第3話 台所の湯気

家の玄関を開けると、味噌汁の匂いが真っ先に鼻を通り抜けた。
出汁と味噌の混じった湯気の匂いは、部室の汗と洗剤の匂いとはまるで違う。同じ「匂い」という言葉でくくってしまうのが惜しいくらい、その二つは俺の中で別々の場所を持っていた。玄関で靴を脱ぎながら、俺はまだ部室の匂いが袖口に染みついているのを感じた。
「おかえり」
台所から声がした。振り返ると、母は鍋の前に立ったまま、こちらを見もせずにそう言った。振り向かないことが、かえって何かを確かめずに済ませる優しさだということを、俺はもう長いこと知っている。
食卓には、いつも通りの朝食が並んでいた。白い飯、味噌汁、焼いた干物、漬物。特別なものは何もない。特別でないことが、今朝はやけにありがたかった。
母は俺の顔を一度だけ見た。長くはない。それでも、その一瞥で何かを読み取ったらしく、戸棚から茶碗をもう一つ取り出し、いつもの俺の分の隣に並べた。
「食べる」
命令でも問いかけでもない、その中間のような言い方だった。返事を待たずに、母はすでに汁をよそい始めている。俺は黙って椅子に座った。
箸を持つ。指先が、思っていたよりも強張っていた。木の感触が、いつもより硬く感じられる。味噌汁の椀を持ち上げ、口をつける。出汁の温度が舌の上を通り、喉の奥へ落ちていく。美味いとか不味いとか、そういう感覚より先に、「熱い」という事実だけが体に染み込んできた。
昨日の敗北は、まだどこにも行っていない。喉を通る汁の熱さの向こうに、ずっとへばりついている。二対一。相手のFWが抜け出した瞬間の土の匂い。笛が鳴ったあとの静寂。それらは、味噌汁の湯気に混じって、今もまだ俺の中で燻っている。
母は何も聞かない。皿を動かし、弁当箱を洗い、布巾を丁寧に畳む。その手順には迷いがなく、まるで台所という小さな世界の中だけは、昨日も今日も変わらないのだと言い張っているようだった。
俺は、そういう母の手つきを何度も見てきた。中学の頃、練習でうまくいかない日が続いたとき。高校に入って最初のレギュラー争いに負けたとき。母は、そのたびに何かを聞き出そうとはせず、ただ台所に立ち続けた。慰めの言葉より先に、湯気が届く。それが、俺の知っている母のやり方だった。
「……美味い」
ぽつりと言うと、母の手が一瞬だけ止まった。すぐにまた動き出す。
「そう」
それだけだった。多くを語らないことが、こんなにも助けになるということを、俺はこの家で覚えてきたのかもしれない。
食べ終えた茶碗を見つめながら、俺は無意識に、卓の端に置いてあったタオルに手を伸ばしていた。洗い立てのタオルだ。母が今朝干したものを、俺が部活に行く前に取り込んでおいたのだったか、それとも母がすでに畳んでおいたものだったか、よく覚えていない。ただ、指先がそれに触れた瞬間、勝手に動き始めた。
四つ折りにする。端を揃える。もう一度広げて、また畳み直す。角がぴったり合わない。何度やっても、わずかにずれる。布の柔らかさが指の腹に吸いつくように残り、洗剤の匂いがふわりと立った。
その匂いは、部室に積まれていた濡れたタオルの匂いとは違う。乾いていて、清潔で、朝の光をそのまま吸い込んだような匂いだ。なのに俺の頭の中では、それが昨日のベンチの端の光景に重なっていく。汗を拭った白いタオル。給水のたびに首にかけていた、あの感触。後半のロスタイム、北川先生に呼ばれて戻ったとき、俺はそれをどこに置いただろうか。
畳んでは、ほどく。ほどいては、また畳む。同じ動作を繰り返しながら、俺は昨日の試合を、頭の中で何度も畳み直していた。もっと早く声を出していれば。もっと早く戻っていれば。答えの出ない仮定を、布の折り目のように、何度も同じ場所で折っている。
母は、その手元をちらりと見た。
何も言わなかった。ただ、白い皿をもう一枚、洗い場の水切りかごに増やした。使うあてのない皿だ。それでも、その一枚が増えたことに、俺は妙に安心した。何かが足されるということが、何かを埋め合わせてくれるような気がしたからだ。
食卓の上の空気は、静かだった。重すぎもせず、軽すぎもしない、ちょうどこの家の朝の速度で流れている。窓の外では、まだ夏の蝉が鳴いていたが、その声にはどこか湿った疲れが混じっていて、もう長くは続かないことを教えているようだった。
「今日、部活は」
母がふと口を開いた。俺は顔を上げた。
「片付けと引き継ぎです。まだ、終わってないので」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。試合の結果を聞くことも、慰めの言葉を重ねることもしない。ただ、「頑張った」という事実だけを、先に受け止めている。その事実の重さと軽さの間で、俺はいつも宙ぶらりんになる。頑張ったのに、負けた。その両方が同時に本当だということを、母は責めもせず、無理に励ましもせず、ただ黙って隣に置いている。
食卓の上では、敗北も未練も、まだ名前を持っていない。湯気だけが、先にそこへ届いていた。
弁当箱を洗う水の音が、蛇口から一定のリズムで流れている。俺はタオルを、やっと角の揃った形に畳み終えた。膝の上に置くと、その白さが妙に目に沁みた。
昨日、確かにベンチの端に置いた記憶がある。それなのに、朝の部室では見つからなかった。誰かが片付けたのかもしれない。誰かが捨ててしまったのかもしれない。あるいは――そこから先を考えることを、俺はまだ自分に許していなかった。
「行ってきます」
立ち上がりながら言うと、母は洗い物の手を止めずに答えた。
「気をつけて」
いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ言葉が、今朝はやけにありがたかった。玄関で靴を履きながら、俺は袖口についた洗剤の匂いを、もう一度確かめるように吸い込んだ。
家を出ると、朝の光はもう夏の重さを帯び始めていた。だが空気の芯には、まだ涼しさが残っている。その涼しさが、俺の胸の中の何かと、ほんの少しだけ噛み合っているような気がした。
台所の湯気は、もう遠い。それでも、その温度だけは、しばらく体のどこかに残り続けるのだろうと、俺はぼんやり思っていた。
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