第4話 校門の自転車

部室前の水道から、細い水が落ち続けていた。
蛇口は閉めたつもりだったが、金属の先から透明な滴が一定の間隔でこぼれている。ひとつ落ちるたび、下のコンクリートに濃い丸が増えていく。俺は手を伸ばして、もう一度、蛇口を締めた。きしんだ音がして、水が止まる。
それでも、耳の奥にはまだ水音が残っていた。
部室の中は、朝の湿気を抱えたままだった。床に乾きかけた泥があり、ベンチの上には濡れたタオルが重なっている。誰かが昨日の片付けを途中までやったのだろう。けれど、俺の白いタオルだけは見当たらなかった。
ベンチの端に手を置く。
木の表面には細かな傷があった。スパイクの金具を引っかけた跡、何度も荷物を置いた跡、雨の日に濡れたユニフォームを掛けた跡。三年間、見てきた傷なのに、昨日までそこにあったものがなくなると、ベンチ全体が別の場所に見えた。
俺は腰を屈め、ベンチの下を覗いた。埃と、丸まったテーピングの切れ端。白い布はない。
「まだ探してんの?」
背後から悠真の声がした。
振り返ると、悠真が校舎の角から顔を出していた。片手には、いつものように冷えた飲み物がある。今日はスポーツドリンクだった。ラベルの端が水滴でふやけている。
「見つからないから」
「それは見れば分かる。見つかってたら、そんな探偵みたいな顔してベンチの下を覗かない」
「探偵はもっと早く見つける」
「そこを競うなよ。引退した翌日にまで、勝負の基準を増やすな」
悠真は近づいてきたが、俺の隣には立たなかった。部室の入口に肩を預け、俺の背中とベンチとを交互に見る。その視線が、昨日から変わらない距離を選んでいることに気づく。
「先生は?」
「職員室。たぶん進路指導の書類に埋もれてる。三年生が引退したからって、受験は待ってくれないらしい」
「そうだな」
「返事が現実的すぎる。今のはもう少し『うわ、受験』とか言っていい場面だぞ」
俺は返事をせず、ベンチの端をもう一度見た。
昨日の後半、ここにタオルを置いた。汗で重くなった布を首から外して、指先で絞るようにしてから、ベンチの端へ置いた。北川先生に呼ばれた。グラウンドへ戻った。あとは覚えている。
笛が鳴った。
相手の選手が走り出した。
俺たちのラインが一瞬、ずれた。
そして、負けた。
「湊」
悠真の声が少し低くなった。
「もう一回言うけど、タオルを忘れたことまで試合の責任にするなよ」
「忘れたのは事実だ」
「事実と責任は、いつも同じ形じゃない」
「お前、朝から難しいこと言うな」
「朝だから言えるんだよ。昼になったら腹減って、何も考えられなくなる」
「それはお前だけだ」
「そういうことにしておく。で、今日はどうする? タオルが出てくるまでここに住む?」
「住まない」
「よかった。部室の電気代、部長の自腹だから」
「元部長」
「はいはい、元部長。肩書きの返却も承りました」
軽口は軽かったが、空気を押しつぶすほどではなかった。俺はスポーツドリンクを受け取った。冷たいボトルが掌に触れる。喉は渇いていたのに、ひと口飲むと、甘さが舌に残った。
そのとき、校門のほうから、細い金属音が聞こえた。
自転車のチェーンが回る音だった。
白嶺高校の校門は、古い道路に面している。朝の通勤車両が途切れずに通り、校門脇の植え込みには夏草が伸びていた。風が吹くたび、草の先が擦れ、濡れた葉の匂いがこちらまで流れてくる。
俺は無意識にそちらを見た。
校門の外で、一台の自転車が止まった。
細いタイヤ。暗い色のフレーム。後ろの荷台に、青いチームバッグがくくりつけられている。自転車を押している少年は、白いシャツの肩を汗で少し濃くしていた。髪の生え際にも汗が浮いている。それでも、襟元は乱れていなかった。靴ひもも、きちんと結ばれている。
少年は校門の前で立ち止まり、敷地の中を見た。
俺たちと目が合う。
一瞬、昨日の試合の光景が重なった。相手側のベンチ。青波学院の青いユニフォーム。試合終了後、歓声の中で肩を叩き合っていた選手たち。その輪の端に、この少年がいたかどうかまでは覚えていない。
少年は自転車の鍵に触れ、それから校門の内側へ一歩だけ入った。
「白嶺高校の、湊さんで合っていますか」
声は低く、よく通った。
俺は、返事の前に一拍置いた。
「……俺です」
少年は姿勢を正した。自転車のスタンドを立て、ハンドルから手を離す。青いチームバッグが荷台の上でわずかに揺れた。
「青波学院の瀬尾です。昨日の試合では、ありがとうございました」
「ありがとうございました、って……」
声が途中で止まった。勝った側からそんな言葉を向けられるとは思っていなかった。少なくとも、俺は相手に何かを渡した覚えがない。
瀬尾は、右手に持っていたものを両手で持ち直した。
白いタオルだった。
見間違えるはずがない。端の部分が少しだけ灰色に汚れている。右下には、俺が洗濯表示のタグを切った跡が残っている。何度も首にかけ、何度も洗い、夏の練習を一緒に越えてきた布だった。
胸の奥が、遅れて強く縮んだ。
「これを、返しに来ました」
瀬尾はそう言って、タオルを差し出した。
俺は手を伸ばしかけた。けれど、指が途中で止まった。
タオルは、瀬尾の手の中にある。乾いているはずなのに、昨日の熱をまだ含んでいるように見えた。汗の乾いた匂いも、土の粒も、試合の終わりに置き去りにしたはずの時間も、そこに残っている気がした。
「……どうして」
ようやく声が出た。
瀬尾は、答える前に一度、タオルを見た。
「試合中、ベンチの端に落ちていました」
「落ちてた」
「はい。試合が終わったあと、片付けのときに拾いました。白嶺高校のものだと思ったので、持ち帰って確認しました」
「確認って、何を」
「部の人に見せました。昨日、白嶺高校の部長が使っていたものだろう、と。名前はついていませんでしたが、試合中に何度か湊さんが使っているのを見ていた部員がいました」
瀬尾の言葉は、ひとつずつ置かれていった。説明しているというより、昨日から続いている手順を順番に並べているようだった。
「それで、わざわざ来たのか」
「はい」

「自転車で?」
「青波学院から、三十分くらいです」
悠真が横で小さく息を吐いた。
「三十分かけてタオル一枚。青波学院、返却係の研修でもあるのか」
瀬尾は悠真を見た。からかわれたと受け取った様子はなかった。ただ、相手の言葉の温度を測るように、正面から視線を合わせる。
「研修ではありません」
「じゃあ、趣味?」
「趣味でもないです」
「そこは少し笑ってくれてもいいんだけど」
「すみません。そういうつもりでは」
悠真が黙った。
俺は、瀬尾の手元を見ていた。タオルは両手で支えられている。布を掴むのではなく、落とさないように下から受けている。その持ち方が、妙に古風で、きちんとしていた。
「返すべきものだから、返しに来ました」
瀬尾は続けた。
「それだけです。昨日の試合に勝ったこととは、別のことなので」
その言葉が、思ったより深く入ってきた。
勝ったから、わざわざ来たのかと思った。勝者の余裕で、敗者の忘れ物を届けに来たのだと。あるいは、青波学院の強さを見せつけるために。そういうふうに考えていれば、相手を嫌い続けることができた。
けれど瀬尾は、勝利と返却を切り分けていた。
勝ったことを理由にしない。勝ったことを隠れ蓑にもしない。ただ、返すべきものを返す。
「返すべきものって、誰が決めるんだ」
俺は聞いた。
瀬尾は少し考えた。すぐに答えなかった。自転車の向こうで、道路を走るトラックの音が遠ざかっていく。夏の朝の光が校門の鉄柵に反射し、瀬尾の頬を白く照らした。
「先輩たちに、そう教わりました」
「青波学院の先輩に?」
「はい。去年、先輩が相手校の忘れ物を返しに行ったことがありました。試合の翌日でした。僕もついていったんです。そのとき、返すものを返さないまま勝った顔をしていると、勝ったことまで雑になる、と言われました」
瀬尾はタオルを持ったまま、静かに話した。
「僕は、そのとき意味がよく分かりませんでした。勝ちは勝ちですし、忘れ物は忘れ物です。別々に考えればいいと思っていました。でも、先輩は、試合が終わったあとに何をするかも試合の一部だと言いました。相手がいたから試合ができたのに、終わった途端に相手のものを放っておくのは、試合そのものを途中で捨てるのと同じだ、と」
悠真が口を挟みかけた。だが、瀬尾の顔を見て、そのまま黙った。
俺は、言葉を返せなかった。
試合そのものを途中で捨てる。
その言い方が、胸の中に残った。
昨日の俺は、負けた瞬間から、試合を終わらせようとしていた。部員を集め、挨拶をし、荷物をまとめた。立っていなければならないと思った。崩れてはいけないと思った。けれど、ベンチの端にタオルを残したまま、俺は何かを途中で捨ててきたのかもしれない。
「それでも、俺たちに勝ったことは変わらない」
俺は言った。
「はい」
「俺は、悔しい。今も。たぶん、すぐには消えない」
「はい」
「お前たちが強かった。そこは認める。でも、簡単にありがとうとは言えない。昨日の俺たちが全部だめだったみたいに聞こえるのは嫌だし、負けたことをきれいに片づけるつもりもない」
言葉が長くなっていた。普段なら、途中で飲み込んでいた。けれど、瀬尾は急かさずに聞いていた。視線を逸らさず、タオルを持つ手も動かさない。
「僕も、湊さんにきれいに片づけてほしいとは思っていません」
「……え」
「負けた試合を、きれいな思い出にする必要はないと思います。僕たちも、昨日の試合でできなかったことがあります。勝ったので、周りからは良い試合だったと言われるかもしれません。でも、僕たちの中にも、あそこで声が足りなかったとか、戻りが遅かったとか、そういうものは残っています」
瀬尾はそこで、わずかに顎を引いた。
「だから、湊さんが悔しいままでいることを、僕が否定する理由はありません。ただ、悔しさの中に、僕たちを置き去りにしないでほしいです」
風が校門を抜けた。
瀬尾のシャツが背中に張りつき、汗の匂いが一瞬、こちらまで届いた。朝の涼しさはもう薄く、湿った暑さが首筋にまとわりついている。それでも、その風の通り道だけは、昨日の試合後より広く感じられた。
「置き去りにしないって、どういう意味だ」
「相手を、負けるためだけのものにしないという意味です」
瀬尾は淡々と言った。
「勝つためには、相手を止めなければいけません。でも、試合が終わったあとまで相手を敵のままにしておく必要はないと思っています。僕たちが勝てたのは、白嶺高校が最後まで走ったからです。相手が立っていたから、僕たちも立っていられた。そこまで含めて、昨日の試合でした」
悠真が、低く笑った。
「一年生にしては、ずいぶん堅いこと言うな」
「すみません」
「いや、謝るなって。こっちが恥ずかしくなるから」
悠真はそう言って、視線をグラウンドへ向けた。
俺もそちらを見た。雨を含んだ土はまだ黒く、白線の一部が薄く流れている。夏草が境界の外から伸び、線の上へ細い影を落としていた。
昨日、俺たちはここで負けた。
その事実は動かない。俺の遅れた一歩も、声の届かなかった瞬間も、失点の場面も、消えない。
それでも、タオルは失われていなかった。
誰かが拾い、持ち帰り、確認し、今日ここまで運んできた。俺が見落としたものは、見落とされたまま消えたのではなく、別の誰かの手の中で一晩を越えていた。
そのことが、怖いような、ありがたいような感覚を残した。
「受け取ってもらえますか」
瀬尾が言った。
俺はようやく手を伸ばした。
白い布が、瀬尾の掌から俺の手へ移る。乾いた表面は少し硬く、端には土のざらつきが残っていた。昨日まで自分の首筋に触れていた布なのに、知らない時間を通ってきたせいか、別のもののようだった。
それでも、指が覚えていた。
俺はタオルを両手で持ち、胸の前へ引き寄せた。
「……ありがとう」
声は小さかった。
瀬尾は、すぐに答えなかった。頭を下げる。その角度は深すぎず、浅すぎなかった。礼を見せるためではなく、相手の言葉を受け取るための頭の下げ方だった。
悠真が、今度は冗談を挟まなかった。
俺はタオルの端を指でなぞった。汗の乾いた布の匂いに、かすかに自転車の油と朝の風の匂いが混じっている。タオルは、俺が置き忘れた場所から、青波学院の誰かの手を通り、瀬尾の自転車に乗って、今ここへ戻ってきた。
負けた夏の一部が、返却されてきた。
けれど、それは元の場所へ戻っただけではなかった。
俺の手の中で、昨日までとは違う重さになっていた。
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