8話 礼の重さ

家に戻ると、玄関の内側にまで味噌汁の匂いが流れていた。

部室にこもっていた汗と洗剤の匂いとは、同じ空気の中にあるとは思えないほど違う。部室の匂いには、使い終えたものがまだ熱を持っている感じがあった。土のついたスパイク、湿ったタオル、誰かが脱ぎ捨てた練習着。どれも昨日の時間を抱えたまま、片付けられるのを待っていた。

家の匂いには、これから始まるものの温度があった。

「おかえり」

台所から母の声がした。

美佐子は流しの前に立ち、弁当箱を洗っていた。俺が帰ってきたことに気づいているのに、手は止めない。スポンジが弁当箱の角を擦る音と、水の流れる音が、朝から続く生活の手順みたいに響いている。

「ただいま」

そう答えてから、俺は鞄の中に手を入れた。

返された白いタオルは、畳んだまま入れてある。校門で瀬尾から受け取って以来、何度も角を揃え直したせいで、折り目の部分だけが少し柔らかくなっていた。右下には、昨日のグラウンドの土が灰色の跡になって残っている。

母は、俺の手元を一度だけ見た。

「それ、昨日の?」

「うん」

「洗う?」

「あとで」

「そう」

母はそれ以上聞かなかった。戸棚から茶碗を出し、俺の前へ味噌汁を置く。湯気が顔に触れた。外はもう夏の暑さを戻し始めているのに、椀から立ち上る熱には、朝の台所だけにある静けさがあった。

「食べる?」

「うん」

椅子に座る。箸を持った指先に力が入り、木の箸が小さく鳴った。

母は何も言わず、焼いた魚の皿を少しだけ俺の近くへ寄せた。

味噌汁をすする。熱い。舌の先が痺れ、出汁の味が遅れて広がる。大根と油揚げの匂いが鼻へ抜けた。

それでも、胸の奥にはまだ昨日の土の匂いが残っていた。

相手のフォワードが左から抜けたときの、湿った芝の匂い。スパイクが土を削る音。笛が鳴る直前に、誰かが叫んだ短い声。あの数秒間は、味噌汁の湯気の向こうで何度でも再生された。

母は、俺の顔を見ずに弁当箱を伏せた。水切りかごの中で、蓋が小さく触れ合う。

「学校で、何かあったの」

声は、鍋の中身を確かめるような調子だった。

俺は箸を置いた。

「タオルが返ってきた」

「タオル?」

「昨日、ベンチに置き忘れたやつ」

母は水を止めた。けれど、振り返らない。俺が続きを話すかどうかを待つときの姿勢だった。

「相手の学校の一年生が、返しに来た。青波学院の子。自転車で」

「自転車で、ここまで?」

「三十分くらいかけて」

母は布巾で手を拭いた。それから、食卓の端に置いたタオルを見た。

「きちんとした子ね」

「……うん」

「勝った側なのに?」

俺は顔を上げた。

母は、俺の言葉を先回りしたわけではなかった。ただ、俺の中で引っかかっているものを、乱暴に掘り返さないように、そっと指で触れただけだった。

「勝った側だから、余計に分からない」

「何が?」

「俺たちに勝って、向こうは喜んだはずだ。試合のあと、俺たちは何もできなかった。荷物をまとめて、挨拶をして、帰った。向こうは勝って、たぶん声を出して、肩を叩き合って、それで終わったと思っていた」

「でも、終わらなかった」

「タオルが残っていたから」

母は空いた皿を一枚下げた。

「タオルが残っていたから、終わらなかったの?」

「……俺には、そう思えた。あれが返ってこなかったら、昨日の試合は負けたまま、どこにも行かずに残っていた気がする」

母はしばらく黙っていた。台所の古い時計が、秒針を一つ進める。窓の外では蝉が鳴いている。声は大きいのに、夏の初めほどの勢いはなかった。

「湊は、負けたことと、タオルを置き忘れたことを同じにしているのね」

「同じじゃない」

「同じじゃないのに、同じところへ置いている」

言い返そうとして、やめた。

母の言うとおりだった。失点したことも、声が届かなかったことも、最後まで立っていられなかったことも、ベンチにタオルを残したことも、全部ひとつの箱に入れていた。部長として見落としたもの。チームを背負った人間が最後に取りこぼしたもの。そう思えば、敗北の重さを手放さずに済む。

「俺が忘れたんだ」

「そうね」

「忘れたのは事実だ」

「そうね」

「だから、責任がある」

「それも、そうね」

母は否定しなかった。

簡単に慰めることもしなかった。俺の不注意をなかったことにせず、責任を軽くもしない。そのうえで、魚の骨を小皿へ移し、散った米粒を指先で拾った。

「でも、拾った人のことまで、湊が責任を持つ必要はないでしょう」

「……どういう意味」

「落としたものを、誰かが拾ってくれた。そのことまで、自分の失敗の中に戻してしまったら、拾ってくれた人の手がなくなるじゃない」

俺は、返されたタオルを見た。

瀬尾は校門の境目に立っていた。白いシャツの肩は汗で濃くなり、額にも汗が浮いていた。それでも、タオルを両手で支え、俺が受け取れる位置まで黙って待っていた。

あの手つきが、まだ指先に残っている。

「瀬尾は、勝ったことと返すことは別だと言っていた」

「そう」

「勝ったから偉いわけじゃない。勝ったことを理由に、相手を雑に扱わないだけだって」

「それは、いいことね」

「でも、俺は……」

言葉が止まった。

母は急かさない。鍋の蓋を少し持ち上げ、弱火に戻す。湯気が細く漏れ、台所の窓を白く曇らせた。

「俺は、相手を憎んでいたほうが楽だった」

母は黙っている。

「向こうが嫌なやつなら、負けたことを相手のせいにできる。もちろん、本気でそう思っていたわけじゃない。でも、勝った側は高慢で、こっちを見下していると思っていたほうが、悔しさを持っていられた。相手が強かったと認めたら、俺たちが負けたことまで、きちんと認めなきゃいけなくなる気がした」

「認めることと、許すことは違うわ」

母の声は静かだった。

「相手を認めても、悔しさまで捨てなくていい。湊が最後まで走ったことも、負けたことも、相手が強かったことも、全部同じ日に起きたことでしょう」

「全部、本当でいいのか」

「本当でしょう。どれか一つに決める必要はないわ」

俺は味噌汁の椀を両手で持った。まだ熱い。さっきより少しだけ冷めている。それでも、急いで飲むと喉を焼きそうだった。

「勝った相手を認めたら、俺たちの三年間が軽くならないか」

「どうして軽くなるの」

「負けたから」

「勝たなかったことと、やってきた時間の重さは別でしょう。湊が勝てなかったからといって、毎朝起きて、走って、誰かの荷物を持って、誰かの顔色を見て、部長として立っていた時間まで消えるわけじゃない」

母は、そこで初めて俺を見た。

「それに、相手がきちんとしていたことを認めるのは、湊たちの負けを小さくすることじゃないでしょう。むしろ、相手がちゃんと強かったと認めることになる。負けた側にも、それくらいの誇りはあっていいんじゃない」

胸の奥に、細い針が入った。

静かな誇りという言葉を、俺はまだ口にできなかった。けれど、敗北をただの失敗にしないためには、相手の強さから目を逸らさないことも必要なのだろう。

タオルを広げる。

右下の灰色の跡に、土の粒がいくつか残っていた。指でなぞると、ざらりとした感触が返ってくる。瀬尾が拾った場所の土。俺が最後に踏みしめた場所の土。俺たちが負けた場所と、青波学院が勝った場所は、一枚の布の上で分けられずに残っている。

「洗うなら、今日のうちにね」

母が言った。

「うん」

「汗が残ると、匂いが取れにくいから」

「……このままにしておきたい」

「汚れを?」

「今は」

母は少し考えるように、流しの脇に置いた布巾を畳んだ。

「汚れがあるから、置いておきたいの?」

「分からない。ただ、洗ったら、昨日のことまで全部消える気がする」

「洗濯で消えるのは、汗と土だけよ」

「それでも」

「それでも、なのね」

母はそれ以上、何も言わなかった。

俺はタオルを四つに折った。角は一度では揃わなかった。二度目も少しずれた。いつもなら、端を指で押さえ、何度でもやり直す。けれど今日は、ずれたまま手を止めた。

完全に揃っていなくても、布は畳める。

そのことを、初めて知ったような気がした。

「おかわり、いる?」

母が聞いた。

俺は椀を差し出した。

「うん」

母は受け取り、鍋の蓋を開ける。湯気が勢いよく立ち上がり、母の顔を一瞬、白く隠した。味噌と玉ねぎの甘い匂いが広がる。

「熱いからね」

「分かってる」

「分かっていても、急いで飲むでしょう」

「今日は急がない」

「そう」

母は、少しだけ口元を緩めた。

椀を受け取る。両手に熱が移る。瀬尾がタオルを渡したときの手つきが、ふいに頭へ浮かんだ。返す側が急がなければ、受け取る側も、自分の速度で手を伸ばせる。

俺は味噌汁を少し冷ましてから口をつけた。

熱は残っていた。けれど、今度はその熱を、熱いまま飲み込めた。

食卓の脇に、白いタオルが置かれている。

昨日まで、それは見落としの形をしたものだった。終わりきらない失敗であり、負けた試合が残していった小さな証拠だった。

今は、それだけではない。

自分が落としたものを、誰かが拾った。拾った誰かは勝った側にいて、それでも相手のものを雑に扱わなかった。俺はそのことを、きれいな美談にするつもりはない。悔しさは残っている。失点も、遅れた一歩も、部長として足りなかったものも、消えてはいない。

ただ、返された礼を、礼として受け取ることはできる。

それは負けを忘れることではなく、負けた自分を、負けたまま見捨てないことなのかもしれなかった。

「今日、午後はどうするの」

母が聞いた。

「部室の片付け。後輩に引き継ぐものもある」

「そう」

「鍵も、返す」

母の手が、布巾の上で止まった。

「鍵も?」

「北川先生に。部長として持っていたから」

「そう」

母はそれ以上、何も聞かなかった。代わりに、食卓の端のタオルへ視線を落とす。

「帰ってきたら、洗濯機を回しておくから」

「自分でやる」

「分かった」

「俺がやる」

「分かったわ」

その返事に、押しつける気配はなかった。任せる、という意味だけが残った。

俺はタオルを鞄へしまった。折り目は少しずれている。灰色の土も残っている。けれど、直さなかった。

窓の外では、夏の終わりの蝉が鳴いていた。声は大きいのに、どこか疲れている。開けた窓から湿った風が入り、首筋に残った汗をゆっくり乾かしていく。

味噌汁の湯気は、もう薄くなっていた。

それでも、その温度は胸の奥に残っていた。

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