3話 返事のあった場所

眠れなかった。

布団の中で何度も寝返りを打つうち、天井の木目が違う顔に見えてくる。祖母の部屋から漏れてくるはずの寝息もない。私は起き上がり、懐中電灯を握った。灯りを点ける前に、腕時計へ目をやる。午前二時を少し過ぎている。母がここでは開くなと言った日記は、床の間の隅に置いたままだった。

仏間へ向かう廊下は、昼間よりも狭く感じられた。歩くたびに床板が沈み、沈むたびに家全体がわずかに呼吸をするように鳴る。祖母が生きていたころ、この廊下で夜中に物音を立てたことは一度もなかった。足音を殺す歩き方を、いつのまにか私も真似ていた。

仏間に入り、経机の前に膝をつく。板の継ぎ目を指で探ると、一枚だけ他より浮いているのが分かった。祖母の手癖なら、道具は隠すためではなく、見つけた者が手順を辿れるように置く。私はそう思いながら爪先を差し込み、板を持ち上げた。

土の匂いが、冷えた木肌の隙間から立ちのぼった。

床下には麻紐で束ねた木札がいくつも並び、紙包みがひとつずつ間隔を空けて置かれていた。どれも祖母の結び方だ。きつすぎず、ゆるすぎず、ほどく者の指を切らないように結ばれている。私は懐中電灯を口にくわえ、指先で包みを一つずつ確かめた。塩。糸のように細い髪。乾いた土。どれも同じ量、同じ形に整えられている。これは隠された秘密ではない。差し出され続けた何かの記録だ。

最後の包みの底から、小さな鉛筆の欠片が転がり出た。

削り切られて、もうこれ以上握れないほど短い。私はそれを日記の余白に書かれていた祖母の字と重ねた。「亡き夫が使っていた短い鉛筆」。祖母は、道具ひとつ捨てなかった。使い切って、折れた芯まで包んで、床下に埋めた。それは信仰でも迷信でもなく、生活そのものの延長だった。誰にも見せない場所で、誰にも言わない手順で、祖母は十年、家族の分まで恐怖を引き受けていたのだ。

私は床下の奥へ光を向けた。木札の背後、さらに奥まった暗がりに、細い溝のような通り道がある。そこから風とも呼べない湿り気が、引いては寄せてくる。井戸の方角だった。

板を戻さないまま、私は裏手へ回った。

庭の石段は夜露で黒く濡れていた。井戸の錠前に手をかけると、錆びた金具が小さく鳴る。それだけで喉の奥がひやりとした。蓋をずらすと、底から冷気が上がってくる。水面は黒く、月明かりを受けても輪郭しか見せなかった。

覗き込んだ瞬間、映ったのは自分の顔ではなかった。

障子の向こうに、まだ幼いころの私が立っている。誰かに呼ばれたように首をかしげ、振り返りかけている。夏の薄い寝間着。祖母に叱られる前の、何も知らない顔。水面はそれを一拍遅れて映し、遅れて揺らした。

「玲司」

声がして、私は井戸縁を強く握った。振り向くと母が立っていた。寝巻きの上に羽織を重ね、髪も結わずにいるのに、顔だけはきちんと整っている。母は井戸を見た瞬間、口元を固く結んだ。

「母さん、これは」

「見なくていい」

「もう見た」

母はしばらく黙っていた。井戸の縁に指を這わせ、湿った跡を布で拭う。その手つきは、祖母がいつも見せていた手順とよく似ていた。

「若いころ、私も夜中にここへ来たことがある」

母は水面を見ないまま言った。

「誰かに名前を呼ばれた気がしたの。母さんの声に似ていた。返事をしそうになったとき、しのさんが襖の向こうから私の腕を掴んで、離さなかった。何も言わずに、ただ強く。次の朝、私は熱を出して三日寝込んだ。それだけ。それだけよ。でも、あのとき返事をしていたら、私はもうここにいなかった気がする。ここにいたとしても、私じゃない何かになっていた気がする」

「なぜ今まで黙っていた」

「言葉にした瞬間、あの夜がまだ終わっていないことになるからよ」

母の声は静かだったが、震えを隠しきれていなかった。

「玲司。あなたは記録すれば分かると思っている。日付を並べて、天候を並べて、水の濁りと突き合わせれば、答えが出ると思っている。でもね、これは謎解きじゃないの。しのさんは十年間、答えを出そうとしたんじゃない。答えを出さずに、朝を迎え続けただけなの」

その時、庭の暗がりに人影が動いた。村上三郎だった。杖もつかず、しかし足取りは重く、土間を通らずまっすぐ井戸のそばまで来ると、井戸と仏間のあいだに立ち止まった。

「夜中にすまんが、灯りが見えたもんでね」

声には湿った疲れがあった。私は木札のことを聞こうとしたが、村上は先に口を開いた。

「久世家には昔から、夜半の呼びかけに返事をしてはいけないという決まりがある。それは知っとるな」

「聞きました。でも、何に対する返事なのかは誰も教えてくれない」

「教えられないんじゃない。教えたくないんだ」

村上は井戸の縁を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。

「十年前、この家で一度だけ、返事があった。誰が返したかは言わん。何が来たのかも言わん。だが、その夜からこの家の中に、呼び返される場所ができた。井戸でも仏間でもない。家のどこにでも移る。人が声を返した瞬間に、目に見えん引き戸が開くんだ。しのさんは、それを閉じ続けることに人生を使った」

「閉じ続けるとは、具体的に何をしたんですか」

「毎晩、同じ手順を繰り返すことだ。木札を置く。塩を包む。日記に一行だけ書く。それだけのことを、崩さず、休まず、十年」

「なぜ、誰にも言わなかったんですか」

村上は、初めて私の目をまっすぐ見た。

「言えば、それが本当にあると認めることになる。あんたは記録に頼る人間だから分からんかもしれんが、この家では、言葉にすることそのものが返事になる。しのさんはそれを知っていたから、誰にも説明せず、家族にも見せず、ただ手を動かし続けた。あんたの婆さんは、黙ることで戦っとったんだ」

村上はそこで言葉を止め、家のことは家の中で腐らせるしかない、とだけ言い残して背を向けた。その背中には、知っている者の余裕ではなく、言い切らなかった者の疲れが沈んでいた。

私は井戸の蓋に手をかけた。母が止める間もなく、蓋を外す。底の暗さに、日記の全頁が吸い込まれていくような錯覚があった。上がってきたのは水音ではなく、湿った、返答に似た息だった。

私は反射的に口を開きかけた。

母の手が腕を掴んだ。爪が皮膚に食い込むほど強く。何も言わないで、と母は言わなかった。ただ痛みだけを寄越した。その痛みの中で、私は初めて身体で理解した。祖母が十年かけて守っていたのは、家そのものではない。家族の誰かが、夜に呼び返されないための境界だった。

だが、もう遅かったのかもしれない。

仏間の畳に置いたままの日記が、風もないのに頁を送る音を立てた。母と私は同時に振り返った。最後の頁が、ひとりでにめくれていく。祖母が昨夜書いたはずの「今夜も来た」の下に、まだ乾ききっていない空白があった。

その空白に、祖母の筆跡にそっくりで、しかし角度だけがわずかに違う一行が浮かび上がっていく。

「今夜も来た」

私は畳へ歩み寄り、その文字に指先を近づけた。触れるつもりはなかった。ただ、確かめたかっただけだ。指先が紙に触れた瞬間、書いた覚えのない筆跡の感触が、私の手に移った気がした。

井戸の底から、今度ははっきりと、返事を待つ声が上がってきた。

母は井戸の蓋を強引に戻し、錠前を掛けた。だが金具の鳴る音は、閉じたはずの音というより、何かがまだ内側で息をしているような響きを残した。

家の夜は、まだ終わっていない。

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