6話 朝食の湯気

家に戻ると、食卓には味噌汁の湯気が立っていた。

玄関を開けたときから、出汁の匂いがしていた。部室に残っていた汗と洗剤の匂いとは、同じ朝の空気に含まれているとは思えないほど違う。あちらには、使い終えたものがまだ熱を抱えている感じがあった。こちらには、何かを始めるために鍋の蓋が開かれたような匂いがある。

「おかえり」

台所から母の声がした。

振り向くと、美佐子は流しの前で弁当箱を洗っていた。俺の姿を見ても、手を止めなかった。水の流れる音が一定に続き、スポンジが弁当箱の角を擦るたび、小さな泡が白く膨らんでは消えていく。

「ただいま」

声を出してから、少し妙な気がした。学校へ行って、帰ってきただけなのに、どこか別の場所から戻ったような言い方になった。

母は返事をせず、戸棚から茶碗を出した。いつもの茶碗だった。縁に細い青い線が入っている。中学の頃から使っているもので、何度か欠けたことがあるのに、まだ捨てずに残っている。

「食べる?」

問いかけの形をしているが、母はもう味噌汁をよそっていた。

俺は椅子を引いた。脚が床を擦り、短い音がした。腰を下ろしてから、手の中にタオルがあることを思い出した。校門で受け取って、そのまま持って帰ってきた。畳んだまま、鞄の上に置いていたらしい。

白い布を、食卓の端へ置く。

右下に、灰色の汚れが残っている。水で流せば落ちるかもしれない。洗剤をつけて揉めば、たぶん消える。それなのに、指を伸ばす気にはなれなかった。

母はタオルを見た。

「それ、昨日の?」

「……うん」

「洗う?」

「あとで」

母は、それ以上聞かなかった。タオルを手に取ろうともせず、味噌汁の椀を俺の前へ置いた。

「熱いからね」

湯気が顔に触れた。湿った熱が、目の周りと鼻の下を包む。外はもう夏の暑さを取り戻し始めているはずなのに、椀から立つ湯気には、朝の台所だけにある静かな温度があった。

箸を持つ。指先に力が入りすぎて、木の箸がわずかに鳴った。

母はそれを見ていたのかもしれない。けれど、何も言わずに蛇口を閉めた。弁当箱を伏せ、水切りかごの中の皿を重ねる。置く順番までいつも同じだった。

味噌汁を一口すする。

熱かった。舌の先が少し痺れ、出汁の味が遅れて広がった。大根と油揚げの匂いが鼻へ抜ける。味は分かる。分かるのに、胸の奥にはまだ昨日の土の匂いが残っていた。

相手の選手が左から抜けたときの、湿った芝の匂い。スパイクが土を削った音。誰かの声が一度だけ裏返ったこと。笛が鳴ったあと、観客席から落ちてきた息のようなざわめき。

その全部が、味噌汁の湯気の向こうに浮かんだ。

俺は椀を置いた。

「食べられない?」

母が聞いた。

「食べられる」

「そう」

母は、焼いた魚の皿を少しだけ俺の近くへ寄せた。

それだけの動きだった。けれど、今はその小さな手つきがありがたかった。食べろと言われるより、食べられる場所へ皿を置かれるほうが、俺には受け取りやすい。

箸で魚の身をほぐす。皮がぱり、と音を立てた。

「学校で、何かあったの」

母の声は、鍋の中身を確かめるように静かだった。

俺は返事をする前に、一度箸を置いた。

「タオルが返ってきた」

「タオル?」

「昨日、ベンチに置き忘れたやつ」

母は流しの前で、濡れた手を布巾で拭いた。聞き返したのは、意味が分からなかったからではない。俺がそのことを話すまで、待つためだった。

「相手の学校の一年生が、返しに来た。自転車で」

「自転車で?」

「青波学院から。三十分くらいかけて」

母は少しだけ目を見開いた。それから、食卓のタオルへ視線を戻した。

「きちんとした子ね」

「……うん」

その言い方に、俺はわずかに引っかかった。

「でも、勝った側だ」

「そうね」

「俺たちに勝った。二対一で。最後に決められて、俺たちはそこで終わった。向こうは勝って、たぶん喜んで、そのあとでタオルを拾って、俺の名前を確認して、今日ここまで来た」

自分でも、何を説明したいのか分からなかった。母は急かさず、茶碗の脇にこぼれた米粒を指先で拾った。

「それで?」

「勝った側が、そこまでするのが……」

言葉が止まった。

瀬尾の手を思い出す。タオルを掴まず、両手のひらで下から支えていた。汚れたものを返すというより、誰かが使っていた時間を壊さないように渡していた。

「勝った側だから、できることもあるんじゃない」

母が言った。

「負けた側は、自分のことで手いっぱいでしょう。拾いに戻る余裕なんて、ないこともあるから」

俺は顔を上げた。

母は、魚の骨を小皿へ移していた。視線を合わせないまま、言葉を続ける。

「勝ったから偉い、という話じゃなくてね。勝ったあとに、自分たちのことだけで終わらせなかったということでしょう。湊が悔しいのは、それでいいのよ。悔しいままでも、返してくれたことは別に受け取れるでしょう」

「別に?」

「勝ち負けと、礼儀は同じ皿に盛らなくてもいいもの」

母はそう言って、空いた皿を一枚、食卓の端から下げた。

その言葉が、瀬尾の言葉と重なった。

勝ったことと、返すことは別だと言っていた。母も同じように、勝敗と礼を分けて考えている。二人は会ったこともないのに、同じ場所へ物を置くように話していた。

「俺は、勝った相手を敵だと思っていた」

「試合中は敵でしょう」

「試合が終わっても、そう思っていたかった」

母の手が止まった。

「どうして?」

「そのほうが、負けたことを忘れずにいられるから。相手が嫌なやつなら、俺たちは悪くない。相手が勝ったことを認めたら、俺たちが負けたことまで、ちゃんと認めなきゃいけない気がして」

言葉にすると、ひどく幼い考えに聞こえた。

けれど母は笑わなかった。流しの水を弱く出し、濡れた皿を一枚ずつすすいでいく。

「認めることと、許すことは違うでしょう」

「……うん」

「相手を認めても、悔しさまで手放す必要はない。湊が頑張ったことも、負けたことも、相手が強かったことも、全部いっぺんに本当でいいのよ」

味噌汁の湯気が、母の横顔をぼかしていた。

俺は、瀬尾の姿を思い出した。汗でシャツを濃くしながら、校門の境目に立っていた。青波学院の自転車を押し、靴ひもをきちんと結び、返事の前に姿勢を整えていた。勝った少年が、勝ち誇るためではなく、返すためにそこにいた。

俺は、タオルへ手を伸ばした。

布を広げる。乾いた表面は少し硬い。右下の灰色の汚れを指でなぞると、土の粒がわずかに落ちた。

「洗濯機、空いてるよ」

母が言った。

「まだ、いい」

「洗う気はあるの?」

「ある」

「なら、あとで入れておきなさい。汗が残ると、匂いが取れにくいから」

実務的な忠告だった。けれど、俺にはそれが、タオルを捨てずに済ませるための言葉にも聞こえた。

俺はタオルを四つに折った。いつもなら、角を何度も合わせ直す。今日は一度目で揃わず、二度目で少しずれた。それでも、三度目には手を止めた。

完全には揃っていない。

だが、これでいいような気がした。

「きれいにしなくてもいいの?」

母が、タオルを見ながら言った。

「洗うけど」

「そうじゃなくて」

母の声が、少しだけ柔らかくなった。

「汚れが残っていても、タオルはタオルでしょう。使った時間まで洗い落とさなくていいんじゃない」

俺は、返事をしなかった。

洗えば、汗の匂いは消える。土も落ちる。洗い立ての布は、母が畳んだものと同じ柔らかさへ戻るだろう。けれど、瀬尾の手を通ってきたことまで消す必要はない。昨日の試合に負けたことも、タオルを置き忘れたことも、返しに来た少年の姿も、全部この布の周りに残っていればいい。

俺は魚の身を口へ運んだ。塩気が舌に広がった。さっきより味が分かった。

「おかわり、いる?」

母が聞く。

俺は椀を差し出した。

「うん」

母は椀を受け取り、鍋の蓋を開けた。湯気が一度、勢いよく立ち上がる。視界が白く曇り、その向こうで母の手が汁をよそっている。

「熱いからね」

「分かってる」

「分かっていても、急いで飲むでしょう」

「急がない」

「それならいいけど」

椀が戻ってくる。俺は両手で受け取った。瀬尾がタオルを渡したときの手つきが、ふいに頭へ浮かんだ。両手で支え、相手が受け取れるまで動かない。返す側が急がなければ、受け取る側も自分の速度で手を伸ばせる。

俺は、味噌汁を少し冷ましてから口をつけた。

熱はまだ残っていた。けれど今度は、熱いままでも飲み込めた。

食卓の脇で、白いタオルが静かに置かれている。昨日までなら、それは失敗の証拠だった。見落としの形をした、終わりきらないものだった。

今は、まだそれだけではない。

自分が落としたものを、誰かが拾った。その誰かが、勝った側でありながら、勝ったことを理由にせず、わざわざ返しに来た。俺はその礼を、きれいに感動へ変えることも、簡単な美談にすることもできない。悔しさは残っている。負けた事実も、俺の遅れた一歩も、なくなってはいない。

それでも、返されたものを返されたまま受け取ることはできる。

母が、空いた皿を一枚下げた。食卓の上には、まだ湯気が残っている。

「今日、午後はどうするの」

「部室の片付け」

「そう」

「後輩に引き継ぐものもあるから」

母はうなずいた。何かを言いかけたが、やめた。その代わり、タオルへ顎を向ける。

「洗うなら、早いほうがいいわよ」

俺は白い布を手に取った。

「帰ってから洗う」

「今じゃなくて?」

「今は、まだ持っていたい」

母は何も答えなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。

窓の外では、夏の終わりの蝉が鳴いている。声は大きいのに、昨日までの勢いはない。朝の涼しさはもう消え、開けた窓から湿った風が入ってきた。その風が、首筋に残った汗をゆっくり乾かしていく。

俺はタオルを膝の上で畳んだ。

角は少しずれていた。

けれど、直さなかった。

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朝食の湯気 - 返却線 - 誰でも作家life