4話 日付の照合

朝になっても、井戸の蓋を戻したときの音が耳から離れなかった。

錠前を掛けた。母がそう言った。けれど、閉じたという感覚はなかった。金具が噛み合ったあとも、蓋の下には空間が残っていて、その空間の中で何かがこちらの動きを待っているようだった。

私は仏間へ戻り、日記を拾い上げた。最後の頁は乾いていた。指で触れても濡れた感触はない。だが、紙の繊維が一度水を含んだあとに固まったように、そこだけ硬くなっていた。

母は座敷の隅に立ったまま、私の手元を見ていた。

「それを、どうするつもりなの」

「調べる」

「まだ言うの」

「言うよ。ここまで見て、何もなかったことにはできない」

「何もなかったことにしろとは言ってないわ。ただ、あなたが確かめる必要はないと言っているの」

「祖母が必要だと思って十年書いたものを、俺が必要ないと決める理由はない」

母は口を閉じた。反論の代わりに、座敷の隅に寄せてあった座布団を一枚持ち上げ、畳の目に沿って置き直した。角を揃え、手のひらで表面を撫でる。その仕草が、祖母のものと重なって見えた。

「しのさんは、必要だから書いたんじゃない」

「じゃあ何のために?」

「書かなきゃいけなかったのよ」

「同じことだろ」

「違うわ。必要だと思って書くなら、書かない選択もできる。でも、あの人には選べなかった。夜が来たら書く。何かが来たら書く。書かなければ、次の朝まで家を保てない。そういうふうに、毎日の中へ組み込まれていたの」

「それを最初から言えばいい」

「言葉にすれば、あなたは意味を探すでしょう」

「探すよ。俺はそういう人間だから」

「だから困っているの」

母の声には、怒りより疲れがあった。私を責めているのではない。もっと前から、私がこうなることを知っていたような疲れだった。

私は返事をせず、仏間の脇へ机を寄せた。日記を開き、無地のメモ帳と鉛筆を取り出す。母はそれを見て、わずかに眉を動かした。

「何をするの」

「日付を並べる」

「並べたら分かると思っているのね」

「少なくとも、今よりは分かる」

私は最初の頁へ戻った。

日付は十年前の九月二十一日。祖母の字で、頁の中央に一行だけ書かれている。

今夜も来た。

その日から昨夜まで、頁は一日も欠けていなかった。雨の夜も、雪の夜も、祖母が高熱を出して寝込んだはずの日も、文字は同じ高さで並んでいる。日付だけを先にメモ帳へ書き写し、その横に、覚えている範囲の天候と家の異変を加えていく。

九月二十一日。曇り。  九月二十二日。夜半に雨。  九月二十三日。晴れ。  九月二十四日。風なし。  九月二十五日。雷。  九月二十六日。記憶なし。

記憶なし、と書いたところで、鉛筆の先が止まった。

十年前のことなど覚えていない。私は二十歳だった。大学の寮にいて、久世家へ帰っていたのは夏休みと正月だけだった。だが、日記の始まりの日付を見ていると、その頃の家の空気を知っているような気がした。

仏間の畳に座り、祖母の背中を見ていた記憶。

夜中に目を覚ましたとき、廊下の先で布を絞るような音を聞いた記憶。

祖母が朝食の味噌汁をよそう前に、必ず一度だけ裏口の方を振り返った記憶。

それらはどれも、思い出そうとした瞬間に輪郭を失った。映像ではなく、映像があった場所だけが残っている。

「何か思い出したの?」

母が訊いた。

「いや」

「今、そういう顔をしていた」

「どんな顔だよ」

「自分の記憶を信じようとして、信じられなくなった顔」

母は台所へ行き、蛇口をひねった。水は細く流れた。朝の光を受けた水は透明だったが、流しの底に白い筋が残っている。

「母さんは、十年前の九月二十一日の天気を覚えてる?」

「覚えていないわ」

「本当に?」

「天気なんて、毎日覚えていないでしょう」

「この日から、祖母は書き始めた」

「だから?」

「だから、何かがあった夜だと思う」

母は蛇口を閉めなかった。

「何かがあったとしても、天気を調べたところで、起きたことは変わらない」

「変えるためじゃない。確認するためだ」

「確認して、どうするの」

「事実を並べる。日付と天候と異変を並べれば、偶然かどうかは分かる」

「分からないわ」

「なぜ言い切れる」

「この家で起きることは、並べても順番どおりにならないからよ」

水の音が、母の声の隙間を埋めていた。

「雨が降ったから水が濁る。風が吹いたから雨戸が鳴る。花が傷んだのは、仏間が湿っていたから。そういうふうに原因をつければ、何でも普通のことにできる。でも、普通のことにできるのは一度だけなの。二度、三度、同じ場所で同じことが起きると、それはもう説明じゃない。説明の形をした別のものになる」

「祖母もそう考えたのか」

「しのさんは、考えないようにしていた」

「考えずに十年も書けるかよ」

「考えたら書けなくなるから、手順にしたのよ」

母は蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭いた。布巾を畳む。半分に折り、さらに半分に折り、端を揃えて台の角へ置く。祖母の布巾の畳み方と同じだった。

「あなたは、しのさんのことを何も知らないと思っているでしょう」

「知らないよ」

「私も知らない。あの人は、自分の怖さを誰にも渡さなかった。渡さない代わりに、家事を残した。戸を閉める順番、湯呑みの置き場所、夜に水を流す時間。私たちはそれを、しのさんの性格だと思っていた。几帳面で、うるさくて、変なところにこだわる人だと」

「違ったのか」

「違った。少なくとも、全部が性格だったわけじゃない」

私はまた頁をめくった。

十月に入ると、夜半に雨が降った日の翌朝だけ、日記の紙がわずかに波打っていた。十一月には、風のない夜の翌日だけ、頁の端に黒い粒がついている。冬の頁には、鉛筆の筆圧が少し深く残り、春になると逆に文字が浅い。筆跡は同じに見えたが、紙に残った力の差は消せなかった。

私は方眼紙に印をつけた。

雨。丸。  風。三角。  濁り。二重線。  花の傷み。小さな丸。  物音。縦線。

印は少しずつ増えた。だが、きれいな規則にはならなかった。

雨のない夜に水が濁る。風のある夜に雨戸が動かない。何も起きなかったはずの朝、仏間の菊だけが黒ずんでいる。ひとつひとつの出来事は、偶然として処理できる程度に小さい。けれど日付の上に重ねていくと、偶然が家の形をしてくる。

私は井戸へ続く方角に、赤い線を引いた。

異変の多くが、仏間と台所の間に集中していた。そこから裏口、石段、井戸へ向かって、細い線が伸びている。まるで家の中を通る水脈のようだった。

昼前、私は井戸の水を採ることにした。

母は反対したが、理由を言わなかった。私が台所から古い瓶を出すと、母は瓶の口を洗い、煮沸し、乾いた布で内側まで拭いた。そんなことまでしなくていいと言うと、母は布を置いたまま私を見た。

「調べるなら、汚れた瓶で調べないで」

「何を調べるか分かっているのか」

「分かっていないから、手順だけは間違えないの」

「祖母もそうだった?」

「そうよ。あなたが小さいころ、熱を出したでしょう。病院へ行く前に、しのさんはあなたの尿を瓶に取った。医者へ持っていくためだと言っていたけれど、その瓶も一度煮沸していた」

「覚えてない」

「覚えていなくていいことにしたから」

母はそれ以上言わなかった。

裏手へ出ると、昨夜の雨は降っていないのに、石段の隅だけが濡れていた。苔の間に細い水の筋があり、上から下へではなく、井戸の方から家へ向かって伸びている。

私はしゃがみ込み、指で触れた。

冷たかった。水というより、長く土の中にあった金属に触れたような冷たさだった。指先を鼻へ近づけると、鉄の匂いがした。

「触らないほうがいい」

母が言った。

「もう触った」

「そういうところが、しのさんに似ているわ」

「祖母も触って確かめたのか」

「確かめたあと、必ず洗った。手も、道具も、床も。触れたことを消すためじゃない。触れたものを家の中へ持ち込まないために」

「なら、どうして教えてくれなかった」

「教えても、あなたは触ったでしょう」

私は瓶を井戸の中へ下ろした。蓋は昨夜のまま閉じている。錠前を外すと、金具の内側に黒い湿りが付着していた。母が息を止める気配が背後に伝わる。

蓋を少しずらす。

井戸の底から、冷たい空気が上がった。水面は見えない。深すぎるのか、光が届かないのか、それとも何かが光を吸っているのか分からなかった。

瓶を紐に結び、ゆっくり下ろす。途中で紐が一度だけ引かれた。

手応えは軽かった。

誰かが下から触れたように思えた。

私はすぐに引き上げた。瓶には三分の一ほど水が入っていた。透明に見える。だが、日向へ持っていくと、細かな灰色の粉が瓶の中でゆっくり舞った。

母はそれを見て、顔を背けた。

「前にも、こうなったのか」

「何が」

「水が濁ったこと」

「何度も」

「そのたび、祖母はどうした」

「水を捨てた。瓶を洗った。井戸の蓋を閉めた。それで終わりにした」

「終わっていないから日記を書いた」

「しのさんにとっては、朝まで持ち越さなければ終わりだったのよ」

「母さんは、それでいいと思っていたのか」

「よくはないわ」

「でも、何もしなかった」

「何もしなかったんじゃない。出ていったの」

母は井戸から家へ視線を移した。

「私にできたのは、それだけだった。家に残って、しのさんと同じ手順を覚えることもできた。でも、私は無理だった。夜になると、どこからか声がして、私が聞こえないふりをすると、しのさんだけが立ち上がる。雨戸を見て、仏間を見て、台所の水を捨てる。その背中を見ているうちに、私は思ったの。ここにいる限り、いつか私も同じことをする。怖くても、何も言わずに布巾を取り、誰かを守っているつもりで、次の人に何も教えない。そうなる前に出たかった」

「俺を連れて?」

「連れて出たでしょう」

「祖母を置いて」

「置いていくしかなかった」

「それを愛情だと言うのか」

母はすぐに答えなかった。

「愛情だったと思いたいのよ」

声が低くなった。

「あなたを連れて出たのは、私が母親だったから。しのさんを置いて出たのは、私が娘だったから。どちらも本当よ。だから、どちらかを正しいことにしないと生きていけなかった。あなたを守った。しのさんは自分で残ることを選んだ。そう考えて、私は町で暮らした。でも、選んだんじゃないのかもしれない。あの人は、選べる場所にいなかっただけかもしれない」

私は瓶の中の水を見た。

灰色の粉が、底へ沈みきらずに漂っている。光の中では見えるのに、少し角度を変えると消える。濁りは水そのものにあるのではなく、水を見る私の位置に現れているようだった。

家へ戻り、私は日記の日付と井戸水の状態を照合した。

十年前の最初の夜。翌朝、井戸水は記録にない。だがその日の頁の端には、他の日にない黒い筋が一本残っていた。

それから三日後。雨は降っていない。仏間の花が枯れている。

七日後。風なし。雨戸の隙間に湿り。

一か月後。夜半に雷。翌朝、井戸の水が白濁。

その後も、異変は間隔を変えながら続いていた。毎晩来たという一行の下に、家のどこかが少しずつ変わった痕跡があった。

私は十年分の頁を並べ、日付の横に時刻を書き始めた。

時刻は本文には記されていない。だが、日記の筆圧が変わる位置があった。一行の最後、句点のない「た」の払いが長く伸びている頁。紙の右端が押し潰されている頁。そこに同じ時刻を推測していく。

午前二時十七分。

最初の夜。

その後、何度も同じ位置に筆圧の深い頁が現れた。二時十七分を境に、文字の間隔がわずかに狭くなる。まるで祖母が書き終える前に、何かがすぐそばまで来ていたように。

私はメモ帳の端へ、その時刻を書いた。

午前二時十七分。

その数字を見たとき、背後で仏間の花瓶が倒れた。

大きな音ではなかった。畳の上へ花が崩れ、水がこぼれる音。私は振り返った。

菊はまだ立っていた。花瓶も倒れていない。

ただ、花瓶の水だけが、畳の上へ細く流れていた。

水は仏間から廊下へ向かっている。低い場所へ流れているのではない。畳の目を逆らうように、家の奥からこちらへ伸びていた。

私は立ち上がり、流れの先を目で追った。

水は私のメモ帳のところで止まっている。

頁に書いた時刻の数字へ、透明な雫が一つ落ちた。

紙がその部分だけ濃くなる。

午前二時十七分。

私は指で雫を拭った。指先に鉄の匂いが残った。

母が台所から走ってきた。だが、私の手元を見ると足を止めた。

「何を書いたの」

「時刻だ」

「何の時刻?」

「祖母が毎晩、何かに対応していた時刻」

「消して」

「母さん」

「それを消して。今すぐ」

「なぜ」

「その数字を残すと、次はその時刻に来るから」

「毎晩来ていたんだろ。だったら、もう来ている」

「違うの」

母の声が震えた。

「しのさんは、来たものに時刻を合わせていたんじゃない。時刻を決めて、そこまで家を保っていたの。二時十七分までは、何も返さない。二時十七分になったら、戸を確認する。水を捨てる。木札を置く。書く。そうやって、夜を細かく切っていたのよ」

「その手順を、今まで誰も引き継いでいない」

「だから、あなたがやる必要はない」

「でも、祖母が死んでからも来ている」

「来ているんじゃない」

母はメモ帳から目を離さなかった。

「待っているの」

家の奥で、木が軋んだ。

仏間の襖が、閉じたまま内側へ膨らむ。ほんのわずかな変化だった。けれど私は、祖母が夜ごと桟を確かめていた理由を知っている。

家は、音を立てずにずれている。

私はメモ帳を閉じた。日記の頁を押さえた指に、祖母と同じ細かなざらつきが残っていた。

記録を並べれば、原因が分かると思っていた。

雨、風、濁り、花の傷み、湿った木、午前二時十七分。

それらは原因ではなかった。祖母が毎晩、同じものを見失わないために置いた印だった。

私は日記の端をこすった。

その瞬間、仏間の向こうから、紙をめくる音がした。

一枚。

もう一枚。

私の手の下にある日記は閉じている。それなのに、暗い部屋の奥で、十年分の頁が誰かの指によって送られている。

音が止まった。

母が息を殺す。

私は顔を上げた。

仏間の襖に、濡れた指の跡が三つ並んでいた。内側から押しつけられたように、桟の高さに沿って。

その下で、花瓶の水がもう一度、わずかに揺れた。

時計を見た。

午前十一時四十二分。

まだ夜ではない。

それでも、日記の最後の頁には、いつのまにか新しい湿りが広がっていた。昨夜の一行の下、空白の中央だけが、誰かに触れられたように暗くなっている。

私はそこへ、無意識に鉛筆を近づけた。

母が私の手首を掴んだ。

「書かないで」

「まだ何も書いてない」

「書こうとしたでしょう」

「時刻を記録するだけだ」

「玲司。記録することが、あなたのやり方なのは分かってる。でも、ここでは記録したものが残るんじゃない。残したものが、次に来るための場所になるの」

母の指は冷たかった。

私は鉛筆を置いた。

その直後、日記の紙面に、細い線が一本走った。

文字にはならなかった。

けれど、祖母の筆圧と同じ深さで、紙だけがゆっくり沈んでいった。

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