1話 目覚ましより早い朝

目が覚めたとき、部屋はまだ夜の名残を薄く残していた。カーテンの隙間から差し込む光は白く、天井の木目は見慣れたはずなのに、今朝はどこか他人の部屋のように遠く見えた。枕元の目覚まし時計に手を伸ばして確かめると、針は五時四十分を指していた。アラームは六時にセットしてある。あと二十分、眠れるはずだった。けれど身体は、もう起きることを決めてしまっていた。

三年間、朝練のために叩き起こされてきた時間だ。夏でも冬でも、六時前には勝手に瞼が開くようになっていた。習慣というのは、意志より先に骨に染み込むものらしい。引退した今も、身体はまだ、グラウンドに立つための準備を続けようとしている。

昨日、俺たちは負けた。

その事実が、天井のシミのように頭の隅に張りついている。二対一。終盤、追いついたと思った矢先に決められた失点。相手のFWが左サイドを切り裂き、俺たちのラインが一瞬だけ揃わなかった、その一瞬の隙間を突かれた。あの数秒間を、俺は何度も頭の中で巻き戻している。もっと早く声を出していれば。もっと早く戻っていれば。考えたところで、スコアボードは変わらない。それでも、考えることをやめられない。

布団から出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水が肌を打つ感触は変わらないのに、鏡に映った自分の顔は、心なしかいつもより硬く見えた。顎に力が入っている。緊張しているわけでもないのに、力が抜けない。指先で頬を軽く叩いてみても、強張りはそのままだった。

制服に着替える。半袖のシャツに袖を通すとき、指先がやけにぎこちなく感じられた。ボタンをひとつ留め違えて、やり直す。こんな単純な動作すら、今朝はうまくいかない。机の上に置いてあったタオルの端が目に入り、俺は無意識にそれを四つ折りに揃えた。角を合わせ、もう一度確かめる。揃っている。揃っているはずなのに、何かが落ち着かない。

その隣に、部室の鍵があった。三年間、部長として預かってきた鍵だ。銀色の表面はところどころ曇っていて、ずっしりとした重みには覚えがあった。俺はそれを一度だけ手のひらに乗せてみた。冷たい。いつもと同じ金属のはずなのに、今朝はまるで別のものみたいに、指先から体温を吸い取っていくように感じられた。

家を出るとき、台所からは何の音もしなかった。母はまだ起きていないのか、それとも起きていて、あえて何も言わずにいるのか。俺には分からなかった。玄関で靴を履きながら、いつもなら「行ってきます」と声をかけるところを、今朝はなぜか声が出なかった。誰に対して行ってきますと言えばいいのか、自分でもよく分からなかったからだ。行く場所は、もう俺を必要としていない。

学校までの道は、夏の終わりの匂いがした。夜のうちに降ったらしい小雨が、アスファルトの表面をうっすら濡らしている。踏むたびに靴底が軽く鳴った。街路樹の葉が、まだ湿ったまま重たげに揺れていて、その下を通るたびに、冷んやりとした空気が首筋を撫でていった。夏はまだ終わっていないはずなのに、朝だけはもう秋の気配をまとっている。その温度差が、俺の胸の中の何かとよく似ていた。終わったはずなのに、終わっていない。終わっていないはずなのに、もう戻れない。

白嶺高校の校門をくぐると、グラウンドはまだ誰もいない静けさの中にあった。土のグラウンドは昨夜の雨を吸って、いつもより濃い色をしている。夏草はグラウンド脇でだらしなく倒れながらも、まだ青々とした色を保っていた。俺はその横を通り過ぎ、古い校舎の裏手にある部室へと向かった。

部室の扉を開けた瞬間、汗と洗剤の匂いが鼻の奥を刺した。三年間、毎日嗅いできたはずのその匂いが、今朝はやけに生々しく感じられる。中は相変わらず雑然としていた。誰のものか分からない練習ノートが積まれ、片方だけ外れたレガースが壁際に転がっている。濡れたまま雑に畳まれたタオルが、ベンチの上に山になっていた。

俺は、その山をひとつずつ確かめた。

自分の白いタオルが、見当たらない。

昨日、引退試合のベンチに置いたはずのものだ。汗を拭い、給水のたびに首にかけ、後半のロスタイムに監督から声をかけられたときも、確か手に握っていた。それなのに今、どこにもない。

ベンチの端を見る。部室前の水道の蛇口を見る。グラウンド脇の階段の、日の当たらない影の部分まで目を凝らす。どこにもない。

たかがタオル一枚だ。そう自分に言い聞かせようとしたが、うまくいかなかった。あの一枚がなくなったことで、昨日の試合の輪郭までもが、妙に生々しく胸に戻ってくる。相手のFWが抜け出した瞬間の、ピッチの土の匂い。笛が鳴ったあとの、あの重たい沈黙。歓声とため息が入り混じった、スタンドのざわめき。細部だけが鮮明で、肝心などこで俺たちが崩れたのかは、今もまだうまく思い出せない。

負けたことより、あの最後の瞬間に何かを見落としたという感覚のほうが、俺には重かった。タオル一枚を置き忘れたことすら、その見落としの延長線上にあるように思えてならなかった。

部室の壁に背をあずけ、俺はしばらくそのまま動けずにいた。片付けなければならないことは、まだたくさん残っている。用具の整理、後輩への引き継ぎ、部室の鍵の受け渡し。部長としてやるべきことのリストは、頭の中にまだいくつも浮かんでいる。それなのに、身体が動かない。たった一枚のタオルの不在が、俺の足を、この湿った匂いのする部屋に縫い止めていた。

そのとき、後ろから軽い靴音がした。

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