第7話 校門の風

瀬尾が帰ってからも、俺は校門のそばを離れなかった。
白いタオルは、手の中にある。返されたときの形のまま、四つに畳まれている。右下に残った灰色の汚れが、朝の光を受けて薄く浮かんでいた。水で洗えば落ちるかもしれない。けれど、今は洗う気になれなかった。
瀬尾が自転車を押して去っていった道の先には、隣町へ続くゆるい坂がある。車が一台通るたび、濡れた路面の匂いが風に混じって戻ってくる。青波学院へ向かう道は、朝の光の中で白く伸びていた。ついさっきまで、そこに瀬尾の背中があった。
俺は、その背中を見送ったあと、部室へ戻ろうとした。
ベンチの端には、まだ昨日の空白が残っていた。水道の蛇口からは細い水が落ち、濡れたコンクリートに円い跡を作っている。悠真は部室の床を拭き、北川先生は入口の横に立っていた。やるべきことは残っていた。用具の確認も、練習ノートの整理も、後輩への引き継ぎも終わっていない。
それなのに、足が校門の外へ向いた。
青波学院へ行くつもりではなかった。今から追いかけたところで、瀬尾に何か言えるとも思えない。自転車で三十分かかる道を歩いていけば、午前が終わる。そんなことをしても、試合の結果が変わるわけではない。
ただ、帰る前にもう一度、瀬尾の顔を見ておきたかった。
それだけだった。
「湊」
後ろから悠真が呼んだ。
振り返ると、悠真が部室の入口に立っていた。手には、さっきまで使っていた雑巾がある。片方の肩だけが濡れていた。
「どこ行くんだよ」
「校門」
「それは見れば分かる。校門のどこへ行くんだ、じゃなくて、何をしに行くんだって聞いてる」
「待つ」
「誰を?」
俺は答えなかった。
悠真は、俺の手元を見た。畳まれた白いタオル。角のところを、俺の指が何度も押し直している。
「瀬尾を待つのか」
「……たぶん」
「たぶんって、あいつはもう帰ったぞ。自転車で青波まで戻るんだろ。途中で道草でもしていれば別だけど、あのタイプは道草より信号を気にする」
「それでも、待つ」
悠真は眉を上げた。いつもの軽口が出かかったらしい。口元が少し動いたが、結局、何も言わなかった。
代わりに、雑巾を部室の脇にあるバケツへ放り込む。
「俺も行く」
「来なくていい」
「そう言うと思った。だから行く」
「片付けは」
「先生がいる。先生がいれば、部室は燃えない」
「燃やすな」
「例えだよ。お前、今日はいちいち言葉の火元を確認するな」
悠真はそう言って、俺の隣まで来た。けれど肩を並べきらず、半歩だけ後ろに下がる。俺に道を譲っているのか、俺の背中を見ているのか、そのどちらともつかない位置だった。
校門の柱には、昨夜の雨の筋が残っていた。指で触れると、ざらついた塗装の下に湿り気がある。外へ出ると、風が首筋を抜けた。シャツの襟から入り込んだ冷たさが、汗の残る肌を撫でていく。
「朝の風、ずるいよな」
悠真が言った。
「何が」
「夏のくせに、朝だけ涼しい。まだ終わってない顔をして、先に次の季節へ行こうとする」
「季節に顔はないだろ」
「あるだろ。昨日の湊よりは、ずっと愛想がいい」
「俺を季節と比べるな」
「比べてない。季節のほうがまだ話しやすいって言ってる」
俺は返事をせず、校門の脇にある低い石垣へ腰を下ろした。表面が朝露で冷たかった。タオルを膝に置く。白い布は、風が吹くたびに端だけが小さく揺れた。
夏草が、校門の外側へ倒れている。
昨夜の雨に打たれたのか、何本かは地面へ伏していた。それでも根元は青く、葉の先には細かな水滴が残っている。朝の光を受けた滴が、風のたびに震え、落ちる。落ちた場所は、誰にも気づかれないほど小さく濃くなった。
「何を言うつもりなんだ」
悠真が聞いた。
「分からない」
「ありがとうは言っただろ」
「言った。でも、あれだけじゃない気がする」
「謝るのはやめとけよ」
「謝るつもりはない」
「なら、告白か」
「何の」
「昨日の試合で、実は俺が全部悪かった、とか」
「お前に話してない」
「俺が聞いてるんだから、俺に話してるのと同じだろ」
悠真は石垣に腰を下ろした。俺との間に、拳ひとつ分ほどの距離を空ける。近すぎない。その距離が、今はありがたかった。
「俺はさ」と悠真が言った。「お前があいつを待ちたいなら、待てばいいと思う。ただ、待ってる間に、言うことをきれいに決めようとするなよ」
「どういう意味だ」
「お前、言葉にする前に整えようとするだろ。タオルの角みたいに。余計なところを削って、順番を揃えて、相手に渡しても恥ずかしくない形にしてから話そうとする。でも、人に渡す言葉って、そんなにきれいじゃないだろ」
俺は膝の上のタオルを見た。
「きれいにしないと、相手に失礼だ」
「それは物の場合だ。言葉まで洗濯表示に合わせなくていい」
「お前は、いつも適当すぎる」
「適当じゃない。適当に見せてるだけだ。そうしないと、俺まで全部まともに受け止めたら、たぶん身動き取れなくなるから」
悠真の声から、軽さが少し抜けた。
「でも、お前は逆だ。全部まともに受け止める。昨日の失点も、タオルの置き忘れも、部員の顔色も、北川先生の言葉も。そうやって何でも自分の中に入れるから、出ていく場所がなくなる」
俺は、校門の外へ目を向けた。
車道の向こうで、古い看板が風に揺れている。文字の一部が剥がれ、白い下地が覗いていた。見慣れた景色なのに、今朝はどこか遠い。部活を始める前の俺なら、ただの通学路として歩いていたはずの道だった。
「俺は、あいつに負けたことを認めたい」
口にしたあと、胸の奥が少し震えた。
「でも、それを認めたら、俺たちがやってきたことまで軽くなる気がしていた。勝てなかったなら、全部足りなかった。部長として、もっとできた。そう思っていれば、少なくとも俺は、昨日から動かずにいられる」
「動かずにいることが、責任を取ることになるのか」
「分からない」
「分からないなら、そこも整えるなよ」
悠真は靴先で地面を軽く叩いた。
「俺たちは負けた。それで終わりにする必要はないけど、負けてないことにする必要もない。湊が悔しいままなのは、誰も取り上げられない。だったら、悔しさを持ったまま次へ行けばいい。持ちきれないなら、少し俺に持たせろ」
「お前に?」
「俺だって副部長だったんだぞ。荷物持ちくらいできる」
「それは仕事が違う」
「細かいなあ。引退したのに、まだ部長の顔してる」
「……悪いか」
「悪くない。悪くないから、困ってる」
悠真は笑わなかった。
「その顔のまま、ずっとここにいたら困るんだよ。お前が部長だった時間は、昨日の負けで消えない。でも、昨日の負けだけを見ていたら、その時間を自分で捨てることになる」
風が吹いた。
夏草の匂いが、濡れた土の上を滑ってくる。俺は首筋を押さえた。冷たい風が、汗の乾いた皮膚を撫でていた。
遠くで、自転車のチェーンが鳴った。
最初は、車道を通った誰かの音だと思った。けれど、その音は一度止まり、また近づいてくる。細いタイヤが路面の継ぎ目を越えるたび、乾いた振動がこちらまで届いた。
悠真が立ち上がった。
「来た」
「まだ分からない」
「俺の耳をなめるなよ。昨日から自転車の音を覚えすぎてるんだ」
校門の向こうに、青いチームバッグが見えた。
瀬尾は自転車を押していた。先ほどと同じ道を、今度は反対側から戻ってくる。額には新しい汗が浮かび、シャツの肩はさっきより濃くなっていた。それでも、襟元は乱れていない。自転車の鍵へ触れた指が、確かめるように一度だけ動く。
俺は立ち上がった。
瀬尾は俺たちに気づくと、ブレーキを握った。タイヤが小さく鳴り、車体が止まる。前と同じように、まず自転車を道路の端へ寄せ、それからこちらへ会釈した。
「湊さん」
「戻ってきたのか」
「はい」
「忘れ物でもした?」
悠真が聞くと、瀬尾は一瞬だけ考えた。
「いいえ。途中で、言い忘れたことがあると思いました」
悠真が俺を見る。俺は、返事の前に一拍置いた。
「何を」
瀬尾は自転車のスタンドを立てた。青いバッグの紐を直し、両手を体の前へ揃える。その所作を見ていると、こちらまで姿勢を正さなければならないような気がした。
「昨日の試合で、ありがとうございました」
「それは、さっきも聞いた」
「はい。でも、湊さんは、受け取っただけだったので」
俺は言葉を失った。
瀬尾は続けた。
「勝った側が言うと、嫌味に聞こえるかもしれません。だから、言わないほうがいいのかとも思いました。でも、白嶺高校が最後まで走っていたことは、僕たちも見ていました。僕は途中から出たので、湊さんと同じ時間を全部走ったわけではありません。それでも、試合の中で何度も声を聞きました。味方の位置を伝えて、戻る方向を指示して、苦しい時間に立ち続けていた。そういう相手に、勝ったことだけを持って帰るのは違うと思いました」
「俺たちは負けた」
「はい」
「最後に、俺が遅れた」
「はい」
「そのせいで失点した。もっとできたことがあった」
「そうかもしれません」
瀬尾は否定しなかった。
「でも、僕には、湊さんが全部悪いとは思えません。僕たちも、勝った試合の中で、できなかったことをいくつも覚えています。勝ったから、そこをなかったことにはできません」
その言葉は、慰めではなかった。俺の失点を消そうとしない。俺が負けたことも、悔しさも、そのまま置いたうえで、それでも別のものを見ようとしている。
それが、ありがたかった。
「お前は、勝ったのに、負けた側みたいな話をするんだな」
悠真が言った。
瀬尾は、少しだけ首を傾けた。
「勝った側にも、負けた側にも、試合の中でできなかったことは残るので」
「じゃあ、勝ったって、どんな感じなんだ」
悠真の声に、今度は本物の興味が混じっていた。
瀬尾は車道の先へ視線を向けた。青波学院へ続く道。その先にある自分の学校と、今日これから始まる練習を思っているのかもしれない。
「昨日の夜は、うれしかったです。先輩たちも喜んでいましたし、僕も、出た試合で勝てたので。でも、家に帰って靴を脱いだら、足の裏が痛くて、風呂に入ったら眠くなって、寝ました」
悠真が吹き出した。
「急に現実的だな」
「勝ったあとも、眠くなります」
「そりゃそうだ」
「朝起きたら、タオルのことを思い出しました。先輩に見せたら、今日返してこいと言われました。だから来ました」
「それだけか?」
俺が聞くと、瀬尾は俺の手の中のタオルを見た。
「それだけで十分だと思っています」
その返事に、胸の中で何かが静かに沈んだ。
俺はタオルを広げた。端の灰色の汚れが、さっきよりはっきり見える。昨日の土だ。俺が最後に踏んだ土。瀬尾が拾った場所の土。俺たちが負けた場所と、青波学院が勝った場所は、同じ一枚の布に残っている。
「俺も、言い忘れたことがある」
瀬尾は黙って俺を見た。
「昨日、お前たちに負けた。悔しい。今も悔しい。たぶん、しばらくは試合の映像を見たくないし、青波学院の名前を聞くだけで、あの失点を思い出すと思う」
悠真が、何も言わずに隣に立っている。
「でも、強かった。お前たちが、最後まで自分たちのやることを崩さなかった。俺たちは崩れた。だから負けた。そこは認める。認めても、悔しいものは悔しいままだ」
瀬尾は、まっすぐ俺を見ていた。
「はい」
「それから、タオルを返してくれて、ありがとう。俺が見落としたものを、お前が拾ってくれた。昨日の俺には、見えていなかったものを」
言葉は、途中で何度も喉につかえた。けれど、整え直さなかった。言い直してきれいにするより、いま出てきた順番のまま渡すほうが正しい気がした。
瀬尾は深く頭を下げた。
「受け取ってもらえて、よかったです」
「返してくれたのは、お前だろ」
「はい。でも、返すだけでは終わらないので」
瀬尾は顔を上げた。
「持ち主が受け取ってくれないと、返したことにならないと思います」
その言葉が、タオルだけを指しているのではないように聞こえた。
俺は、白い布を胸の前で握った。汗の乾いた匂いと土のざらつきが、指に残る。昨日の夏は、まだ終わっていない。けれど、終わらないまま同じ場所に留まることと、誰かの手を通って続いていくことは、違うのかもしれなかった。
悠真が、わざとらしく咳払いをした。
「なあ、瀬尾」
「はい」
「次に会うときは、返却物なしで頼む。毎回タオルを落とす部長みたいになると、俺たちの管理能力が疑われる」
「分かりました」
瀬尾は少しだけ笑った。
「でも、次は僕が落とすかもしれません」
「そのときは俺が返す」
思わず口に出ていた。
瀬尾は目を瞬かせ、それから静かに会釈した。
「お願いします」
その一言が、妙に長く残った。
自転車のスタンドが上がる。瀬尾はペダルへ足をかける前に、もう一度だけ校門と俺たちを見た。相手を確認するような視線だった。敵でも、勝者でも、敗者でもない。ただ、昨日同じ場所で走った選手を見る目。
「では」
「うん」
「白嶺高校の皆さんにも、よろしくお伝えください」
「俺から言う」
「お願いします」
瀬尾は自転車に乗った。チェーンが回り、細いタイヤが路面を滑っていく。朝の光の中で、青いバッグが揺れた。夏草の先が風に押され、道の端へ伏していく。
俺は、その背中が坂の向こうへ消えるまで見送った。
「今度は、ちゃんと礼を言えたな」
悠真が言った。
「お前に言われると、採点されてるみたいで嫌だ」
「採点じゃない。記録。元部長の成長記録」
「やめろ」
「はいはい。でも、部長は終わっても、記録係は続けるから」
「何の」
「湊が何を見落として、何を拾い直したかの」
俺は返事をしなかった。
校門の柱から背を離す。掌の中で、タオルの角が少し崩れていた。いつものように揃え直そうとして、やめる。風が吹き、白い布の端が手の中でわずかに動いた。
「部室、戻るか」
悠真が言った。
「うん」
「片付け、まだ終わってないぞ」
「分かってる」
「鍵も先生に返さなきゃな」
「分かってる」
俺たちは校門をくぐった。
古い校舎の壁には、朝の光と夏草の影が重なっている。グラウンドからは、雨を含んだ土の匂いが立っていた。部室前の水道では、蛇口の先からまた一滴、水が落ちた。
俺は足を止め、蛇口をきちんと閉めた。
それから、タオルを鞄へしまった。折り目は少しずれている。灰色の汚れも残っている。けれど、もう直す必要はなかった。
返されたものを、返されたまま持っていく。
その重さを抱えたまま、俺は悠真と一緒に部室へ歩き出した。
← 横にスクロールして読み進められます
