第1話 湿った土間

腕時計を外した。
東京のワンルームを三日以上空けたことのない時計だった。駅へ向かう朝も、終電を逃した夜も、机の上で資料をめくる休日も、文字盤は同じ速さで時間を刻んでいた。外したそれを、私は鞄の内ポケットへしまった。
久世家へ戻るのに、時間を測る必要はないと思った。
県境へ向かうバスは、山道に入るにつれて遅くなった。窓の外から家が消え、田の水面と杉の影だけが残った。スマートフォンの画面からアンテナの本数が一本ずつ減っていく。最後に圏外の表示が出たとき、私はなぜか安心した。誰かから連絡が来る可能性がなくなると、帰る場所がここしかないように思えた。
久世家の前でバスを降りると、法要の翌日とは思えないほど村は静かだった。斜面の畑に人影はなく、用水路の水だけが、見えない場所で細く流れている。家の屋根には薄い苔が生え、軒下には法要のときに掛けた白い紙がまだ一枚残っていた。風に揺れもせず、湿った壁に貼りついている。
玄関の戸を開けた。
土間に足を踏み入れた瞬間、靴底から冷えが上がってきた。外気より明らかに低い。湿った木肌の匂いと、仏間に残る古い香の匂いが混じっている。香りは甘くなく、燃え尽きたあとに灰へ染み込むような、乾ききらない匂いだった。
「電気、つくのね」
後ろから母の美穂が言った。
母は靴を脱ぐ前に、一度だけ土間の奥を見た。仏間でも、台所でもない。土間から座敷へ続く暗い境目を、誰かが立っていないか確かめるように見た。それから靴の向きを揃え、脱いだ。
「ブレーカーは落としてなかったみたいだ」
「法要のときに戻したから」
「泊まるつもりは?」
「ないわ。必要なものだけ持って帰る。あなたも、今日のうちに決められるものは決めて」
母の言葉は、帰郷の挨拶というより退去の手順に聞こえた。
私は返事をせず、土間の脇に置かれた法要の茶碗を見た。卓上に五つ並んでいる。どれも洗われていたが、ひとつだけ縁に水滴が残っていた。母のものでも、私のものでもない。祖母が最後まで使っていた、欠けた湯呑みだった。
指で持ち上げると、底に薄い泥の輪がついていた。
「これ、洗ってないのか」
「洗ったわよ」
「底に土がある」
母は私の手元を見た。顔色は変わらなかった。ただ、右手の人差し指が、左手の爪の脇をなぞった。
「もう一度、洗えばいいでしょう」
「どこに置いてあった?」
「流しの横。法要のあとに」
「誰か、外から持ってきたんじゃないか」
「玲司」
名前を呼ばれただけなのに、注意されたときの祖母の声に似ていた。
「今は、そういうことを考えなくていいの。家を片付けるだけでしょう。古い家なんだから、土も入るし、水も残る。何でも意味があるみたいに見始めたら、片付かないわ」
「何でも意味があるとは言ってない。確認しているだけだ」
「確認しなくていいこともあるのよ」
母はそう言って、湯呑みを私の手から取り上げた。流しへ運び、蛇口をひねる。水が細く落ち、陶器の底を叩いた。母は湯呑みを洗いながら、何度も同じ場所を指で擦った。泥はすぐに流れた。だが、排水口へ消える水だけが、薄く灰色に濁っていた。
私は何も言わず、卓上の茶碗を一つずつ揃えた。
祖母は物の位置にうるさかった。箸の向き、布巾を掛ける場所、仏壇の花の高さ。子どものころ、私はそれを性格だと思っていた。祖母は何でもきちんとしていないと気が済まない人だった。私が脱いだ靴を揃えなければ黙って直し、読みかけの本を伏せて置けば、角が傷むと言って栞を挟んだ。
その記憶を辿りながら、私は茶碗を揃え、台所の布巾を洗い、仏間の位牌を正面へ向けた。
布巾は小さく畳まれていた。濡れているわけではないのに、手に取ると冷たかった。石鹸で揉むと、灰色の水が流れた。何度すすいでも水は透明にならず、最後には諦めて、竿へ掛けた。
仏間の襖を閉めようとしたとき、戸が途中で止まった。
敷居に何か挟まっている。指先で探ると、木の粉のようなものが出てきた。拾い上げて掌にのせる。細かい木屑に混じって、湿った土が固まっていた。
襖の内側が、わずかに反っている。
祖母は夜になる前、必ずここを確認していた。指先で桟をなぞり、戸がきちんと閉じるか確かめる。私が理由を訊いたことはない。祖母はいつも、確認を終えると台所へ戻り、湯を沸かした。質問に答える代わりに、別の仕事を始める人だった。
私も桟をなぞった。
木は湿っていた。
「そこ、閉めなくていいわ」
縁側から母が言った。
「祖母は閉めていた」
「もういないもの」
「だから?」
「だから、同じにしなくていいの」
母はそれ以上近づかなかった。縁側の柱に手を添えたまま、庭を見ている。視線の先には、裏手へ続く石段があった。石段の下には、使われなくなった井戸がある。祖母は毎晩、そこへ錠前を掛けていた。
「母さんは、井戸を見た?」
「見てない」
「蓋がずれていた」
「風でしょう」
「風はなかった」
「玲司、お願いだから」
母の声は低かった。怒っているのではない。怒る手前で、何かを必死に押さえている声だった。
「お願いって何だよ。遺品整理をするなら、家の中を見なきゃいけないだろ。祖母が何をどこに置いていたのか、母さんだって知りたいんじゃないのか」
「知りたくない」
母は即答した。
「知らないままにしておくほうが、いいこともあるの」
「それは、知らないほうが自分に都合がいいって意味?」
「そうよ」
母は庭から目を離さなかった。
「私はこの家を出るとき、何も持っていかなかった。服と、裁縫箱と、あなたの写真だけ。家のことを覚えていても、持ち出さなければ済むと思ったの。見ない。話さない。戻らない。それで普通に暮らせると思った。実際、暮らせたわ。あなたを育てて、仕事をして、スーパーで買い物をして、夜になれば戸締まりをして眠る。それで十分だったの」
「十分じゃなかったから、今もこの家の話をすると水を出すんだろ」
母の手が、柱から離れた。
「水を出すのは、ただの癖よ」
「この家を出てからも?」
「癖は、場所を選ばないでしょう」
母は台所へ戻り、蛇口を少しだけ開けた。水音が、静まり返った家の中へ細く広がった。
私はその音を聞きながら、祖母の部屋へ入った。
箪笥の中には、季節ごとに分けられた衣類が残っていた。襟の向きまで揃えられている。引き出しを開けるたび、乾いた紙と樟脳の匂いがした。三段目には、子どものころ祖母が直してくれた小さな布袋があった。紐の先がほつれていたので、私はそれを畳み直し、元の位置へ戻した。
下段を開けたとき、底板の色が違うことに気づいた。
そこだけ新しい。周囲の木は飴色に変わっているのに、底板だけが薄く、削ったばかりのようだった。指の爪を隙間へ入れると、板は簡単に持ち上がった。
下には革表紙の帳面が一冊、ぴたりと収まっていた。
表紙は手に吸いつくように柔らかく、角だけが丸く磨かれていた。革の匂いはほとんどなく、代わりに土を乾かしたような臭いがした。
私は畳へ座り、帳面を開いた。
最初の頁には日付があった。十年前の日付だった。その下に、祖母の字で一行だけ書かれている。
今夜も来た。
次の頁も、その次の頁も同じだった。
春、夏、秋、冬。年を跨いでも、筆圧は変わらない。字の大きさも、行の間隔も、句読点のない短い文も、十年分すべてが同じだった。病気で手が震えたはずの最後の数頁でさえ、文字は乱れていなかった。
私は最初の頁へ戻り、最後の頁へ進み、また途中へ戻った。
同じ一行が、何百、何千と並んでいる。
書き手の感情がない。恐怖も、驚きも、疲労もない。ただ、来たという事実だけが記されている。
日記ではなく、点検表に近かった。
夜が来る。何かが来る。祖母はそれを確認し、書く。
私はページの端を親指で擦った。紙は乾いていたが、指先に細かな粉がついた。祖母の手の癖に似たざらつきだった。幼い頃、祖母は私の宿題を見ながら、紙の端を同じように擦っていた。書き損じた文字が残っていないか確かめるように。
「それ、何」
母の声がした。
振り返ると、母は戸口に立っていた。蛇口の水音は止まっている。
「祖母の日記」
「閉じて」

「十年分ある」
「玲司」
「毎日、同じことが書いてある。『今夜も来た』。誰が来たんだ?」
母は答えなかった。
「母さんは知ってるのか」
「知らない」
「知らない人の顔じゃない」
「あなたには関係ない」
「祖母のことだ」
「死んだ人のことを、今さら調べてどうするの」
「今さらだからだよ。生きているうちに聞けなかった。俺が聞かなかった。母さんも聞かなかった。だから、残ったものを見るしかないだろ」
母は部屋へ入り、日記を覗き込んだ。だが手は伸ばさない。日記の上に落ちた自分の影を見ているだけだった。
「しのさんは、何でも書く人だった?」
「書く必要があることだけ書く人よ」
「じゃあ、これには必要があったんだ」
「そうね」
「何の?」
母は、すぐには答えなかった。返事をする前に一拍置く癖が、祖母と同じだった。
「知らないほうがいいことの記録」
「それは答えになってない」
「答えにしようとしないで。答えにしたら、あなたは次を聞く。次を聞いたら、確かめたくなる。確かめに行ったら、戻れなくなる」
「脅してるのか」
「脅しているなら、もっと強く言うわ。日記を閉じて、箪笥へ戻して、明日の朝ここを出て。家は売ればいい。壊してもいい。あなたが何も知らないまま東京へ帰れば、それで終わるの」
「終わってないから、母さんは今も水を流してる」
母の顔が歪んだ。
泣くような表情ではなかった。何かを思い出しかけた人間が、記憶の手前で扉を押し戻すときの顔だった。
「玲司。ここで夜の音を聞いても、返事をしないで」
「夜の音?」
「名前を呼ばれても。戸を叩かれても。私の声に聞こえても」
「何の話だよ」
「いいから、返事をしないで」
「母さんが説明しないから、祖母も十年ひとりで書き続けたんじゃないのか。守ったつもりかもしれないけど、黙っていたせいで、俺は何も知らずにこの家へ来た。何も知らない人間が一番危ないんじゃないのか」
「知っている人間のほうが危ないの」
「どうして」
「知ってしまったら、確かめたくなるからよ」
母はそれだけ言って、廊下へ出た。
夕方、山の向こうから霧が降りてきた。法要のために張っていた白い布を取り込み、私は日記を鞄へ入れた。母は何度も帰る支度をしたが、外が暗くなると車を出さなかった。山道を夜に下るのは危険だという理由だった。
夕食は、法要の残りの煮物と、冷めた味噌汁だった。
母は湯呑みを私の右側へ置いた。私はそれを中央へ移した。母はまた右側へ戻した。祖母がいつも置いていた位置だった。
「日記は持って帰るの?」
「読む」
「読んでどうするの」
「分からない。分からないけど、捨てるわけにはいかない」
「あなたは、昔からそうね。壊れた時計も、破れた本も、直せるかもしれないと言って取っておく。もう使えないものまで、使えない理由を調べようとする」
「母さんは、理由を調べないまま捨てる」
「捨てれば、手元からはなくなるでしょう」
「なくなったことと、終わったことは違う」
母は味噌汁の椀を持ったまま、目を伏せた。
「あなたを守りたかったのよ」
「何から」
「この家から」
「なら、どうして何も教えなかった」
「教えたら、あなたが覚えてしまうから」
「俺はここで育った。もう覚えているよ」
「覚えていない」
母は静かに言った。
「覚えていないから、まだ帰れると思っている。覚えていないから、日記を読める。覚えていないから、自分で確かめれば済むと思っている。でも、ここはそういうふうにできていないの」
その言い方が、妙に具体的だった。
「ここは、どういうふうにできていないんだ」
「質問を続けないで」
「母さん」
「今夜は、名前を呼ばれても返事をしないで。お願いじゃない。約束して」
「約束する理由を言ってくれ」
母は湯呑みを置いた。
「理由を聞く人は、理由を知ったあとで必ず返事をするから」
それきり、食卓には箸の触れる音しか残らなかった。
夜、母は祖母の部屋で眠ると言った。私は座敷に布団を敷いた。戸締まりを確認し、雨戸を閉め、仏間の襖を最後まで押し込む。桟に指を沿わせると、中央だけがひどく湿っていた。
台所で水を汲んだ。
朝には透明だった水が、今は薄く濁っていた。コップを灯りへ透かすと、灰色の粉が底へ沈んでいく。口をつける気にはなれず、流しへ戻した。
家の中を一巡する。
祖母の部屋。仏間。座敷。台所。
裏の石段へ続く戸の前で、足が止まった。外から風が入っている。井戸の蓋がずれているのかもしれない。確かめるべきだと思った。だが母の言葉が、頭の中で繰り返された。
返事をしないで。
私は戸を開けず、座敷へ戻った。
障子に、濡れた跡が浮かんでいた。
最初は染みだと思った。雨漏りか、結露か。だがそれは、畳から少し離れた高さにあり、細長い形をしていた。足の裏に似ている。ひとつだけ。片方しかない足跡が、障子紙の内側から押しつけられたように浮かんでいる。
指で触れようとして、やめた。
濡れた跡は、じわじわと濃くなった。
誰かが今、向こう側から足を置いている。
私は懐中電灯を向けた。光の円の外で、雨戸が鳴った。
内側から、押されたように。
続いて、土間のほうで何かが擦れた。
足音ではなかった。足音なら、床板が沈む。これは床板の下を、湿ったものが這う音だった。
私は息を止めた。
廊下の奥から、声になりかけた気配がした。
母の声に似ていた。
けれど、母は隣の部屋にいる。
気配はもう一度、息を吸った。
名前を呼ばれる前の、ためらうような間だった。
私は懐中電灯を握り直し、唇を閉じた。
障子の濡れた足跡が、もう一つ増えた。
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