指先が、わずかに白くなった。

「しのさんの名前の頭文字よ」

「なぜ、自分の名前を石に刻む」

「刻んだんじゃない。刻まれたのよ」

母の声は低く、静かだった。

「あの人は、名指しされることを何より恐れていた。でも、十年のあいだに、何度か名指しされたことがあったんだと思う。そのたびに、その痕跡が、こういう形で残った。木札に途中まで書かれた名前も、この石の文字も、しのさんが望んで残したものじゃない。向こうが、しのさんの名前を覚えようとした跡なの」

私は掌に残る冷たさを、もう一度確かめた。

「俺の名前も、木札に途中まで書かれていた」

「知ってる」

「なら、俺も名指しされかけているということか」

母は湯呑みを卓へ置き、初めて私の方を向いた。

「されかけているんじゃない」

その声には、諦めに近い響きがあった。

「あなたが、ここに来た時点で、もう名前を渡し始めているの。日記を読んだこと。井戸を覗いたこと。石を拾ったこと。ひとつひとつが、向こうにとっては、あなたの名前を覚えるための手がかりになる。しのさんが十年かけて守ったのは、あなたに名前を覚えられさせないことだった。でも、もう遅いのかもしれない」

窓の外では、日が沈みかけていた。橙色の光が土間まで届き、長い影を作っている。私はその影の中に、井戸の方角へ伸びる一筋の暗がりを見た気がした。

台所の隅で、水道の蛇口から一滴、また一滴と、水が滴り落ちていた。誰も蛇口を開けていないのに。

母はそれに気づいていた。だが、止めには行かなかった。ただ静かに、湯呑みの位置を、私の前へ、ほんの少しだけ押し戻した。

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