5話 言葉の前にあるもの

瀬尾は校門の内側まで入らず、自転車を押したまま立っていた。

校門の鉄柵を境に、こちら側には白嶺高校の湿った土と古い校舎があり、向こう側には朝の車道と、まだ乾ききらない夏草がある。瀬尾はその境目から半歩も動かなかった。帰るでもなく、居座るでもない。誰かに言われたわけでもないのに、そこが相手の領分だと知っているような立ち方だった。

俺の手の中には、返された白いタオルがある。

乾いていた。けれど、乾いた布の奥に、昨日の汗と土の匂いがまだ残っている。何度も首にかけ、何度も洗ってきたタオルだ。俺のものだと分かるのに、瀬尾の自転車の荷台を越え、青波学院の誰かの手を通ってきた時間が、薄い膜のようにまとわりついていた。

「白嶺高校の湊さん、で合っていますか」

瀬尾がもう一度、確認するように言った。

「……俺です」

返事の前に、いつもの一拍が入った。声が出なかったわけではない。ただ、何を返せばいいのかが決まらなかった。

瀬尾は姿勢を正した。自転車のハンドルから手を離し、両手で持っていたタオルを、俺のほうへわずかに差し出す。布を掴むのではなく、下から受けるような持ち方だった。汚れたものを扱う手つきではない。かといって、特別なものを祭壇へ置くような大げささもない。

ただ、返す。

そのためだけに整えられた手だった。

「試合中、ベンチに落ちていたので」

瀬尾は言った。

声は低く、余計な響きがなかった。説明というより、拾った場所を報告しているように聞こえる。

俺はタオルへ手を伸ばしかけた。だが、指先が途中で止まった。

「それだけ?」

瀬尾が、わずかに目を上げた。

「はい」

「わざわざ、ここまで来て?」

「はい」

「自転車で?」

「青波学院から三十分ほどです」

「三十分……」

横で悠真が、喉の奥だけで笑った。

「返却係も大変だな。交通費、出るのか?」

瀬尾は悠真を見る。からかわれたことに腹を立てるでもなく、笑いに乗るでもない。少しだけ姿勢を整えた。話す前に、自分の言葉がどこへ届くかを確かめるような間だった。

「出ません」

「出ないんだ」

「返しに来るためのものなので」

「いや、そこは分かってるけどさ。普通、顧問の先生が郵送するとか、次の試合で渡すとか、そういう話にならない?」

「そういう方法もあると思います」

「あると思います、で終わるのかよ」

「はい。けれど、昨日のものを今日返すなら、今日、自分で来るほうがよいと思いました」

悠真の口元に浮かんでいた笑いが、少しずつ消えた。

瀬尾は、決して強い言い方をしているわけではない。正しさを振りかざしてもいない。だからこそ、こちらの軽口だけが、乾いた場所に落ちた小石のように響いた。

「お前、そういうの、全部自分で決めるのか」

悠真が訊いた。

「はい。返していいかは、昨日、先輩に確認しました」

「じゃあ、先輩に行けって言われた?」

「いいえ。返すなら、自分で行けと言われました」

「それはまた、ずいぶん面倒な教育だな」

「面倒だと思ったことはありません」

「思わないの?」

「思うことはあります。朝早く起きるのも、自転車で三十分走るのも、学校の場所を調べるのも、面倒ではありました。でも、面倒だからやらない理由にはならないので」

瀬尾はそこで言葉を止めた。

朝の風が校門を抜け、彼のシャツを背中へ張りつかせる。額に浮いた汗がこめかみを伝い、顎の下へ落ちた。それでも瀬尾は手の位置を崩さなかった。汗を拭うより先に、返すべきものを返す。そういう順番が、身体の中に決まっているようだった。

俺は、タオルを見た。

「名前、ついてないのに、よく俺のだと分かったな」

「試合中、何度も使っていたので」

「それだけで?」

「それだけではありません。白嶺高校のベンチに置かれていたものですし、他のタオルより端が少し擦れていました。右下のタグも切ってあります。昨日、湊さんが首にかけているのを見ていたので、たぶんそうだと思いました」

「よく見てるな」

「見るのは、部員の仕事です」

「相手の持ち物まで?」

「試合中は、相手の動きも持ち物も見ます。どこへ戻るか、誰が誰に声をかけるか。物の位置が変わると、選手の動きも変わるので」

それはサッカーの話のはずだった。

けれど俺には、別のことを言われているように聞こえた。見落としたものを、見落としたままにしない。誰かの手元にあるものを、勝敗だけで判断しない。

俺はタオルへ視線を落としたまま、言った。

「俺は、お前たちのことをあまり見てなかった」

悠真がこちらを向いた。瀬尾も、何も言わずに俺を見ている。

「試合中は見ていた。相手の配置も、走り出すタイミングも、誰が疲れているかも。でも、試合が終わったあとのことは、見ようとしなかった。お前たちが勝って、喜んで、こっちを見下ろしている。そういうふうに思っていたほうが、俺には楽だったからだ」

口に出すと、思っていたよりも自分の声が弱く聞こえた。

「見下ろしていると思えば、悔しさを持っていられる。強かったから負けたんじゃなくて、相手が嫌なやつだったから負けたことにできる。そんなふうに考えていたわけじゃない。でも、たぶん、似たようなことをしていた」

瀬尾はすぐに否定しなかった。

「湊さんが、僕たちを嫌いでも、僕は困りません」

「……そうか」

「はい。試合のあとまで、相手に好かれる必要はないと思います。負けたなら、悔しいままでいいです。僕も、負けた試合のあとに、相手の選手から笑顔で声をかけられたら、たぶん素直には返せません」

悠真が小さく息を吐いた。

「そこは、ちゃんと高校生なんだな」

「高校生です」

初めて、瀬尾の口元がほんの少しだけ緩んだ。

笑ったというほどではない。けれど、整えられた所作の隙間から、年齢相応の少年らしさが覗いた。その表情が、かえって俺の胸を苦しくさせた。瀬尾は礼儀のために感情を消しているわけではない。悔しさも、面倒くささも、勝ったことへの実感も持ったまま、それでも返しに来ている。

「じゃあ、どうして」

俺は聞いた。

「どうして、そこまでして返すんだ。勝った側なら、置いて帰っても誰も責めないだろ」

瀬尾は一度、自転車の鍵へ目を落とした。指先で鍵の頭を確かめ、それから俺を見る。

「返さないままだと、気になるからです」

「気になる?」

「はい。落ちているものを見つけたのに、そのままにしておくと、練習中も思い出します。あれはどこに行ったのか、持ち主は困っていないか、誰かが踏んで汚していないか。考え始めると、次のことに集中できません」

「それで、三十分」

「三十分です」

「タオル一枚のために?」

「タオル一枚だから、です」

瀬尾の言葉は、そこで初めて少しだけ硬くなった。

「一枚だから放っておいていい、とは思えません。大きなものなら誰かが拾います。でも、小さいものは見落とされます。見落とされるものを、見つけた人まで見落としたら、ずっと残らないので」

校門の外で、トラックが水たまりを踏んだ。タイヤが水を弾く音が遠ざかり、また朝の静けさが戻る。

俺は、ベンチの端を思い出した。

俺が置き忘れた白いタオル。試合の終わりに誰にも気づかれず、そこに残ったもの。俺自身は、それを自分の不注意としてしか見ていなかった。最後まで片づけられなかった部長の失敗。敗北と一緒に置き去りにした、みっともない証拠。

けれど瀬尾は、それを見つけた。

見落とされたものを、もう一度見た。

「お前たちは、勝ったあとも、そういうことをするのか」

「そういうこと、というのは」

「相手の忘れ物を拾うとか、片づけるとか。勝ったら、普通は自分たちのことで精いっぱいだろ」

「自分たちのこともします。道具を片づけて、着替えて、先生の話を聞いて、帰ります」

「その途中で、相手のものも見る?」

「見ます」

「勝ったのに?」

「勝ったから、だと思います」

「勝ったから?」

瀬尾は、また一拍置いた。

「勝ったあとに浮かれて、相手を雑に扱うと、勝ったことまで雑になるからです」

その言葉は、瀬尾自身のものではないのかもしれない。先輩から受け取った言葉なのだろう。だが、口にするだけの借り物には聞こえなかった。何度も反芻し、自分の動きとして使えるところまで身につけた人間の声だった。

「勝ったことまで雑になる、か」

俺は呟いた。

「はい。先輩に言われました。相手がいたから試合ができたのに、試合が終わった途端、相手のものを放っておくのは、試合そのものを途中で捨てるのと同じだ、と」

「試合の一部は、笛が鳴ったあとにもあるってことか」

「僕は、そう聞きました」

「お前は、それを信じてる?」

瀬尾は俺をまっすぐ見た。

「まだ、全部は分かりません。でも、分からないからやらない、というのも違うと思っています。先輩たちがそうしてきたなら、まず自分もやってみる。やってみて、あとから意味が分かることもあるので」

悠真が鼻の下を指でこすった。何か言おうとして、やめるときの癖だった。

俺はそれを見た。悠真は普段なら、この場面にも冗談を差し込む。青波学院の礼儀正しさを茶化して、俺が少し息をしやすくなるようにするはずだった。だが今は黙っている。瀬尾の言葉を笑いに変えると、何か大切なものまで軽くなると分かっているのだろう。

その沈黙が、ありがたかった。

俺はようやく、タオルへ両手を伸ばした。

瀬尾はすぐには渡さなかった。俺の手が受け取れる位置まで来ていることを確かめてから、ゆっくりと布を移す。

指先に、乾いた布の硬さが触れた。

汗はもう乾いている。土も、ほとんど落ちている。それでも、右下の灰色の汚れだけが残っていた。昨日のグラウンドの土。最後に踏みしめた場所の色。

「……ありがとう」

俺は言った。

それだけの言葉なのに、喉の奥が狭くなった。瀬尾は黙って会釈をした。深すぎない、形だけではない頭の下げ方だった。

悠真が、少し遅れて口を開いた。

「瀬尾」

「はい」

「俺たち、昨日負けた。だからって、今ここで仲良くなろうとは思ってない。たぶん湊も、しばらくはお前らの顔を見ると腹が立つ。俺だって、試合の映像を見たら、そっちの左サイドを全部消したくなる」

「はい」

「でも、タオルを返しに来たことまで、勝った側の余裕だと思うのは、たぶん違うんだろうな」

瀬尾は答えなかった。

悠真は続ける。

「俺、最初は笑わせようとしたんだよ。三十分かけてタオル一枚なんて、律儀すぎるだろって。でも、笑いにしたら、こっちが楽になるだけだった。お前がやったことを、俺たちの負けの痛みを逃がすための冗談にするのは、たぶん失礼だ」

瀬尾は、悠真へ向かって一礼した。

「そんなふうに考えなくて大丈夫です」

「いや、考える。俺、こう見えて一応、副部長だったから」

「知っています」

「知ってるの?」

「昨日、湊さんが何度もあなたに指示を出していました。試合が終わったあとも、部員の荷物をまとめていたので」

悠真が目を丸くした。

「そこまで見てたのかよ」

「見ていました」

「じゃあ、俺のことも敵として見てた?」

「試合中は」

瀬尾はわずかに間を置いた。

「でも、試合が終わったあとは、敵としてだけは見ていません」

その言葉に、俺の胸の奥が軋んだ。

敵としてだけではない。

それは、許しでもなければ、仲間になるという約束でもない。ただ、相手を一つの名前に閉じ込めないということだった。勝者と敗者。青波と白嶺。そういう二つの側に分けたままでは見えなかったものを、瀬尾は最初から見ていた。

俺はタオルの端を折った。いつもの癖で、角を揃える。

だが今度は、一度で揃った。

瀬尾はそれを見ていた。何も言わない。悠真も、何も言わない。

校門の外で、風に揺れた夏草が乾いた音を立てた。朝の涼しさはもう遠ざかり、シャツの背中に汗が戻ってくる。湿った暑さの中で、返されたタオルだけが、まだ少し冷たかった。

「瀬尾」

俺は、もう一度呼んだ。

「はい」

「お前たちの部では、勝ったあとに、相手へ何て言うんだ」

瀬尾は考えた。考えたあとで、短く答えた。

「まず、ありがとうございました、と言います」

「それは、さっき俺にも言ったな」

「はい。相手がいたことへの礼なので」

「勝った側が言うと、嫌味に聞こえないか」

「聞こえることもあると思います」

「それでも言う?」

「言います。嫌味に聞こえないようにすることより、言うべきことを言わないほうが、僕は嫌です」

その真っ直ぐさに、俺は目を逸らした。

言うべきことを言わない。

俺は昨日、部員たちに何を言っただろう。よくやった。ありがとう。顔を上げろ。そんな言葉を、部長らしく並べた。けれど、本当に言うべきだったのは、俺たちは負けた、悔しい、でも最後まで一緒に走った、ということだったのかもしれない。

悔しさを隠すことと、相手を認めることは、同じではない。

「俺も、昨日の試合で、お前たちに何か言うべきだったのかもしれない」

瀬尾が俺を見る。

「何をですか」

「強かった、とか。負けたけど、ありがとう、とか。そういうのは、まだ言えない。でも、何も言わずに終わらせたくなかった」

「今、言いました」

「今は、昨日じゃない」

「でも、試合のあとです」

瀬尾は、タオルを渡し終えた自分の手を、空いた膝の前で静かに揃えた。

「試合が終わったあとに、いつまでが試合のあとかは、決まっていないと思います」

俺は、返す言葉を失った。

校門の向こうへ伸びる道路は、朝の光を受けて白く光っている。自転車の細いタイヤが、その先へ続く線のように見えた。瀬尾はやがて、そこへ戻っていく。俺はここに残る。学校の内側と外側に、それぞれ別の時間が待っている。

けれど、タオルはもう、どちら側のものでもなかった。

俺の手の中にありながら、誰かの手を通った記憶を持っている。昨日の敗北を吸い込んだ布は、返却されたことで、勝者の礼も一緒に抱えていた。

瀬尾が、自転車の鍵へ手を伸ばした。

「では、僕は戻ります」

「うん」

「湊さん」

「何だ」

「悔しいままで、大丈夫です」

瀬尾はそこで一度、視線をタオルへ落とした。

「ただ、返ってきたものまで、悔しさの中に埋めないでください」

言葉が、胸の奥へゆっくり沈んだ。

瀬尾はもう一度、俺と悠真へ頭を下げた。それから校門の外へ自転車を押して出ていく。チェーンが回り、細いタイヤが濡れた路面を擦る。夏草の先が彼の足元で揺れ、青いチームバッグが朝の光を受けて小さく跳ねた。

俺はその背中を、見えなくなるまで見ていた。

悠真が隣へ並ぶ。今度は、少しだけ近い位置だった。

「なあ」

「何だ」

「俺、今から何か言うべき?」

「言わなくていい」

「だよな。俺もそう思った」

二人の間に、沈黙が落ちた。

けれど、さっきまでの沈黙とは違っていた。重さがなくなったわけではない。昨日の失点も、負けた悔しさも、俺の見落としも、まだ胸の中に残っている。ただ、その重さを置ける場所が、少しだけ増えていた。

俺は返されたタオルを、もう一度四つに折った。

角は、今度も揃った。

校門の外では、瀬尾の自転車の音が次第に遠ざかっていく。風がこちらへ戻ってきて、汗の乾いた首筋を撫でた。夏の終わりの風だった。

その風を受けながら、俺はタオルを胸元へ引き寄せた。

言葉になる前に、もう受け取ってしまったものがある。

← 横にスクロールして読み進められます