5話 経机の引き出し

日記の紙面に走った細い線は、文字にならないまま止まった。

私は鉛筆を置き、しばらく手を引かなかった。母の指が手首に絡んでいる。冷たいというより、長いあいだ水に浸していた布のような感触だった。

仏間の襖は閉じている。けれど、向こう側に何かがいる気配だけが消えない。襖紙の白さに、部屋の湿り気が薄く染みている。古い香の匂いも、朝からずっと残っていた。火を焚いていないのに、灰の底でまだ何かが燻っているようだった。

「その手を離して」

私は言った。

「離したら、あなたはまた触るでしょう」

「触るかどうかは俺が決める」

「決められないわ。もう決める段階を越えているもの」

「何を根拠に言ってる」

「根拠なんてない」

母は私の手首を見たまま答えた。

「根拠がないから、昔からみんな黙ってきたのよ。根拠があれば、役場へ相談できる。井戸を埋めることも、家を取り壊すこともできる。水質検査をして、床下を調べて、原因をひとつずつ潰せる。でも、久世家で起きることは、調べようとすると調べる人のほうへ寄ってくる。寄ってきたものを、証拠とは呼べないでしょう」

「証拠にできなくても、残すことはできる」

「残したものが、あなたの名前を覚えてしまっても?」

母の手が緩んだ。

私は返事をしなかった。机の上の日記へ目を向ける。最後の頁の中央に走った線は、よく見ると一本ではなかった。紙の繊維が押し潰され、細い溝になっている。筆記具で引いた跡ではなく、爪か、硬い何かが内側から紙を押した跡に似ていた。

私は日記を閉じ、経机へ向かった。

仏壇の前に置かれた古い経机は、黒ずんだ木の表面を何度も拭かれていた。祖母は仏壇を磨くとき、経机の脚まで布を回した。見えないところを汚れたままにしておくと、そこから家全体が崩れる、と子どもの私に言ったことがある。

当時の私は、掃除の話だと思っていた。

引き出しへ手をかける。

昨日までは、何も入っていなかった。少なくとも、私の記憶ではそうだった。

取っ手は冷たく、木の中まで湿っているようだった。引いても動かない。力を込めると、奥で継ぎ目が軋んだ。引き出しの底から、誰かが指の背で叩いたような音がした。

「開けるの?」

母が背後で言った。

「開けるために触っている」

「しのさんなら、開ける前に手を洗ったわ」

「俺は祖母じゃない」

「だから、やめて」

「祖母じゃないから、見ないふりはできない」

私はもう一度、取っ手を引いた。

引き出しが、湿った息を吐くように開いた。

中には木札が並んでいた。

小指ほどの長さのものから、親指の第一関節ほどのものまで、大きさは揃っていない。だが、置かれ方だけは揃っている。三枚ずつ間隔を空けて並び、その隙間に紙包みが挟まれている。紙はどれも茶色く変色し、土の粒が付着していた。

「昨日、こんなものはなかった」

「昨日は、そこを最後まで開けていないでしょう」

「見た。空だった」

「空だったと思ったのよ」

母の言葉が、引き出しの底へ落ちた。

私は木札を一枚取り出した。表面は乾いているのに、指先へ触れた部分だけがすぐに湿った。木の内部から冷気が滲み、爪の間へ入り込んでくる。

札の端に、墨の跡があった。

誰かの名前を書きかけて、途中で筆を止めたような線だった。最初の一画だけが濃く、次の線は薄い。人の名なのか、別の文字なのかも分からない。けれどその曲がり方が、祖母の日記の「今夜も来た」の最後の払いに似ていた。

私は木札を灯りへかざした。

裏側に、細い傷が幾本も走っている。数えようとすると、目が滑った。三本に見えたものが四本になり、四本が一つの濡れた筋へつながる。

「置いて」

母が言った。

「何の札だ」

「知らない」

「その答えはもう聞き飽きた」

「知らないものを、知っているふりはできないでしょう」

「母さんは、知っていることまで知らないと言っている」

母は台所へ戻り、卓上に残っていた湯呑みを一つずつ並べ直した。右へ寄せ、左へ戻し、縁の向きを揃える。手つきは落ち着いているが、湯呑みを置くたび、底が卓上へ触れる音がわずかに震えていた。

「俺が小さいころから、祖母はこれをやっていたのか」

「木札を置くこと?」

「そうだ」

「ずっとじゃない」

「いつから」

母は答えず、湯呑みの底を布巾で拭いた。すでに乾いているのに、同じ場所を何度も擦る。

「十年前から?」

「……そうね」

「最初の夜から?」

「最初の夜のあとから」

「何があった夜なんだ」

「あなた、日記を読んだでしょう」

「一行しか書いてない」

「一行で足りる夜もあるのよ」

「足りるわけがない」

私の声が仏間へ響いた。

すぐに、襖の向こうで何かが軋んだ。

母の手が止まった。

家の中から返ってきた音は、家鳴りにしては遅かった。木が自然に縮む音ではなく、こちらの声を聞いてから、向こうが姿勢を変えたような音だった。

私は襖へ顔を向けた。

「今のを聞いただろ」

「聞いていない」

「嘘をつくな」

「嘘じゃないわ。聞いたとしても、聞いたことにしないの」

「それが嘘だ」

「そうよ」

母は湯呑みを置き、こちらを見た。

「嘘をついている。あなたに対しても、自分に対しても。でもね、嘘というのは、何でも悪いわけじゃないの。あなたが小さいころ、夜中に泣いたことがあったでしょう。熱もないのに、布団の中で誰かが来ると言って泣いた。私はあなたを抱いて、夢を見たのだと言った。祖母は何も言わず、裏口へ行って、井戸の蓋を確かめた。あのとき私は、あなたに本当のことを言えばよかったと思う?」

「言うべきだった」

「本当のことを言って、何ができたの」

「少なくとも、何も知らずに育たずに済んだ」

「知ったら、あなたは夜を怖がるようになった。夜を怖がれば、ひとりで眠れなくなる。眠れなければ、聞こえなくていいものまで聞く。聞いたものを確かめたくなる。確かめれば、家から出られなくなる。私はそこまで見えていたのよ」

「そこまで見えていたのに、俺をこの家へ置いていったのか」

「置いていったんじゃない。あなたを置いていかないために、町へ連れて出たの」

「同じだろ」

「違うわ」

母の声は低く、しかし途切れなかった。

「違うと言い続けないと、私はあなたを連れて出た自分を許せない。しのさんを残した自分を許せない。どちらも私がしたことなのに、片方だけを正しいことにしてしまったら、もう片方が消えるでしょう。消えたことにしたものは、いつか別の形で戻ってくる。だから私は、あなたに普通の生活をさせたかった。朝起きて、学校へ行って、友達と遊んで、何もない夜に眠る。そういう日々が本当にあると、あなたに思ってほしかった」

「普通の生活を守るためなら、家族の記憶を削ってもいいのか」

「削らないと守れない記憶もあるのよ」

母は視線を落とした。

「しのさんは、覚えていた。私が出ていったことも、あなたが何も知らないことも、全部覚えていた。だから、あの人は毎晩書いた。忘れないためではなく、忘れたことにするために。『今夜も来た』と書けば、来たものは一行の中に収まる。家の中へ広がらず、名前にもならず、あなたのところまで届かない。あの人にできることは、それだけだったのよ」

母の言葉が途切れた。

どこかで水滴が落ちた。

一滴。

引き出しの中からだった。

私は経机へ戻り、紙包みを一つ手に取った。結び目は祖母がいつも使っていた形だった。二重にしてあるのに、指をかけると簡単にほどける。固く縛るのではなく、ほどく人間の動きを先に決めておく結び方だ。

包みを開く。

中には塩がこびりついた細い糸と、乾いた土が入っていた。糸は髪の毛に見えたが、指でつまむと弾力がなく、濡れた紙の繊維のように崩れた。土は黒く、匂いがなかった。庭の土とも井戸の縁の土とも違う。鼻を近づけても、何も感じない。ただ、掌へ載せていると、手のひらの中心だけが冷えていった。

「それは、何に使う」

「知らない」

「母さん」

「本当に知らないの。しのさんは、置けと言っただけ。夜に水が濁ったら、これを包む。雨戸が鳴ったら、木札を一枚、経机へ入れる。声が近いときは、決して名前を呼ばない。私はそれだけを覚えている」

「祖母から教わったのか」

「教わったんじゃない。見ていただけよ」

「見ていたなら、なぜ一緒にやらなかった」

「やろうとしたわよ」

母は初めて、湯呑みから手を離した。

「十年前の最初の夜から、何日かは手伝った。しのさんが水を捨てているあいだに、私は雨戸を見た。しのさんが木札を置いているあいだに、私は仏壇の香を替えた。役割を決めれば、怖くなくなると思ったの。ふたりなら続けられると思った。でも、ある夜、裏口の外から私の名前を呼ぶ声がした」

私は黙って聞いた。

「声は、あなたの声だった」

母の指が、卓上を探るように動いた。

「まだ子どもだったあなたが、外にいるはずのない時間に、裏口の向こうから『母さん』と呼んだ。私は返事をしそうになった。返事をして、戸を開けようとした。そのとき、しのさんが私の手を叩いた。強く。何度も。手の甲が赤く腫れるほど叩いて、それから私の前に立った。声のした方ではなく、台所の流しへ向かった。蛇口を開けて、水を流した。何もなかったように鍋を洗い始めた」

「祖母は、俺の声だと分かっていたのか」

「分かっていたと思う。だから何も言わなかった」

「俺は、その夜どこにいた」

「町よ。父親と一緒に病院へ行っていた」

胸の内側が、遅れて冷えた。

「そんなこと、覚えてない」

「覚えていなくていいようにしたの」

「どうやって」

「翌朝、あなたは熱を出した。しのさんが、あなたの枕元でずっと手を握っていた。私は家を出ることを決めた。あなたを連れて。しのさんは止めなかった。ただ、出ていく前に裁縫箱を渡した。私が持っているものは、それだけ」

「そのとき、祖母は何と言った」

母はしばらく目を閉じた。

「『夜に呼ばれても、知らない人の声なら返事をしないで』。それだけ。私は、あなたにも同じことを言われた気がしている。でも、あなたには言わなかった。言えば、あなたが覚えてしまうと思ったから」

引き出しの奥で、木札が触れ合った。

乾いた音ではなかった。濡れた木同士が擦れ、互いに位置を探るような音だった。

私は残りの札を一枚ずつ外へ並べた。三十枚ほどある。すべて無地に見えたが、灯りの角度を変えると、薄い線が浮いた。名前の途中。日付のような数字。消された文字。

その中に、祖母の筆跡で「し」と書かれた札があった。

次の画はない。

私は札を裏返した。裏には、細い溝が何本も刻まれている。数えようとした瞬間、溝の一つが湿り、墨のように黒く変わった。

し。

それだけが、札の表へ滲み出た。

「置いて!」

母が叫んだ。

声が大きかった。

仏間の襖が、内側から一度だけ叩かれた。

私は札を落とした。畳の上で跳ねた木札が、経机の下へ滑り込む。母はすぐに襖へ走るのではなく、台所へ行って蛇口を開いた。水音が仏間へ流れ込んでくる。

「どうして見に行かない」

「音のした場所へ行かないの」

「祖母もそうしていた?」

「そうよ。物音がしたら、別の仕事をする。呼ばれても、すぐに返さない。返事をしたくなる間を、生活で埋めるの」

「そんなことを十年も?」

「十年じゃない。もっと前から、この家ではそうだった」

母は水を流しながら続けた。

「しのさんが特別に強かったわけじゃない。強く見えるように、手順を崩さなかっただけ。怖くても、布巾を取る。聞こえても、湯を沸かす。何かが増えていても、引き出しの中で順番に並べる。そうすれば、家族は朝まで家族のままでいられると思っていた」

「家族のままって、どういう意味だ」

「呼ばれたあとも、自分の名前を自分のものとして持っていられるという意味よ」

蛇口から落ちる水が、次第に灰色へ変わっていった。

母は気づいていたはずなのに、止めなかった。

私は机の上の紙包みを一つずつ戻した。木札も、元の間隔に並べ直す。三枚、隙間、紙包み。三枚、隙間、紙包み。乱れたままにしておくことができなかった。祖母がそうしていた理由を知ってしまったあとでも、手は勝手に動いた。

並べ終えたとき、引き出しの底に薄い跡が残っているのが見えた。

濡れた指でなぞったような筋が、奥から手前へ伸びている。引き出しの内部からではない。経机のさらに奥、木の継ぎ目から這い出してきた跡だった。

私は懐中電灯を近づけた。

筋の先に、見覚えのない木札が一枚あった。

さっきまで、そこにはなかった。

拾い上げる。

表面には、途中まで書かれた名前がある。

玲――

そこで線が途切れていた。

続きはなかった。けれど木札を持った指先から、冷たい湿りが腕へ上がってくる。名前の続きを、私の手が知っているような感覚だった。

「置いて」

母が言った。

「これが何か知っているんだろ」

「置きなさい」

「答えてくれ」

「置いて、玲司」

母の声が、祖母の声に重なった。

私は木札を机へ戻した。だが、指を離しても札は倒れなかった。経机の木へ吸いついたように、斜めのまま立っている。

母が息を止める。

台所の水音が途切れた。

その瞬間、仏間の襖の向こうで、誰かが小さく笑ったような気がした。

私は振り返らなかった。

代わりに、引き出しを閉めた。木札も紙包みも、祖母の決めた間隔へ戻した。取っ手を押し込み、二度、三度、閉まり具合を確かめる。

引き出しはきちんと閉まった。

それでも、底の奥から湿った呼吸が聞こえていた。

私は手のひらに残った土を洗うため、台所へ向かった。蛇口をひねると、水は濁っていた。灰色の水が指の間を流れ、排水口へ吸い込まれていく。

母は私の横に立ち、何も言わず布巾を差し出した。

受け取って手を拭く。

布巾の端は、祖母と同じ折り方で畳まれていた。

私はそれを見て、母に尋ねた。

「母さんは、何を持って逃げたんだ」

母はすぐには答えなかった。

水の流れが止まり、家の中が静かになる。

静かすぎる沈黙の向こうで、経机の引き出しが、ほんの少しだけ開いた。

母はその音を聞いていた。聞いていないふりをしながら、私の手から布巾を取り上げた。

「あなたの名前を、忘れられなかったことよ」

母は布巾を絞り、きれいに畳んだ。

「だから、置いていけなかった。家を出ても、あなたの名前だけは、ずっと連れていたの」

引き出しの隙間から、濡れた木の匂いが流れてきた。

私は経机を見た。

木札は、もう一枚増えていた。

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