第8話 封じられた帳面

母が出かけたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
町内会の寄り合いがあるとかで、芽衣は割烹着を脱ぎ、地味な色の外出着に着替えた。玄関で靴を履きながら、僕に向かって「戸締まりは、あなたがして」とだけ言った。普段なら念を押すように順番まで言うはずなのに、今日はそれきりだった。門の蝶番が鳴り、母の後ろ姿が坂道の向こうへ消えていくのを、僕は縁側からしばらく見送っていた。
家の中は、急に広くなったように感じられた。誰もいない台所、誰もいない居間。恒一は朝から役所へ出かけていて、家には僕ひとりだった。
仏間の障子を開けると、線香の匂いが微かに鼻を撫でた。遺影の中の祖母は、いつもと変わらない顔で微笑んでいる。帳面は、下駄と髪留めの隣に、僕が置いたままの向きで立てかけられていた。手に取ると、紙の波打ちが指の腹に伝わってくる。もう何度も開いた頁のはずなのに、今日はそこに書かれた文字の重みが違って感じられた。
戸締まりの順。戸口に立つ者の位置。音を数えないこと。途中で振り向かないこと。
一度読んだときは、それらを禁忌の羅列としてしか読めなかった。だが恒一の話を聞いたいまなら、この一文一文の裏に、あの夜の具体的な動きが透けて見える気がした。
――玄関を閉めて、勝手口を閉めて、縁側へ来た。そこまでは同じだった。だが、最後に仏間へ行かなかった。庭へ出た。
帳面の順序と、恒一の記憶がわずかにずれている。しげは戸締まりの手順を最後まで守らなかった。守らなかったのではなく、守れなかったのだ。どこかで、手順よりも優先しなければならない何かが起きた。
僕は頁をめくる指を止めた。「聞いてはいけない音」の頁の裏に、これまで気に留めなかった小さな書き込みがあった。紙の隅、余白と呼ぶにも狭すぎる場所に、鉛筆でごく薄く記されている。
透の声だけは、返してよい。
その一行を見つけた瞬間、喉の奥から何かがせり上がってきた。僕の声だけは、返してよい――それは裏を返せば、他の誰の声も返してはならない、という意味になる。家族の誰かが呼ばれても応えるな。だが透が呼ばれたなら、応えてよい。
なぜ、僕だけが特別だったのか。
考えようとするたびに、頭の奥で何かが軋んだ。縁側の板が鳴るときの、あの低い軋みと同じ音だった。膝の上の帳面を握る手に、汗がにじんだ。
玄関の戸が開く音がした。母が帰ってきたのだと分かった。僕は帳面を持ったまま、仏間の入口で待った。
「透」
母は僕の手にある帳面を見て、一瞬だけ足を止めた。だが今日は、布巾を取りに走らなかった。買い物袋を上がり框に置いたまま、その場に立ち尽くしていた。
「また、それを読んでいたのね」
「聞きたいことがある」
「聞いても、答えられないことの方が多いと思うわ」
「答えられることだけでいい」
母はしばらく黙っていた。それから、買い物袋を持ち上げもせず、框に腰を下ろした。疲れた仕草だった。着替えたばかりの外出着の裾が、畳の上に広がる。
「透の声だけは、返してよい。そう書いてある」
母の肩が、目に見えて強張った。
「あなたは、あの夜、誰かに名前を呼ばれたのよ」

言われた瞬間、耳の奥で鈴が鳴ったような気がした。実際には守り袋は動いていない。
「誰に」
「分からない。分からないから、みんな怖がったの」
母は膝の上で両手を重ねた。祖母がいつもそうしていたように、指の関節を揃えて。
「あなたはあの夜、縁側の外を見ていた。柿の木の方を。名前を呼ばれたみたいに、じっと動かなくなった。子供が急にそうなると、大人は怖くなるものよ。恒一が抱き上げて、家の中へ戻そうとした。でも、しげは止めなかった。止めるどころか、あなたに応えていいと言った」
「祖母が」
「透の声だけは、返してよい、って。あの人は、あなたが向こうに応えることを許したの。他の誰にも許さなかったのに」
「なぜ、僕にだけ」
母は答えなかった。答えの代わりに、視線を仏間の暗がりへ落とした。
「私にも、本当のところは分からない。しげは、そういう理由を口にする人じゃなかった。ただ、あなたを膝に乗せて、縁側の外を見せていた時間が、他の子供に対するのとは違っていたことだけは覚えている。可愛がっていたのとも、少し違う目だった。まるで――」
母はそこで言葉を止めた。続きを言うべきかどうかを、指の先で計っているようだった。
「まるで、透に何かを渡そうとしている目だった」
風が仏間の障子を揺らした。庭の柿の木の葉が擦れる音が、いつもより近く聞こえた。
「渡すって、何を」
「分からない。分かっていたら、私はもっと早く、あなたにこの家へ帰ってくるなと言っていたと思う」
母は立ち上がり、買い物袋を持ち上げた。台所へ向かう足取りは、いつもの几帳面さを失っていなかったが、その背中はどこか小さく見えた。祖母が生きていた頃、同じ廊下を同じ速さで歩いていた背中を、僕は覚えている気がした。輪郭は違うのに、歩幅の癖だけが同じだった。
「透」
台所の入口で、母は振り返らずに言った。
「今夜、また足音が来たら、今度は障子を開けなさい」
「いいの、開けても」
「開けなければ、あなたはずっと、返事をしないまま呼ばれ続ける」
それだけ言うと、母は買い物袋を流しへ置き、水を出した。皿を洗うような、いつもの音が台所から聞こえ始めた。だが今日は、拭く必要のない場所を拭く仕草はなかった。母はただ、聞かれたことに、聞かれた分だけ答えたのだ。
僕は帳面を閉じ、遺影の前へ戻した。祖母の写真は、相変わらず何も語らない微笑みのままだった。だが、その微笑みの奥に、僕を見ている目があるような気がしてならなかった。
庭では、柿の葉の重なりがまだ揺れていた。根元の土は、掘り返されたまま、誰の手も入っていない。夕暮れが近づくにつれ、その土の色が、少しずつ暗さを増していくように見えた。
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