第10話 欠番の頁

朝の光は、夜のあいだに冷えた木床の上で、まだ行き先を決めかねていた。
古賀澪は書庫の机に、昨夜の台帳写しを開いていた。百四十九の次に百五十一。欠けた一頁の端には、綴じ糸を抜いた跡がある。切り取られたのではない。いったん外され、別の紙を差し込んだあと、もう一度綴じ直されている。
紙の繊維が、頁の内側へ向かって乱れていた。
「ここだけ、糸の撚りが違います」
向かいで三枝透が眼鏡を外した。
彼は台帳を直接めくらず、複写画像を拡大していた。古い紙を扱うとき、彼はいつも現物より先に影を見る。傷をつけないためでもあり、残ったものを見落とさないためでもあった。
「昭和の綴じ糸ではありません。少し新しい。少なくとも、台帳が最初に綴じられた時期とは違う」
「頁を抜いたあと、別の内容を差し込んだ」
「あるいは、差し込むために抜いた」
三枝は画面を切り替えた。
「裏表紙の内側に、紙片が挟まっています」
そこに写っていたのは、薄く黄ばんだ細長い紙だった。端が糊で固められ、文字の一部だけが見えている。
――番号を戻すなら、名前だけでは足りない。
古賀は息を止めた。
「続きは?」
「まだ読めません。紙片の大半が、裏表紙の貼り合わせの下へ入っている」
「剥がせますか」
「剥がすことはできます。ただし、紙片を残したまま台帳を傷めずに取り出す必要があります」
三枝はそこで言葉を切った。
「松浦さんに頼むべきです」
古賀は頷いた。
名前を戻す。欠番を埋める。けれど、名前だけでは足りない。その一文は、昨夜の星野の告白を否定するものではなかった。むしろ、古賀が避けようとしていた作業の輪郭を、先に示している。
瑠璃が存在したことを証明するだけでは足りない。
なぜ消されたのか。何を見ていたのか。誰の手で、どの記録が変えられたのか。そこまで残さなければ、戻された名前は、また別の物語へ回収される。
書庫の扉が開いた。
鷹見康弘が立っていた。
朝の館内に似つかわしくないほど整った服装だった。濃紺の上着に、細い銀色の留め具。手には革の鞄がある。彼は室内を見回し、机上の台帳と三枝の画面へ視線を止めた。
「館長から聞きました」
声は穏やかだった。
「瑠璃の名前を、正式な記録へ戻すそうですね」
古賀は立ち上がらなかった。
「そのために確認しています」
「確認ではなく、公開の準備でしょう」
「公開範囲は、まだ決まっていません」
「決まっていないのに、名前だけは書いた」
康弘の視線が、台帳の写しへ落ちた。百五十番の欄に、古賀が記した名前がある。
鷹見瑠璃。
彼はすぐには何も言わなかった。指輪の位置を整え、鞄の留め金へ触れる。感情を抑えるときの癖だった。
「その名を、あなたはどこまで知っているのですか」
「肖像画のモデルであり、寄贈記録にいた人物です。贋作事件の経緯を知っていた証人でもある」
「証人という言葉は、便利ですね」
「事実に基づいて使っています」
「家族にとっては、死者を法廷へ引き出す言葉です」
康弘は鞄を机へ置いた。留め金を外す音が、静かな書庫に小さく響いた。
中から出てきたのは、薄い布に包まれたアルバムだった。表紙の角が擦れ、背表紙には鷹見家の印がかすかに残っている。
「これは、家に残っていたものです」
古賀は手袋をはめた。
康弘が布をほどくと、古い写真が現れた。寄贈式の写真と同じ日付。だが、こちらには別の頁がある。写真の裏に、鉛筆で短い文字が書かれていた。
瑠璃 絵は私の顔ではなく、見たことを残すためにある。
古賀の指が止まった。
「本人の筆跡ですか」
「家では、そう扱われてきました」
「そう扱われてきた、というのは?」
「本物かどうか、確かめることを誰も望まなかった」
康弘は写真を見下ろした。
「瑠璃は、家にとって扱いにくい人間でした。黙っているのに、見ている。見ているのに、誰も責めない。その沈黙が、家の者には非難より重かった」
「あなたは、彼女を知っていたのですか」
「直接には。幼い頃に一度だけ会いました。私はまだ、彼女の弟の立場でした」
古賀は顔を上げた。
康弘の声から、いつもの硬い整い方がわずかに崩れていた。
「弟?」
「家の記録では、そうなっています。実際には、血縁について別の記載もある。だからこそ、瑠璃の名は扱いにくかった。家の外へ出せば、寄贈の経緯だけでは済まない」
「血縁を隠すために、名前を消したのですか」
「それだけではありません」
康弘はアルバムの頁をめくった。
写真の端に、瑠璃が立っている。黒い細縁のブローチ。伏せられた手元。背後に、まだ改修前の美術館の建物がある。
「彼女は、鷹見家の娘としてではなく、別の名前で生まれた可能性がある。けれど、家はその記録を一つにまとめた。都合の悪いものを消し、都合のよい血筋へつなぎ直した」
古賀は写真の裏書きを見た。
瑠璃という名は、細い筆圧で残っている。台帳から消された名が、家族アルバムの隅でだけ、誰にも読ませるつもりのない形で生きていた。
「なぜ、これを今まで出さなかったのですか」
「出せば、家が守ってきたものが崩れる」
「家を守るために、瑠璃さんを消した」
「あなたは、すぐにそう結論づける」
「違いますか」
康弘は写真を布の上へ戻した。
「違わない。だが、家を守った人間の中には、瑠璃を守ろうとした者もいた」
古賀は黙った。
「瑠璃の名を完全に消せば、彼女は家の罪の一部になってしまう。だから、名前だけを別の記録へ残した。いつか誰かが見つけるように」
「それは、星野館長が言ったことと似ています」
「彼は、自分を慰めるために言ったのでしょう。家では、慰めることすら許されなかった」
康弘の指が、写真の端に触れかけて止まった。
「瑠璃は、白いバラを一輪だけ飾りました。私が幼かった頃、彼女は言った。花は多いと、誰のためのものか分からなくなる。一本なら、置いた人間の責任が残る、と」
書庫の空調が低く唸った。
古賀はその言葉を手帳へ書き留めた。聞いたままの形を崩さず、句読点を整えることもしなかった。
「このアルバムを、資料として預けていただけますか」
康弘はすぐには答えなかった。
「家名も記録されますか」
「隠す理由がなければ」
「理由はあります」
「では、その理由も記録します」
康弘の顔に、かすかな苦笑が浮かんだ。笑みというより、逃げ場を失った者の呼吸に近かった。
「あなたは、記録を美しくしない」
「美しく見せるためのものではありません」
「ええ。だから、怖い」
彼はアルバムを古賀の前へ押し出した。
「預けます。ただし、瑠璃の名前だけを家の罪として扱わないでください。彼女は、消された人間である前に、見ていた人間だった」
「そのことを残します」
古賀はアルバムを受け取った。
布越しに伝わる紙の冷たさが、手のひらへ沈んだ。
机の端では、欠番の台帳が開かれたままだった。名前を書いた欄の下に、まだ何もない。誰が消したのか。何があったのか。どの記録を根拠に戻したのか。そこへ書くべき文字は、これから増えていく。
書庫の窓から、白い光が差し込んだ。
その光の中で、アルバムの表紙に鷹見家の印が浮かんでいる。古賀はそれを隠さなかった。磨き直しもしなかった。
消された名の隣には、消させた家の印も残る。
廊下の奥で、誰かが花器を運ぶ音がした。陶器が台車の上でかすかに鳴る。
古賀は手帳を開き、百五十番の欄の下へ、もう一行を書き足した。
名前だけでは足りない。
書き終えた頁を閉じる前に、彼女はその言葉を消さずに残した。空白を埋めるためではなく、空白が生まれた理由まで見失わないために。
窓の外で、海がゆっくり明るくなっていた。
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