2話 軽口と沈黙

「部長、引退の朝くらい寝坊しろよ」

悠真は、部室の入口に片肩を預けていた。いつもなら、口元にはもっと露骨な笑いがある。練習メニューの紙を見つけては「これ、誰が考えたんだよ。人間の脚を何本だと思ってるんだ」と言い、俺が睨むと「部長の顔が怖いから、俺が代わりに笑ってやってる」と続ける。そういう男だった。

今朝の笑いは薄かった。水で伸ばした絵の具みたいに、輪郭だけが残っている。

俺は返事をしなかった。

返せなかったのではない。返す言葉を探すより先に、昨日の終盤が喉まで上がってきた。相手の左サイドが開いたこと。俺が一歩遅れたこと。声を出したつもりで、声が味方の背中に届かなかったこと。どれも言葉にした瞬間、言い訳に変わりそうだった。

悠真は、俺の顔を一度見てから、手に持っていたペットボトルを差し出した。

「麦茶。自販機の左から二番目。俺の読みでは、今日はこれが一番当たり」

「……いつも同じだろ」

自分でも驚くほど、声が低く出た。

悠真は一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。

「お、返事できたじゃん。じゃあ今日は勝ち」

「そういうの、やめろ」

「はいはい。勝ち負けの話は地雷ね。朝から部長の地雷原を歩くの、なかなかの練習になるな」

言いながら、悠真はペットボトルを俺の手に押し込んだ。冷たさが掌に移る。表面についた水滴が指の節へ流れ、昨日の試合で汗が乾いたあとに残った塩のざらつきを、少しだけ洗い流すようだった。

俺はキャップを回した。一口飲む。冷たい麦茶が喉を通ったが、渇きが消える前に胸の奥の乾いた場所へ吸い込まれていった。

「昨日さ」

悠真が言った。

俺はボトルを口から離した。

「いや、なんでもない」

「言えよ」

「今のは、言わないという選択肢を選んだだけ。副部長として、選手の意思を尊重してる」

「都合のいい言葉を覚えたな」

「三年間で成長しただろ。部長の隣にいると、勝手にそれっぽくなるんだよ」

冗談の形をしていたが、最後のところで声が落ちた。悠真はベンチの少し外側に立ったまま、俺の隣には座らない。座れば近すぎるし、入口まで戻れば遠すぎる。その中間を選んでいる。

俺は、そういう悠真の立ち位置を何度も見てきた。

失点の直後、誰も声を出せなくなったときもそうだった。俺が全員を集めようとして、何を言えばいいのか分からずにいたとき、悠真は二歩離れた場所で靴紐を結び直していた。俺が口を開くまで、何も言わなかった。俺が「まだ終わってない」と言ったあとで、初めて「終わってないなら走れ」と続けた。

あのときの言葉は、今でも覚えている。覚えているのに、昨日は走れなかった。

「お前、昨日の夜、寝たのか」

俺が聞くと、悠真は鼻の下を指でこすった。

「寝た寝た。目を閉じて、朝までずっと昨日の試合を再生してた」

「それは寝たって言わない」

「じゃあ、横になっていた。かなり正確に」

「……俺も似たようなものだ」

言ったあと、しまったと思った。弱音と呼ぶほどではない。けれど、俺が自分からそんなことを口にするのは珍しかった。

悠真は、すぐには何も言わなかった。

笑って流すこともできたはずだ。いつものように「お互い受験生なのに、勉強じゃなくて試合映像を見るなんて意識が高い」と言えばいい。だが、そうしなかった。ボトルを持った俺の手元を見て、それから散らかった部室へ視線を移した。

「俺さ」

悠真が言った。

「昨日、帰り道で何か言わなきゃと思ってたんだよ。湊に。お疲れとか、三年間ありがととか、そういう、引退の日に言うらしい言葉。けど、どれも違う気がしてさ。お前が一番聞きたくない種類の言葉だろ」

俺は黙っていた。

「だって、まだ終わってない顔してたから。終わったことにするための言葉を先に置いたら、たぶんお前、余計にそこから動けなくなる。だから昨日は黙ってた。別に気を遣ったわけじゃなくて、俺も何を言っても安っぽくなるのが嫌だっただけだけど」

悠真はそこで一度息を吸った。湿った部室の空気が、二人の間をゆっくり通り抜けた。

「俺たち、負けた。そこは変わらない。でも、負けたからって、昨日までの全部が一緒に負けたわけじゃない、みたいなことを言うのも、今は違うと思う。三年間やってきたことがあるから、最後の一試合で負けたことが痛いんだろ。痛くなかったら、たぶん最初から本気じゃなかった。それを、きれいな言葉で片づけるのは違う」

麦茶のボトルが、指の中でわずかにへこんだ。

「じゃあ、どうすればいい」

言ってから、俺は目を伏せた。問いかけるつもりはなかった。ただ、口から落ちた。

悠真はすぐには答えなかった。部室の外で、雨粒が校舎の軒先から一つ、また一つ落ちている。グラウンドの土に吸われる小さな音がした。

「知らない」

悠真は言った。

「俺だって知らない。だから今朝ここに来た。お前が来る気がしたから。来なかったら、家まで行ってた。母ちゃんに『湊はいますか』って聞いて、寝てたら置き手紙して帰るつもりだった」

「やめろ。迷惑だ」

「迷惑をかけるのは、俺の得意分野だろ」

「自分で言うな」

「でも、ひとりで置いとくよりはましだろ」

その言葉だけは、冗談にならなかった。

俺は返事の代わりに、部室の床へ目を落とした。泥の乾いた跡が、入口からベンチの前まで続いている。昨日、誰かがスパイクのまま歩いたのだろう。俺なら気づいた時点で雑巾を取りに行っていた。部長だったころは、そういう小さな乱れを見つけるたび、直さなければ落ち着かなかった。

しゃがみ込み、床の泥を指でなぞる。乾いて硬い。爪の先に茶色が入り込んだ。

「それ、今やらなくていいからな」

悠真が言った。

「分かってる」

「分かってない顔だよ、それ」

「片付けは必要だろ」

「必要だけど、今すぐ全部やらなくてもいい。部室は逃げないし、泥もたぶん逃げない。タオルは……」

悠真の言葉が止まった。

俺は顔を上げた。

ベンチの上に積まれたタオルの山。その白と灰色の隙間を、もう一度目で追う。ない。昨日から何度確認しても、ないものはない。

「タオルがない」

「うん」

「昨日の、俺のだ」

「うん」

「どこに置いたか、覚えてる」

「ベンチの端」

「そうだ。後半、給水のときに首から外して、そこに置いた。北川先生に呼ばれて、戻って……そのあと」

そのあと、試合が終わった。

俺はそこまで言えなかった。笛が鳴り、相手の選手たちが抱き合い、味方の一人が膝に手をつき、スタンドの白嶺側から声にならない息が落ちた。俺は部員たちを集めようとした。主将として、部長として、最後まで立っていなければならないと思った。だからベンチの端に残したタオルのことなんて、見なかった。

見なかったのか、見えなかったのか。その違いが、今も分からない。

「湊」

悠真の声が、少しだけ近くにあった。

「タオルを忘れたことまで、お前の責任にしなくていい」

「忘れたのは俺だ」

「そうだけど」

「部長が最後に自分のものを置きっぱなしにして帰るのは、どうなんだよ」

「どうって……タオルだろ」

「そういう言い方をするな」

「じゃあ、どう言えばいいんだよ」

悠真の声も、初めて少し硬くなった。

「湊が昨日負けたことと、タオルを置き忘れたことは、同じ箱に入れなくていい。お前は何でも自分の責任にしすぎる。ラインが崩れたのも、俺たちが声を出せなかったのも、最後のシュートが入らなかったのも、全部お前が背負って、それで何になる。お前ひとりが重くなったら、俺たちの三年間が軽くなるのか」

俺は答えられなかった。

悠真は、怒っているというより、困っていた。俺を責めたいのではなく、俺が自分を責め続ける場所に、どう手を伸ばせばいいか分からないのだろう。

「……俺は、部長だったから」

やっとそれだけ言った。

「うん。知ってる」

「部を預かったから。負けたら、俺がもっと何かできたはずだって思う。それを、簡単に仕方ないとか、いい試合だったとか言われたくない」

「言わないよ」

「本当に?」

「言わない。言ったら殴っていい」

「殴らない」

「そこは殴れよ。俺の立場がない」

わずかに、喉の奥が動いた。笑いにはならなかったが、息が一つ抜けた。

悠真はそれを見て、ようやく肩の力を下げた。けれど、勝ったときのような顔はしない。俺が笑ったわけではないことを、きちんと分かっている。

そのとき、廊下の奥から硬い靴音が聞こえた。

北川先生だった。片手に古いファイルを持ち、もう片方の手には湯気の消えかけた缶コーヒーがある。体育教師のジャージの裾には、朝のグラウンドの土が薄くついていた。

「片付けは済んだか」

いつもの問いだった。

悠真が先に答えた。

「部長がタオルの捜索で手いっぱいです」

北川先生は俺を見る。視線がベンチの上を滑り、空いた場所で止まった。

「見つからないか」

「はい」

返事をしてから、一拍置いた。

「昨日の試合で使ったやつです。ベンチに置いて、そのまま……」

「そうか」

北川先生はそれ以上聞かなかった。缶コーヒーの蓋を親指で押し、少し冷めた中身を一口飲む。部室の中に、コーヒーの苦い匂いが混ざった。

「朝の片付けは、朝の片付けだ。探すなら探せ。だが、見つからないものを見つかるまで責めるな」

俺は先生の顔を見た。

「責めているつもりはありません」

「つもりの話はしていない」

北川先生の声は低かった。怒鳴ってはいないのに、部室の空気が一段締まる。

「お前は物を揃えることで、気持ちも揃えようとする。悪い癖ではない。部を動かすには役に立つ。ただ、揃わないものまで揃えようとすると、手が止まる」

悠真が黙った。俺も、何も言えなかった。

北川先生はファイルを脇に挟み、部室の奥に積まれた練習ノートを一冊取り上げた。表紙についた土を手のひらで払う。何年も使われてきたノートの角は丸く擦れていて、紙の端から古い汗の匂いがした。

「今日やるのは、用具の確認と引き継ぎだ。三年が抜けたあとに困らないようにする。それだけだ」

「それだけ、ですか」

俺が聞くと、北川先生は少し間を置いた。

「それだけで十分な朝もある」

その言い方には、慰めようとする気配がなかった。だから、かえって受け取りやすかった。

先生はノートを元の場所へ戻し、入口の横に立った。俺たちを急かさず、ただ部室の中を見ている。悠真は靴先で床を軽く叩いたあと、黙ってしゃがみ込み、乾いた泥の跡を雑巾で拭き始めた。

「おい」

俺が言うと、悠真は顔を上げない。

「何。逃げ道を作ってるだけ。お前がタオルを探すための」

「俺がやる」

「部長はタオル担当でいいよ。俺、泥担当。役割分担ってやつ」

「引退したのに、まだ部長って呼ぶな」

「じゃあ、元部長」

「それも嫌だ」

「注文が多いな。負けたチームのくせに」

言った直後、悠真の手が止まった。

俺も黙った。

悠真は顔を上げ、冗談を取り消そうとした。けれど、取り消す言葉を探す前に、俺が先に息を吐いた。

「……それは、いい」

「いいのかよ」

「今のは、たぶん」

「たぶんかよ」

「俺がまだ、負けたことを自分で言えてないから」

言葉にした途端、胸の中で何かがわずかに形を変えた。痛みが消えたわけではない。昨日の失点も、最後の笛も、俺の遅れた一歩も、そのまま残っている。ただ、「負けた」という音が、自分の口から出たことで、少しだけ外側へ移った。

悠真は雑巾を絞った。水道の蛇口をひねる音が、部室の外から聞こえてくる。冷たい水が金属を打ち、細い水流が一定のリズムを刻んだ。

「じゃあ、元部長」

「何だよ」

「タオル、見つかるといいな」

「……うん」

「見つかったら、ちゃんと洗えよ。昨日の汗、三年分くらい染みてそうだから」

「お前の汗も混じってるだろ」

「俺の汗は爽やかだから大丈夫」

「自分で言うな」

悠真が笑った。今度の笑いは、さっきより少しだけ自然だった。

俺はベンチの端に手を置いた。木の表面は湿っていて、昨日の熱をまだ奥に残している。タオルはない。空いた場所に指を置くと、そこだけが妙に冷たかった。

部室の外では、朝の風が夏草を揺らしている。風は校舎の壁にぶつかり、古い窓枠を小さく鳴らした。昨日までなら、その音を練習開始の合図に聞き間違えていたかもしれない。

俺はベンチを離れ、水道のほうへ歩き出した。

まだ、片付けは終わっていない。 タオルがどこへ行ったのかも、俺には分からない。

ただ、ひとりで探す必要はないらしかった。

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