第2話 一行だけの帳面

朝、目を覚ますと、口の中に鉄の味が残っていた。
布団から起き上がる前に、私は時計を探した。鞄の内ポケットから腕時計を取り出し、文字盤を確かめる。午前六時十三分。針は東京にいたときと同じ速さで進んでいる。だが、秒針の音だけが妙に大きく聞こえた。
障子の濡れた跡は消えていた。
昨夜、二つ目に浮かんだ足跡も、跡形なく乾いている。紙は皺ひとつなく、朝の薄い光を通していた。私は指で触れなかった。触れれば、何かがそこにあったと認めることになる気がした。
台所へ降りると、母が流しに立っていた。蛇口から細い水が落ちている。母は湯を沸かしていたが、火はついていなかった。
「朝から水を出してるのか」
母は振り向かなかった。
「止めると、家が静かになるから」
「静かなほうがいいんじゃないか」
「静かすぎるのはよくないの」
母はそう言い、蛇口を閉めた。水音が消えると、家の奥からすぐに軋みが返ってきた。床板が一枚、誰かに踏まれたように鳴った。
母は湯呑みを二つ並べた。ひとつを私の前へ置き、もうひとつを自分の右側へ置く。私は昨夜と同じように、湯呑みの位置を中央へ寄せた。
母の手が伸び、元の場所へ戻した。
「日記を持ってきたのね」
「読むつもりだったから」
「ここでは開かないで」
「昨日も聞いた」
「昨日は、まだ返してくれると思っていたから」
「何を?」
母は答えず、急須へ湯を注いだ。茶葉が開く音など聞こえるはずもないのに、私はその中で何かがほどけるような気配を感じた。
「母さんは、祖母の日記を見たことがあるのか」
「見たわ」
「いつ」
「十年前」
「最初の頁を?」
「最初の夜を」
母は湯呑みに茶を注いだ。手元は震えていなかった。ただ、湯の量が二つとも同じではなかった。私の方には縁ぎりぎりまで、自分の方には半分しか入っていない。
「十年前に何があった」
「聞かないで」
「もう聞いている。答えてくれ」
「あなたは答えをもらったら、安心すると思っているでしょう。原因が分かれば、戸締まりの不具合と同じように直せると思っている。でも、そういうものじゃないの。原因を知ったところで、夜になればまた来る。来たものは、見なかったことにはできても、なかったことにはできない」
「だから祖母は十年、毎日書いたのか」
「しのさんは、書くことで朝まで待ったのよ」
私は鞄から日記を取り出した。
革表紙は朝の光の中でも湿って見えた。表面を拭いた覚えはないのに、昨夜より黒くなっている。母はそれを見た途端、椅子から少し身を引いた。
「どこで開くつもり?」
「ここで」
「だめ」
「理由は?」
「日記の中身は、日記を置いた場所と一緒に残っているから」
「意味が分からない」
「分からなくていいの。分からないまま、外へ持っていけばよかった。私が見つけたときも、しのさんはそう言った。読まずに、火にくべるか、町の寺へ持っていけって」
「祖母が?」
「そう。自分で書いたものなのに、自分で読むなと言ったのよ」
「それでも母さんは読んだ」
「一頁だけ」
「何が書いてあった」
母は両手で湯呑みを包んだ。茶はもう冷めている。湯気の消えた器から、祖母が使っていた欠けた湯呑みの匂いがした。
「今夜も来た。それだけよ」
「他には?」
「他には何もない。だから怖かった」
「毎日同じ文だから?」
「同じ文なのに、同じ意味ではなかったから」
母は視線を上げた。
「最初は、何かが家へ来たという意味だったと思う。でも何日も続くと、来たものをしのさんが見た、という意味になる。何年も経つと、来たものがもう家の中にいる、という意味になった。最後には、しのさんが書いたから来たのか、来たから書いたのか、分からなくなっていた」
私は日記の表紙へ手を置いた。冷たい。革の冷たさではない。井戸の縁に触れたときと同じ、手の熱を吸い取る冷たさだった。
「日記が呼んでいると言いたいのか」
「言いたくないから、ここでは開くなと言ってるの」
「母さんは、祖母が何を見ていたのか知りたいと思わないのか」
「知りたいわよ」
声が初めて乱れた。
「知りたい。ずっと知りたかった。どうしてあの人は、私に何も言わなかったのか。どうして私が出ていくのを止めなかったのか。どうしてあなたを預けたまま、夜になると一人で家中を歩いていたのか。私は何度も聞こうとした。でも、聞く前にしのさんが戸を閉めるの。台所へ行くの。湯を沸かすの。そうすると、聞く理由が消えたような気になる。私もそれに従った。従えば、朝が来たから」
「それで俺にも同じことをした」
「あなたには、普通に生きてほしかったの」
「普通って何だよ。何も知らずに、何も見なかったことにして、家族の話を避けて、祖母の葬式でさえみんな黙っていることが普通なのか」
「普通に見えることが必要だったのよ!」
母の声が台所の壁に当たった。
返事はなかった。だが仏間の方で、襖の桟がゆっくり沈んだ。
母はすぐに口を閉じた。自分の声が家の奥へ届いたことに気づいた顔だった。私は立ち上がった。日記を持つ手に汗が滲む。
「今の音、聞こえたか」
「聞こえていない」
「聞こえたはずだ」
「玲司、座って」
「何がいる」
「座って。声を大きくしないで」
「母さん、俺はもう子どもじゃない」
「子どもじゃないから言っているの。大人は、聞こえたものに名前をつけたがる。名前をつければ扱えると思うから。でも、名前をつけたものは、呼べるものになる。呼べるものは、返事を待つ」
「返事をしなければいい」
「あなたはそう思っている。でも、返事は声だけじゃない。戸を開けることも、覗くことも、日記を読むことも、そこにいると認めることも、返事になる」

母は日記を見た。
「だから閉じて。お願い。今ならまだ、昨日の夜に戻れるかもしれない」
その言葉が、私の中の何かを逆に動かした。
戻れるというなら、戻れていないのだ。昨夜の夜は終わっていない。障子の跡が消えたのも、濁った水が朝には透明になったのも、異常が去った証拠ではない。ただ、見えない場所へ移っただけだ。
私は日記を開いた。
最初の頁からではなく、雨の記憶が残る日付を選んだ。十年前の秋。台風が山を越えた翌朝、井戸の水が濁ったと村人が話していた日だ。頁にはいつもと同じ一行があった。
今夜も来た。
その下に、紙の色が違う部分がある。何度も指で触れられたように、そこだけ繊維が潰れていた。私は爪先でそっとなぞった。
「そこ、触らないで」
母が言った。
私は指を止めなかった。
頁の端から、薄い紙片が滑り落ちた。床へ落ちる前に掴む。折り畳まれた紙には、日付と時刻が記されていた。
午前二時十七分。
裏返すと、短い文があった。
水が濁ったら、木札を一枚、井戸へ返す。 声が近ければ、返事をせず、書く。 書いたあとは、誰の声だったか考えない。
祖母の字だった。
「これを読んだの?」
母は首を横に振った。
「私は一頁しか見ていない」
「じゃあ、どうして知っている」
「しのさんが言ったの。『書いてあることは、しないで』って」
「意味が分からない」
「分からないままでいいと言ったでしょう」
「もう遅いよ」
紙片の下に、黒い湿りが広がっていた。インクではない。紙が水を吸ったように、文字の周りからじわじわと色を変えている。
私は日付をメモ帳へ写した。時刻も、そのまま書き写した。書き終えたとき、台所の隅で何かが擦れた。
母が息を呑む。
私は顔を上げた。
棚の下に、昨日までなかった木札が置かれていた。小指ほどの長さで、表面には何も書かれていない。濡れた土が片側にこびりつき、床へ細い跡を引いている。
私は立ち上がり、木札を拾った。
「触らないで!」
母の声が飛んだ。
だが、もう遅かった。木札の裏に、薄い線が浮き上がっていた。墨ではない。濡れた木の中から、文字が押し出されるように現れた。
玲司。
私はそれを読んだ。
母が私の腕を掴んだ。爪が食い込む。
「今、何て書いてあったの」
「名前が」
「誰の?」
「俺の」
母は木札を見なかった。見ないようにしているのに、そこへ視線が吸い寄せられている。
「読んだのね」
「書いてあったものを読んだだけだ」
「それが返事なの」
木札の文字が、濡れた土の下でゆっくり崩れた。私の名前は消え、代わりに、祖母の日記と同じ筆圧の一行が浮かび上がった。
今夜も来た。
母の手が離れる。
仏間の引き戸が、誰も触れていないのに閉まった。続いて、経机の引き出しが内側から押されたように、数センチだけ開いた。
中には、昨日なかった紙包みがあった。
私はそれを見ながら、日記の役割をようやく理解しかけていた。これは過去を保存するための帳面ではない。来たものが来たままでいられるように、夜ごと差し出したものを数える帳簿だ。木札一枚。塩。糸。土。そして、書かれた名前。
母が震える声で言った。
「玲司、今夜は帰るのよ」
「母さんは?」
「あなたを車で送る」
「日記は置いていけと言うのか」
「置いていくの」
「祖母は十年、置いていかなかった」
「だから死ぬまでここにいたのよ」
その言葉のあと、どこかで水が落ちた。
一滴。
また一滴。
台所ではない。仏間の奥から聞こえた。
私は日記を閉じた。閉じたはずなのに、革表紙の隙間から湿り気が滲み、畳へ黒い半月を作っている。
母は玄関へ向かった。私はその背中を追った。土間へ出たところで、母の足が止まる。
戸の向こうから、誰かが叩いた。
二度。
間を置いて、もう一度。
母は振り返らず、唇だけを動かした。
返事をしないで。
叩く音が、今度は家の内側から聞こえた。私たちの背後、仏間と台所の境目から。
私は日記を胸に抱えた。
その表紙の内側で、紙をめくる音がした。閉じているのに、頁が一枚ずつ送られていく。最後の頁へ辿り着いたところで、音が止まった。
母の声に似た気配が、仏間の向こうから私の名を呼んだ。
私は口を閉じたまま、日記の最後の頁を開いた。
祖母が昨夜書いた一行の下に、まだ何も書かれていない空白がある。けれど紙は濡れていた。誰かがそこへ、これから書く言葉を待っている。
経机の引き出しが、また少し開いた。
その隙間から、木札が一枚、畳の上へ滑り出た。
今度は、私の名前が最初から書かれていた。
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