第9話 証言としての花粉

午後の美術館には、海から戻ってきた湿気が薄く沈んでいた。
開館中の一階では、来館者の靴音が途切れずに続いている。子どもの笑い声、受付で交わされる短い挨拶、展示室の奥から聞こえる音声ガイドの声。けれど三階北翼へ上がると、それらは一枚ずつ剥がされた紙のように薄くなった。
古賀澪は、封印展示室の前で足を止めた。
床には、朝、花器が置かれていた位置を示す小さな印が残っている。花器そのものは証拠保全のため、修復室の机へ移してあった。白いバラも、花弁を崩さないよう透明な箱に収められている。
残されたのは、床の艶の違いだけだった。
誰かが半歩右に立ち、花を差し、扉を確かめた。その身体の重さが、磨かれた木に薄く刻まれている。
背後から、靴音が近づいた。
「これが、花の置かれていた場所ですか」
佐倉亮介だった。
彼は封印展示室の扉の前で靴先を揃え、腕を組んだ。美術館の静けさに馴染むつもりがないのか、あるいは馴染めないだけなのか、立っているだけで空間に現実的な硬さが生まれる。
「はい。花器は修復室にあります」
「扉は開けられていない」
「封印も鍵も、昨夜の状態から変わっていません」
佐倉は扉ではなく、床を見た。しゃがみ込み、指先で木板の境目をなぞる。触れたのは花器の跡ではなく、その少し手前だった。
「ここに、何か引きずった痕があります」
「花器を置いたあと、位置を直した跡だと思います」
「思います、ですか」
「断定するには、花器の底の擦れと照合が必要です」
「相変わらず慎重ですね」
「慎重でないと、物にこちらの都合を押しつけることになります」
佐倉は小さく息を吐いた。
「警察は逆です。物から都合を引き剥がす。誰が触ったか、いつ触ったか、どこから来てどこへ行ったか。そこを取らないと、話にならない」
「話にならないのは、物だけで事件を閉じることです」
古賀が言うと、佐倉は顔を上げた。
「記録の話ですか」
「監視ログが抜けた六分間。鍵束の使用者欄が空白になっている時間。床に残った足の向き。別々のものに見えて、同じ場所へ向かっています」
佐倉は立ち上がり、古い封印具へ視線を移した。
「さっき、ログをもう一度見ました。二時十七分から二十三分。カメラの停止記録はない。停止したなら、復帰したときにシステムの再接続履歴が残る。だが、そこには何もない」
「つまり?」
「記録する対象から、六分間だけ外されていた。映像が消えたんじゃない。映像が記録されなかった」
「誰かが設定を変えた?」
「可能性はある。だが、誰が変えたかまでは、まだ言えない」
佐倉は腕時計を見た。何度も時間を確かめる癖があるらしい。だが、その針は事件の過去へ戻ることも、空白の六分を埋めることもできない。
「ただし、館長室の古い鍵束が、その時間帯に出ている。これは偶然とは言いにくい」
「封印展示室へ入るための鍵ですか」
「正確には、北翼の旧管理区画へ通じる鍵が混じっている。今は使われていないはずの鍵だ」
佐倉はポケットから写真を出した。鍵束の保管棚を撮ったものだった。複数の鍵が輪に通され、その中に、歯の長い古い鍵が一つある。
「この鍵だけ、金属の表面に新しい擦れがある。使ったあと、布で拭かれている」
「拭かれているのに、擦れは残った」
「人は、痕跡を消そうとして、別の痕跡を作る」
その言葉が、古賀の中で紙の傷と重なった。
削られた名前。貼り直された台紙。書き換えられた題名。消した手つきは、消したいものより長く残る。
「器物損壊ではないですね」
古賀が言うと、佐倉は少しだけ顎を引いた。
「少なくとも、今のところは。扉も額縁も壊されていない。だが、誰かが権限を使って、記録の外側へ出入りした。それは、事件ではないと言い切れるほど軽くない」
「記録の外側へ出入りする」
「ええ。現場に足跡がなくても、権限の使い方には足跡がある。私はそこを追います」
佐倉の声には、以前のような手続きだけを急ぐ乾きがなかった。目の前にある物証から、そこへ至る制度の形を見ようとしている。
古賀は床を見下ろした。
半歩右の曇りは、まだ消えていなかった。
そのとき、階段の方から三枝透が現れた。抱えているのは新聞縮刷版と、薄い封筒一枚だった。紙束の角はきちんと揃っているが、封筒だけは何度も開かれたらしく、口の部分がわずかに波打っていた。
「見つかりました」
三枝は息を整えてから言った。
「何がですか」
「寄贈式の翌朝の地方紙です。本文は切り取られていますが、写真の台紙が残っていました」
封筒から出てきたのは、厚い台紙の一部だった。写真が貼られていたはずの中央だけが、四角く切り抜かれている。切り口は鋭く、紙の表面だけでなく、裏側の繊維まで同じ深さで断たれていた。
古賀はルーペを近づけた。
「一度で切っています」
「はい。刃物を途中で止めていない。写真の輪郭に沿って慎重に切ったのではなく、写真の周囲を一枚の形として抜いている」
「写真を外したのではなく、台紙ごと人物を切り出した」
三枝は頷いた。
「切り取った部分に、女性の肩と襟元が残っていました。顔はありません。けれど、黒い細縁のブローチが写っている」
古賀は台紙の空洞を見た。
そこには、何もない。
それなのに、何もない部分の大きさが、切り取られたものの輪郭を伝えている。紙の欠損は、欠損したものの形を忘れていなかった。
「乱暴に消した跡ではありません」
「ええ」
三枝は台紙を光へかざした。
「裏面に、鉛筆で書かれた文字が残っています。切り取る前に、誰かが写真の位置を測ったらしい」
光が紙を透かす。
削られた線の下から、薄い筆圧が浮かび上がった。最初の一画は判別できない。次の線が縦へ伸び、最後に小さく返っている。
古賀は息を止めた。
「これは……」
「名前の頭文字ではないかと思います」
三枝の声は低かった。
「ただし、読めるとは言いません。削り跡の下に残った筆圧です。文字の形を推測しているだけです」
「鷹見、ではない」
「姓ではありません。ここにあるのは、もっと短い記号です」
古賀は紙の上を指で追った。触れてはいけないので、空中でなぞる。
「瑠璃の頭文字?」
「可能性はあります」
佐倉が横から覗き込んだ。
「名前が書いてあったんですか」
「おそらく。ただ、誰の名前かは断定できません」
「断定できないものを、なぜ重要だと?」
佐倉の問いに、古賀は台紙の切り口を見た。
「切り取った人間が、誰かの輪郭を消そうとしているからです。名前が読めなくても、消す必要があったことは残っている」
佐倉は黙った。
三枝は台紙を机へ置き、裏面の削り跡を指先で示した。
「完全には消えないんです」
「完全には?」
古賀が繰り返す。
「紙を削れば、表面の文字は消える。でも、筆圧は繊維の奥へ沈む。切り取っても、切り口が残る。上から別の紙を貼っても、紙の厚みが変わる。だから、消すという行為は、何かをなくす作業ではありません。残ったものの意味を変える作業です」
その言葉が、古賀には重かった。
瑠璃という名前が消えたのではない。
名前のあった場所を、誰も名前として読めないようにされたのだ。
「三枝さん」
「はい」
「この台紙は、どこから?」
「書庫の廃棄予定箱です。写真が切り取られていたため、掲載不能として処分されるところでした」
「処分されたら、何も残らなかった」
「何も残らないように見えたでしょうね」
三枝は台紙の角を揃えた。
「けれど、紙は不思議です。捨てられる直前に、一番よく喋ることがある」
佐倉が、切り口を覗き込んだ。
「これを切った刃物の特定はできますか」
「刃物までは分かりません。ただ、家庭用の鋏ではないと思います。切り口が滑らかすぎる」
「館内の修復道具なら?」
古賀は答えず、佐倉を見た。
三枝が先に言った。
「保存修復室には、紙を裁つための刃があります。松浦さんが使っていたものも、退職後しばらく残っていました」
佐倉の視線が、三枝から古賀へ移った。
「松浦さんに聞く必要がありますね」
「はい」
午後四時を過ぎたころ、松浦加代は修復室へ現れた。
薄い番茶の匂いが残るような、乾いた気配の人だった。左手の甲には薬品焼けの跡があり、皮膚の色が一部だけ変わっている。彼女は挨拶をせず、作業台の上に置かれた台紙へ目を落とした。
その視線だけで、古賀には分かった。
松浦は、これを知っている。
けれど、知っていることを認める前に、刷毛を取り上げた。毛先を指で撫で、付着した埃を落とす。質問を受けるたび、対象物ではなく道具を整える。それが彼女の逃げ方だった。
「この台紙を見たことがありますか」
古賀が訊くと、松浦は返事をしなかった。
佐倉が腕を組む。
「切り口の形から、使われた道具が分かる可能性があります。あなたが以前使っていた紙裁ち用の刃物も確認させてもらいたい」
「退職した人間の道具を調べて、何になる」
「分かりません。だから調べます」
佐倉の声はぶっきらぼうだったが、責める調子ではなかった。松浦は彼の顔を見ず、手の甲の焼け跡を親指で撫でた。
「道具は、使った人間より正直だよ」
「では、切った人間は分かる」
「道具だけでは分からない。刃を持つ手には、それぞれ癖がある。急ぐ人間は角を浅くする。迷う人間は、途中で力を変える。慣れた人間は、切り始めと終わりで同じ圧を保つ」
松浦は台紙の切り口を見つめた。
「これは、慣れた手だね」
「あなたの手ですか」
古賀が問うと、松浦の手が止まった。
長い沈黙のあと、彼女は刷毛を置いた。
「私の手なら、もう少し綺麗に切る」
「では、誰の手ですか」
「知らない」
「知らないのに、慣れた手だと分かる」
「修復をしてきた人間なら、手つきくらい読める」
松浦は顔を上げた。目は疲れていたが、逃げてはいなかった。
「紙の表面だけ直しても、下の傷は残る。あなたたちは、もうそれを知っているんだろう」
古賀の指先が、台紙の空白の縁で止まった。
「知っています」
「なら、切り取った紙を元通りにしようとしないことだね」
「元通りにはしません。切り取られた事実を残します」
「綺麗に貼り直さない?」
「切り口も、削り跡も、見える状態で保存する。失われた部分がどこにあったかを、欠損として記録する」
松浦は、少しだけ肩を下げた。
「それなら、まだ話せる」
佐倉が机の端を見た。
「何をですか」
「修復の話だよ。人間の話は、まだうまくできない」
松浦は台紙の切り口へ視線を落としたまま、ゆっくり言葉を続けた。
「昔、ここで一枚の写真を切った。切ったのは私ではない。けれど、切った台紙を、私が受け取った。上から紙を貼り、写真のない部分を目立たなくした。館の人間は、それを保存処理と呼んだ。私は、その呼び方を訂正しなかった」
「なぜですか」
「若かったから、というのは言い訳になる。仕事を失いたくなかった。上の人間に逆らえば、修復室から外されると思った。瑠璃さんの名前を口にすれば、鷹見家から苦情が来るとも聞かされていた」
古賀は黙って聞いた。
松浦の指が、焼け跡の上をゆっくり撫でる。
「そのとき、瑠璃さんは何をしたんですか」
「見ていた」
「何を?」
「台帳を差し替えるところを。寄贈された絵と、別の絵の作者名が入れ替わるところを。家の名を借りて、価値のない絵を価値のある絵に見せる作業を、あの人は見てしまった」
松浦の声は、乾いていた。
「彼女は騒がなかった。ただ、台帳の余白に一行だけ書いた。『見たものを、見なかったことにはしない』。その紙を、誰かが破った。私は破られた紙を裏打ちした。表面を整えれば、紙は使える。そう教わってきたから」
「あなたは、その一行を覚えている」
「忘れられないよ」
松浦は古賀を見た。
「忘れたふりをするために、何度も思い出したからね」
修復室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。白い光が紙の切り口を照らし、断たれた繊維を一本ずつ浮かび上がらせる。
「白いバラは、誰が置いているんですか」
古賀の問いに、松浦はすぐには答えなかった。
「あなたは、もう分かっているんじゃないのかい」
「まだ、証拠がありません」
「証拠が揃うまで、名前を呼ばない?」
「名前を間違えたくありません」
「間違えることを恐れて、呼ばないままにするのも、消すことの一種だよ」
松浦は刷毛を見つめた。
「白いバラを置いているのは、星野さんだ」
古賀は息を吸った。
外の港で、船の警笛が低く鳴った。音は窓硝子を震わせ、修復室の机の上の紙片をかすかに揺らす。
「館長が?」
「毎年、同じ日だ。雨の日も、雪の日も。誰にも見られないように、夜明け前に来る。花を置いて、花器の位置を直して、封印を確かめる。それから、誰かが来る前に戻る」
「どうして知っているんですか」
「一度、見たからだよ。私は忘れ物を取りに来ていた。星野さんは、花を置いたあと、しばらく動かなかった。祈っていたわけじゃない。謝っていたわけでもない。ただ、そこに立って、自分がまだ覚えていることを確かめていた」
「星野館長は、瑠璃さんを消したんですか」
松浦は目を伏せた。
「消したのは、一人じゃない。家の当主が指示し、館の上の人間が決め、修復にいた私たちが手を動かした。若い星野さんは、台帳を作り直した。瑠璃さんの名前を外す提案をしたのも、たぶん彼だ」
「たぶん?」
「最後まで、私は見なかった。見なかったから、誰か一人に全部を背負わせることができなかった。けれど、白いバラを置き続ける姿を見ていると、星野さんは自分だけが罪を引き受けているつもりなのかもしれないと思う。自分だけが悪いと言えば、ほかの人間は沈黙したままでいられるからね」
古賀は、館長室で見た星野の手を思い出した。
鍵束の端を揃え、書類を整え、乱れたものを元へ戻す手。彼は自分の罪まで、管理できるものだと思っている。花を供えることで記憶を残し、同時に、記憶を自分の内側へ囲い込んでいる。
「彼は、なぜ白いバラを?」
「瑠璃さんが好きだったからだよ。花を飾るとき、いつも一輪だけ選んだ。白い花を。香りの強いものは嫌っていた。匂いは部屋に残りすぎるから、と言ってね」
松浦の声がかすれた。
「瑠璃さんは、名前を残したかった。白いバラは、そのための合図だったのかもしれない。誰かに見つけてもらうためか、自分が見失わないためか。今となっては分からない。ただ、星野さんが花を置くたび、あの人の名はまた戻ってきた」
古賀は採取袋を取り出した。
「この花粉を、証拠として保管します」
「証拠にするのかい」
「はい。花を置いた人の指紋がなくても、同じ花器へ何度も供えられたことは残っています。処分された花の記録、同じ日付、花器の水垢、床の擦れ。ひとつでは弱くても、重なれば行為の継続を示せる」
「告発として?」
「供花としても、告発としても」
古賀は透明な袋の中の白い粒を見た。
「忘れないことと、隠し続けることは、同じではありません。星野館長は、忘れないために花を置きながら、記録を隠し続けている。だから、花が彼を責める証言になる」
松浦は長いあいだ黙っていた。
「あなたは、強いね」
「強くありません。まだ、怖いだけです」
「怖い?」
「記録を正したあと、何が壊れるのか分からない。館も、人間関係も、私自身の仕事も。けれど、壊れる可能性があるからという理由で、壊れたものを壊れていないように残すことはできません」
松浦は頷かなかった。
ただ、机の上に置かれた刷毛を、白布でゆっくり包んだ。道具をしまう仕草が、長い仕事の終わりを告げるようだった。
「星野さんに、私が話したことを伝えるかい」
「伝えます」
「私の名前も?」
「記録に残すなら、誰が証言したかを残します」
「そうか」
松浦は視線を落とした。
「なら、ひとつだけ付け加えておくれ。私は、瑠璃さんの名前を消す作業に手を貸した。でも、消したことを正しいと思った日は一日もない。正しくないと分かっていながら、仕事を続けるために手を動かした。私の沈黙は、命令ではなかった。私自身が選んだものだ」
古賀は手帳を開いた。
松浦の言葉をそのまま記録する。整えず、短くしすぎず、彼女の躊躇まで含めて残す。
夜になり、館内から来館者の気配が消えた。
古賀は修復室の机へ花器を置いた。底の水はすでに乾いている。細いひびの中に、白い花粉が沈着していた。ピンセットで採取した粒を、採取日時と場所とともに記録する。
一輪の供花にしては、多すぎる。
花器の底に残る白い粒は、毎年の朝を重ねている。誰かが花を置き、水を替え、位置を直し、扉を見た。その繰り返しが、陶器のひびへ少しずつ沈み込んだ。
古賀は花器の縁へ顔を近づけた。
強い香りはない。
乾いた古紙と、古い糊に似た匂いがする。花の匂いより、花を置き続けた時間の匂いだった。
そのとき、修復室の扉が開いた。
星野英明が立っていた。
彼は机上の花器と採取袋を見て、足を止めた。表情は穏やかだったが、視線が一度だけ花器の底へ落ちる。その目が、白い粒を数えるように動いた。
「まだ、調べていたのですね」
「はい」
古賀は採取袋を閉じた。
「花粉を採取しました。過去の夜勤日誌にも、同じ日付の近くに白い花弁や植物片の記録があります」
「清掃の記録でしょう」
「処分された花の記録です。花と呼ばず、植物片と書いた人間がいる」
星野は花器の前まで来た。手袋をはめたまま、縁へ触れようとしたが、指を止めた。
「それが、私のものだと?」
「まだ、そうは言っていません」
「松浦さんが話したのですね」
古賀は答えなかった。
星野の顔から、表情がゆっくり抜けていく。怒りではない。長年、閉じた部屋の奥へ押し込めていたものが、ようやく置き場所を失ったような顔だった。
「彼女は、何を話しましたか」
「自分が記録の改ざんに手を貸したこと。瑠璃さんの名前を消す作業を見たこと。あなたが毎年、白いバラを置いていること」
星野は花器を見つめた。
「私は、花を置いただけです」
「花を置き続けることには、理由があります」
「理由など、ありません。習慣です」
「習慣になるまで、何年続けましたか」
星野は返事をしなかった。
古賀は机の上の資料を一枚ずつ、星野の前へ並べた。夜勤日誌。切り取られた台紙。監視ログ。鍵束の保管簿。採取袋。
「あなたは、瑠璃さんの名を消す決定に加わった。台帳を作り直し、作品の題名を変え、人物を寄贈記録から外した。その後、白いバラを置き続けた」
「私一人ではありません」
「はい」
「鷹見家も、当時の館の責任者も、修復にいた人間も関わっていた。私だけを責めれば、話は簡単になる。だから、私の責任だけにしないでください」
声は穏やかだった。
だが、その穏やかさはもう防壁ではなかった。崩れないように支えているだけの薄い板に見えた。
「私は、あなた一人を犯人にするつもりはありません」
古賀は言った。
「けれど、あなたが自分の手で何をしたかは、あなた自身の名前で残します。ほかの人間の沈黙も、それぞれの名前で残す」
「そんなことをして、何になるんです」
「名前を返すための土台になります」
「瑠璃は、もう戻りません」
「戻りません。だからこそ、存在しなかったことにしない」
「名前を戻しても、彼女が失ったものは戻らない」
「分かっています」
古賀の声は静かだった。
「記録は、失われた人生を元通りにはできません。死んだ人を生き返らせることもできない。けれど、消されたことまで消してしまえば、彼女が二度失われる。私にできるのは、失われたものを失われたまま記録することです」
星野の目が、白い花粉の袋へ向いた。
「その花粉を、証拠にするのですか」
「はい」
「花粉が、私の罪を証言すると?」
「花粉だけでは証言になりません。けれど、あなたが何年も同じ日に花を置いたこと、花が処分されて記録から外れたこと、花器に沈着した層、床に残った立ち位置、監視ログの空白。重なったものが、あなたの行為を示します」
「私は、瑠璃を忘れないために置いた」
星野は初めて、言い切った。
「忘れないために?」
「忘れれば、私が本当に何もしていない人間になってしまう。あのとき、私は若かった。館に残りたかった。研究者として認められたかった。贋作だと知りながら、寄贈品を守る側へ回った。瑠璃が見たことを公にすれば、鷹見家だけでなく館も潰れると言われた。彼女の名を外せば、作品も寄贈も残せる。そう説明された」
星野は花器へ目を落とした。
「私は、その説明を信じたかった。いや、信じたふりをしたかった。瑠璃は、台帳を差し替える現場を見ていた。作者名を入れ替え、価値のない絵を寄贈品として扱う手順を知っていた。彼女は言った。『名前を消しても、見たことまでは消せない』と」
古賀の指が止まった。
「瑠璃さんは、その言葉をどこへ残したのですか」
「小さな手帳です。けれど、手帳は鷹見家が回収した。私は見つけられなかった。見つけたのは、台帳の余白に残った一行だけだった」
「何と?」
「『見たものを、見なかったことにはしない』」
星野は目を閉じた。
「私はその一行を削った。瑠璃の名を外した。作品番号を組み替えた。修復メモに手順を書いた。松浦さんには、紙の差し替えを頼んだ。鷹見家には、写真と寄贈礼状の整理を任せた。誰も一人で全部はしなかった。だから、誰も自分だけが罪を負う必要はないと思えた」
「けれど、白いバラを置いた」
「置かずにはいられなかった」
「それは贖罪ですか」
星野はしばらく答えなかった。
「贖罪と呼べるほど、立派なものではありません。花を置けば、私はまだ瑠璃を覚えていると自分に言える。けれど、名前を台帳へ戻す勇気はなかった。私は彼女を弔っていたのではなく、私が忘れていないという事実を守っていたのです」
その言葉のあと、館内のどこかで時計が止まった。
音が一つ消える。
修復室は真空のように静かになった。花器の底に残る白い粒が、透明な袋の中でかすかに光っている。
「星野館長」
古賀は言った。
「私は、あなたの供花を、罪の証拠として記録します」
星野は顔を上げた。
「供花を、ですか」
「はい。あなたが置いた白いバラは、瑠璃さんを忘れないための行為だった。同時に、名前を戻さないまま罪を自分の中へ封じる行為でもあった。だから、花は弔いであり、告発です」
星野の唇がわずかに震えた。
「私は、名前を戻すことを恐れていた」
「何を失うからですか」
「館です。私の経歴です。関係者の生活です。けれど、本当は違う。瑠璃の名を戻したら、私が長年守ってきた秩序が、最初から彼女の沈黙の上にしか存在しなかったと分かってしまう」
古賀は採取袋を見た。
「秩序を守ったのではありません」
「ええ」
「秩序の形をした空白を守った」
星野は目を伏せた。
「その通りです」
初めて、彼の返事に逃げ道がなかった。
古賀は台帳の写しを開いた。百四十九の次に、百五十一がある。長く続いた欠番。その空白の縁を、彼女は指先で撫でた。
「この欠番を、戻します」
「私の告白だけで、決めていいのですか」
「決めるのではありません。確認できた資料を添えて、訂正します。欠番が作られた経緯、削除された人物名、作品の来歴、関係者の証言。すべてを分けて記録する」
「瑠璃の名前を?」
古賀は一拍置いた。
「鷹見瑠璃。存在を裏づける写真、装身具、新聞記事、修復メモ。名前だけを美しく戻すのではなく、消された痕跡とともに」
星野は花器へ手を伸ばした。
今度は触れなかった。
「白いバラは、もう置かなくていいのでしょうか」
古賀は彼の手元を見た。
「置くかどうかは、館長が決めることではありません」
星野が顔を上げる。
「では、誰が?」
「瑠璃さんの記録を、これから読む人です。供花を弔いとして受け取る人もいる。告発として受け取る人もいる。少なくとも、処分して記録から外すことは、もうできません」
星野は長く黙った。
やがて、花器の縁に残った白い粉を見つめながら、低い声で言った。
「それでも、明日の朝、私は花を置くかもしれません」
「その行為も、記録します」
「私が続ける限り?」
「続ける限り」
「供花が、監視されるようなものになっても?」
「監視ではありません。証言です」
星野は、ほとんど見えないほど小さく頷いた。
古賀は採取袋を机の中央へ戻した。白い粒は動かない。けれど、そこには何年分もの朝が重なっている。誰かが花を選び、誰かが花を置き、誰かが処分し、誰かが見なかったことにした時間。
そのすべてが、花粉の一粒一粒に沈んでいた。
夜の回廊へ出ると、窓の外の海は黒く、港の灯りだけが水面で細かく揺れていた。古賀は封印展示室の前へ立った。カーテンの向こうには、まだ肖像画がある。
彼女は鍵を開けなかった。
開けずに、扉の前へ白いバラを一輪置いた。
花器は空のままだった。新しい花を挿すことはせず、白い花をその脇に横たえた。花弁が木床へ触れないよう、薄い保存紙を敷く。
記録のためだった。
そこに花が置かれたことを、処分されない形で残すためだった。
黒い細縁のブローチは、カーテンの隙間から差し込んだわずかな光を受けていた。古賀には、それが誰かの返事のように見えた。
彼女は手帳を開き、台帳の欠番の横へ日付を記した。
一五〇番、記録復元作業開始。
その下に、名前を書く。
鷹見瑠璃。
書いたあと、古賀はすぐに線で囲まなかった。文字を飾らず、空白も消さず、削り跡のある頁へそのまま残した。
廊下の奥では、館内の時計が止まっていた。
それでも、夜は少しずつ明け始めている。窓硝子の向こうで、海の黒さが薄まり、港の輪郭が戻ってくる。封印展示室のカーテンは静かに垂れたままだった。
ただ、扉の前に置かれた白いバラだけが、誰にも見られないはずの場所で、朝の光を受けていた。
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