9話 水音の下で

その夜、俺は洗面所の明かりだけをつけて、白いタオルを膝の上に置いていた。

家の中は静かだった。母は台所に立っている。鍋の蓋が触れ合う音、流しへ水が落ちる音、冷蔵庫の低い唸り。どれもいつもの夜にある音なのに、俺の耳には、部室前の水道から聞こえていた水音と重なっていた。

蛇口を閉めても、しばらく耳の奥に残る音。

ぽたり、と一滴が落ちる。

俺はタオルを四つに折った。角を揃える。右下に残った灰色の汚れが、白い布の上で小さく浮いている。洗えば落ちるだろう。洗剤をつけて揉めば、汗の匂いも土のざらつきも消える。

それでも、すぐには洗濯機へ入れられなかった。

指先で汚れをなぞる。乾いた土が、爪の脇へわずかに入り込む。昨日の試合の最後に踏んだ場所。俺が一歩遅れた場所。瀬尾がタオルを拾った場所。

いくつもの場所が、一枚の布の上で重なっている。

「湊」

台所から母の声がした。

「食べる?」

俺は返事をする前に、タオルの端を押さえた。

「……うん」

食卓には、味噌汁と焼き魚が並んでいた。朝ではないのに、母はいつもと同じように白い皿を一枚多く出していた。俺が座ると、母は味噌汁をよそい、椀を手の届くところへ置いた。

「熱いからね」

「分かってる」

「分かっていても、急いで飲むでしょう」

「今日は急がない」

母は少しだけ俺を見た。それから、何も言わずに流しへ戻った。

俺は椀を両手で持った。湯気が顔に触れ、鼻の奥へ玉ねぎの甘い匂いが入ってくる。昨日の朝も、同じ匂いを嗅いだ。けれど、昨日は味が分からなかった。熱さだけが喉を通って、胸の奥に残ったものを押し込んでいた。

今夜は、出汁の味がした。

魚の塩気も分かった。箸で身をほぐすと、皮が小さく鳴った。

「学校で、まだ片付けがあるの?」

母が聞いた。

「うん。引き継ぎもする」

「鍵は?」

俺は、タオルから目を上げた。

「明日、返す」

「北川先生に?」

「部長として持っていたから」

母は、弁当箱を洗うときと同じ手つきで、空いた小皿を重ねた。

「返すものが多いね」

「……そうだな」

「でも、返して終わるものばかりじゃないでしょう」

俺は、しばらく黙っていた。

瀬尾の言葉が浮かぶ。

返すだけでは終わらない。持ち主が受け取ってくれて、返したことになる。

俺は、タオルを受け取った。礼も言った。悔しさも、負けたことも、そのまま抱えている。だからといって、昨日の試合から完全に出られたわけではない。けれど、同じ場所に立ち尽くしているだけではなくなった。

「母さん」

「なに」

「負けたことを、ちゃんと覚えておくのって、難しいな」

母は手を止めなかった。

「忘れたいの?」

「分からない。忘れたくはない。でも、覚えていると、ずっとそこから動けない気がする」

「覚えていることと、そこにいることは違うでしょう」

「違う?」

「写真を見ている人は、写真の中にいるわけじゃないもの」

母はそう言って、布巾を絞った。水が流しへ落ちる。

「湊は、昨日の試合を見ているのかもしれない。でも、見ている自分まで昨日の中へ戻してしまうと、今日の食事が冷める。まず食べて、眠って、明日また学校へ行く。それでいいんじゃない」

たいした言葉ではないように聞こえた。

けれど、母の言葉はいつも、派手なところを避けて残る。勝敗を消さない。悔しさも否定しない。ただ、生活のほうへ細い道をつけてくれる。

食事を終え、俺はタオルを洗濯機の前へ持っていった。

洗剤の蓋を開ける。白い粉が、暗い投入口の中へ落ちる。タオルを入れようとして、手が止まった。

「まだ、入れないの?」

母が後ろから言った。

「うん」

「汚れが落ちにくくなるわよ」

「分かってる」

「なら、早く」

俺はタオルを洗濯槽へ落とした。

白い布が、底へ柔らかく沈む。蓋を閉め、ボタンを押す。水が流れ込む音がした。布が水を吸い、重くなっていく。昨日の汗も、土も、瀬尾の手の温度も、全部が水の中へ沈んでいくように見えた。

けれど、消えるわけではない。

汚れが落ちても、俺の中に残るものは残る。失点の場面も、瀬尾の自転車の音も、両手で差し出されたタオルの重さも。

洗濯機が回り始めた。

一定の音が、洗面所の壁を震わせる。水音はやがて大きくなり、布を攪拌する低い音へ変わった。俺はその前に立ったまま、しばらく動かなかった。

母が、台所の明かりを消した。

「寝るなら、早く寝なさい」

「うん」

「明日も起きるでしょう」

「たぶん」

「たぶんじゃなくて、起きるの」

母の声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。

俺も、口元だけを動かした。

洗濯機の音は、まだ続いている。

翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

五時四十分。

昨日と同じ時刻だった。

天井を見上げる。昨日の朝は、身体がまだ試合の中にいた。起き上がれば、失点の場面が待っているような気がした。今朝も悔しさは残っていた。けれど、その悔しさだけが部屋を占めているわけではなかった。

洗面所へ行くと、洗濯機は止まっていた。

蓋を開ける。タオルは水を含み、昨日より重くなっていた。手に取ると、洗剤の匂いがした。土の跡は薄くなっている。完全には消えていないが、指で擦ってもざらつきはほとんど残らなかった。

母が窓を開けた。

朝の風が、濡れたタオルを持つ手の甲を撫でる。夏の終わりの風は、まだ湿っているのに、首筋を抜けるときだけ少し冷たかった。

「外に干す?」

「うん」

俺はベランダへ出た。物干し竿にタオルを掛ける。白い布が風を受けて膨らみ、すぐにしぼむ。何度も揺れるうち、布の端から水滴が落ちた。

その水滴は、ベランダの床に小さな跡を残した。

俺はしばらく、それを見ていた。

それから制服に着替え、鞄を持った。机の上には、部室の鍵がある。俺はそれを手に取った。昨日までより軽くなったわけではない。冷たさも、金属の重みも変わらない。

ただ、その鍵を持って行く理由だけが変わっていた。

白嶺高校へ着くと、グラウンドには後輩たちが集まり始めていた。

まだ正式な練習ではない。引退した三年生の道具を整理し、練習ノートをまとめ、必要なものを新しい部長へ渡すための朝だった。後輩たちは俺を見ると、いつものように頭を下げた。その挨拶が、今朝は少しだけ遠く聞こえた。

「湊先輩、これ、どこに置きますか」

一年生の一人が、ボールの入った籠を抱えて立っていた。

俺は籠を受け取ろうとした。

「そこじゃなくて、倉庫の右側。古いボールと混ぜると、空気が抜けたやつまで使うことになる」

「あ、はい」

「あと、練習ノートは年代ごとに分ける。去年の夏の分は、北川先生が記録を確認するから、勝手に捨てるな」

「分かりました」

声を出しているうちに、身体がいつもの動きを思い出していく。ボールの空気圧を確かめ、レガースを数え、棚の奥からテープの箱を出す。指示を出すたび、部長だった時間が、役目ではなく手順として残っていることに気づいた。

悠真が、古いメモ帳を片手に現れた。

「元部長、朝から働きすぎ。引退の意味を辞書で調べたほうがいいぞ」

「副部長も終わっただろ」

「俺は終わったんじゃなくて、業務形態が変わっただけ」

「便利な言い方だな」

「だろ。受験にも使える」

悠真はそう言いながら、俺の隣で後輩の名簿を確認した。ふざけた顔をしているが、名前の書き間違いを見つけると、黙って赤ペンで直している。

「昨日のタオル、洗った?」

「洗った」

「土は?」

「少し残った」

「そのくらいがいいんじゃない。全部落ちると、ただのタオルに戻る」

俺は悠真を見た。

「お前まで、そういうことを言うのか」

「俺はいつでも詩人だよ。気づいてなかった?」

「気づいてない」

「傷つくなあ」

悠真は笑った。

その笑いの向こうで、後輩がボールを一つ落とした。乾いた音がグラウンドに響く。俺は反射的に拾おうとしたが、後輩が先にしゃがみ込んだ。

「すみません」

「謝らなくていい。拾ったなら」

俺はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。

「ただ、落としたままにするな。次に誰かが踏むから」

口にした瞬間、瀬尾の姿が浮かんだ。

見つけたものを、見落としたままにしない。小さいものは、見つけた人まで見落としたら、ずっと残らない。

その考えが、自分の口から後輩へ渡ったことに、妙な感覚があった。俺は瀬尾から受け取ったものを、まだ自分の中でうまく言葉にできていない。それでも、所作や注意の形なら、誰かへ渡せる。

北川先生が部室の前に立っていた。

古いファイルを脇に抱え、手には鍵束がある。俺が近づくと、先生は後輩たちの作業を一度見渡し、それから俺の手元へ目を落とした。

「終わったか」

「まだです」

「そうか」

先生は、鍵束から一本を外した。

「これは返す」

差し出された鍵を、俺は両手で受け取った。

見覚えのある銀色だった。三年間、部長として持っていた部室の鍵。俺が返すつもりでいたものを、北川先生は先に俺の掌へ落とした。

「返すんじゃないんですか」

「部長の鍵は、もう渡した。これは部室の合鍵だ」

「俺に?」

「必要なら使え」

俺は鍵を見た。掌の中で、冷たい金属が朝の光を反射している。

「引退したのに」

「引退したから、来る理由がなくなるとは限らない」

北川先生はそこで一拍置いた。

「後輩の試合を見る。ノートを取りに来る。忘れ物を返す。理由はいくらでもある」

「忘れ物を返すために?」

「それも一つだ」

先生の声は、いつも通り静かだった。けれど、その短い言葉の奥に、俺がこれからここへ戻ってきてもいいという余白があった。

「ここに来る理由は、もう一つ増えたな」

北川先生はそう言った。

俺は鍵を握った。昨日まで、この金属は部長として背負うものだった。今日は、終わった場所へ戻るための細い道になっている。

「次の練習試合、見に来てもいいですか」

自分からそう聞いていた。

北川先生は俺の目を見た。

「来ればいい」

「後輩の邪魔はしません」

「するな」

「分かっています」

「なら、来ればいい」

その会話を聞いていた悠真が、横から口を挟んだ。

「じゃあ俺も行く。解説席を設けよう」

「お前は勉強しろ」

北川先生が言った。

「先生、引退した人間に受験の話をするのは反則です」

「引退しても受験生だ」

「容赦ないなあ」

後輩たちが小さく笑った。

その笑いは、昨日までの部室にあったものとは違っていた。敗戦を知らない笑いではない。負けたあとも片付けるものがあり、次に渡すものがあると知ったあとの笑いだった。

俺は部室の中を見た。

汗と洗剤の匂い。積まれた練習ノート。片方だけ外れたレガース。濡れたボールの表面。昨日までなら、これらを一つ残らず揃えなければ、終われないと思っていた。

けれど、今日は一つずつ手渡していけばいいと思えた。

すべてを自分だけで閉じなくても、時間は続く。

校庭の端では、夏草が風に揺れている。何本かは倒れたままだったが、根元から新しい葉が伸びていた。朝の光が、濡れた土の上で細くほどけている。

俺は鍵をポケットへ入れた。

そして、後輩たちのところへ戻った。

その日の夜、ベランダには白いタオルが干されていた。風を受けるたび、布はゆっくり膨らみ、また元へ戻る。右下の汚れは、薄い影のように残っている。

俺はそれを取り込んだ。

畳む。四つ折りにする。角を合わせる。

少しだけずれた。

今度も、直さなかった。

タオルを鞄の上へ置き、窓を閉める。外では、夏の終わりの虫が細く鳴いている。部活のない夜はまだ手持ちぶさただったが、その空白の中に、後輩の試合の日と、部室の鍵の重さと、返された布の手触りが残っていた。

終わった夏は、どこかへ消えたわけではない。

洗われ、畳まれ、別の手へ渡されるために、俺のそばで静かに形を変えている。

洗濯機の中で回っていた水音が、遠くでまだ続いているように聞こえた。

← 横にスクロールして読み進められます