第7話 縁側に残る歩幅

夜の縁側で足音を待つことに、僕は慣れかけていた。
慣れる、という言い方が正しいのかは分からない。恐怖が薄れたわけではない。濡れた板に腰を下ろし、蚊取り線香の煙が闇へほどけていくのを眺めているうちに、耳が先に家の気配を拾うようになっただけだ。
柱の中で木が縮む音。台所の水道から落ちる、間隔の不揃いな雫。裏山から下りてきた風が、柿の葉の裏を撫でていく音。そうしたものと、縁側を歩く音は違っていた。
違うものとして、そこにあった。
その夜、母は夕食の片づけを終えると、いつもより早く台所の明かりを消した。食器を拭く手つきは普段と変わらなかったが、包丁を洗うときだけ、刃を水にくぐらせる時間が長かった。何度も裏返し、刃先を確かめ、白い手ぬぐいで丁寧に包む。
「まだ寝ないの」
母は流しを見たまま言った。
「少し、外にいる」
「蚊がいるでしょう」
「蚊取り線香を持っていく」
「そういう問題じゃないのよ」
母は蛇口を閉めた。水の音が止まると、家の中の静けさが急に深くなった。
「透。今日は、縁側に出ないで」
「どうして」
「夜だから」
「いつも夜だよ」
「いつも同じ夜じゃないわ」
母はそこで初めて僕を見た。目の下に薄い影がある。眠っていないのは僕だけではなかった。
「母さんは、何を待ってるの」
「待ってない」
「じゃあ、何を避けてるの」
返事の代わりに、母は卓上の湯呑みを片づけ始めた。ひとつ、ひとつ、向きをそろえて盆へ載せる。僕が子どもの頃、祖母のしげが同じように湯呑みを並べていた記憶がある。取っ手のあるものは取っ手を左へ。茶渋の残ったものは、光の当たらない奥へ。
祖母の手つきと母の手つきは、よく似ていた。
「お祖母ちゃんは、僕を外へ出そうとしたんだろう」
母の指が止まった。
「神崎さんに聞いたのね」
「うん」
「トメさんは、余計なことを言うようになった」
「母さんは、何も言わなすぎる」
母は湯呑みを盆へ置いた。陶器が触れ合い、硬い音がひとつした。
「何も言わなかったんじゃない。言わないことで、あなたがここへ戻らずに済むようにしたの」
「それで、僕は戻らなかった。でも、何も忘れたまま東京にいた」
「忘れていた方がよかったの」
「母さんにとっては?」
「私にとってじゃない。あなたにとってよ」
「僕が何を望むか、母さんは聞かなかった」
「子どもに聞いて、決めさせることじゃなかった」
母の声は低かった。責めているのではない。自分の中で何度も繰り返して、角が擦り減った言葉を、ようやく床へ置くような声だった。
「じゃあ、今は聞いてくれる?」
僕は言った。
「今の僕が、何を知りたいか」
母は黙っていた。
「知りたい。祖母が何をしていたのか。僕が何を見たのか。家の中で、誰が何を守ろうとしたのか。怖いから知りたいんじゃない。怖いまま、何も知らないふりをしていたくないんだ」
「知れば、怖さがなくなるわけじゃない」
「分かってる」
「家族を許せなくなるかもしれない」
「それも分かってる」
「しげを、好きだった自分まで疑うかもしれない」
その言葉だけは、すぐに返せなかった。
祖母に抱かれたときの記憶は、僕の中で一番あたたかい場所にある。白粉と石鹸の匂い。洗い立ての木綿の夏着。汗ばんだ頬に触れる、少し冷たい布。夕方の縁側で、祖母は何も話さず、僕の髪を撫でていた。遠くで盆踊りの太鼓が鳴っていたような気もする。
だが、その記憶のすぐ隣には、暗い穴がある。
「好きだったから、知りたいんだと思う」
母の顔がわずかに歪んだ。泣くほどではない。けれど、泣くという行為を先に片づけた人の顔だった。
「外に出て」
「母さんは、出ないの」
「私はここにいる」
「何かあったら」
「何も起こさないようにする」
「一人で?」
「一人でしかできないこともあるの」
その言い方が、祖母と同じだった。
僕は返事をせず、蚊取り線香を手に取った。母は止めなかった。ただ、僕が障子へ近づくと、背中に向かって言った。
「音を数えないで」
「数えるつもりはない」
「つもりがなくても、耳は数えるのよ」
障子を開けると、夜の湿気が顔に触れた。
昼間の熱を吸った庭は、暗くなっても冷えきらない。けれど縁側の板だけは、裸足を置いた瞬間、皮膚の熱を奪った。濡れているわけではないのに、表面のどこかに水が残っているようだった。
蚊取り線香を板の端へ置き、僕は腰を下ろした。
家の中から、母が包丁をしまう音が聞こえた。戸棚を閉める音。鍵を確かめる音。ひとつずつ、生活の輪郭が薄くなっていく。
居間では、恒一が古いラジオを小さく流していた。放送はほとんど聞き取れず、男の声が砂嵐の向こうで途切れ途切れに響いている。叔父は音が嫌いなはずなのに、最近は夜になると必ずラジオをつける。無音の家に、別の音を重ねているのだ。
「まだ起きてるのか」
恒一が障子の内側から言った。
「叔父さんも」
「俺は仕事だ」
「夜にする仕事?」
「昼にできない仕事もある」
「解体の手配?」
「そうだ」
「家を壊すための?」
「家を残すための仕事じゃない」
「知ってる」
僕は庭を見た。柿の木の葉が重なり、空の色をほとんど隠している。枝の間から、細い月が一度だけ見えた。
「叔父さんは、あの夜、何を見たの」
ラジオの音が止まった。
「知らない」
「いつもその答えだね」
「知らないものを、知っているとは言えない」
「でも、聞いたことはある」
恒一は返事をしなかった。
「神崎さんは、祖母が一人で歩いていたと言った。家の中と庭の間を。叔父さんは、何かを見たんだろう」
「トメは、見たことを全部話したわけじゃない」
「叔父さんもだ」
「話したら、何かが変わるのか」
「少なくとも、僕の中の空白は変わる」
「空白は埋めればいいってもんじゃない」
「埋めないから、毎晩足音が聞こえる」
自分の声が、思ったより静かに出た。怒りはなかった。怒りになる前のものが、胸の底で冷えて固まっているだけだった。
恒一は障子の向こうに立ったまま、外へは出てこなかった。
「透。俺は、あの夜、お前を縁側から離した」
唐突な言葉だった。
「どうやって」
「抱き上げた」
「僕を?」
「お前は、しげの膝に座っていた。泣いてはいなかった。泣かない子どもだった。怖いときほど、耳だけを澄ませて、何かを聞こうとする」
胸の奥で、何かが擦れた。
「祖母は、何をしていたの」
「戸を閉めていた」
「いつもの戸締まり?」
「いつものように見えた。でも、いつもの順番ではなかった」
恒一の声は、ラジオよりも小さかった。
「玄関を閉めて、勝手口を閉めて、縁側へ来た。そこまでは同じだった。だが、最後に仏間へ行かなかった。庭へ出た」
「下駄を履いて?」
「片方だけだった」
僕の足裏が、急に冷えた。
「片方だけ?」
「もう片方は、柿の木の下に置かれていた。俺が見つけたときには、もう土がかかっていた」
下駄の底の擦れ。柿の木の根元から出てきた片方。埋められた白い髪留め。ばらばらだったものが、夜の薄暗がりのなかで、ひとつの手順になりかけていた。
「祖母は、何をしに庭へ出たの」
「お前を家の中へ戻すためだ」
「僕を?」
「お前が庭を見ていた。柿の木の方を。何かがいると言っていた」
「何かって?」

「覚えていない」
「叔父さんは覚えてるんだろう」
恒一は答えなかった。僕は振り返らず、縁側の板を見つめた。木目の間に、昼間にはなかった細い湿りが浮いている。
「僕は、庭に何を見たの」
「見たんじゃない。見ようとした」
「違いがあるの」
「ある。見たものは、自分の外にある。見ようとしたものは、自分の中へ入ってくる」
叔父の言葉に、トメの声が重なった。聞こえたものを、聞こえたままにしておく。意味を急いでつけると、違うものを呼ぶ。
「祖母は、僕をどうしたの」
「抱き上げて、縁側へ座らせた。守り袋を、お前の首にかけた」
僕は反射的に胸元へ手をやった。布袋の中の鈴が、体温を持たずにそこにある。
「何か言った?」
「しげは、俺には何も言わなかった」
「僕には?」
「聞こえなかった」
「聞こうとしなかったんじゃなくて?」
恒一の息が止まった。
その瞬間、家の奥で板が鳴った。
裸足が、縁側の西端を踏んだ。
次に、草履の底が擦れる。
す、と低い音が続き、縁側の板が一枚ずつ沈んでいく。
恒一は障子の向こうで息を呑んだ。母は台所で包丁を置かなかった。刃物を握ったまま、何かに備えているようだった。
音は、左から右へ進んだ。
僕は影を見た。
障子紙の白い面を、細い影が横切った。人の形には見えない。ただ、肩のあたりだけが少し濃く、頭の高さが低い。歩幅は祖母のものだった。
左足のあとに、右の草履が少し遅れる。
裸足。
草履。
裸足。
草履。
僕は数えないようにした。それでも、板のどこが鳴ったかを身体が拾ってしまう。西から三枚目。柱の前。障子の中央。幼い頃、祖母の後ろを歩いて覚えた縁側の長さが、勝手に足音へ重なっていった。
影が止まった。
障子一枚の向こうに、誰かが立っている。
白粉の匂いがした。古い化粧品の甘さと、湿った木綿の匂い。僕の喉が閉じ、息が浅くなる。目を閉じれば、祖母の膝の上にいた記憶が戻りそうだった。
「透」
母の声がした。
「振り向かないで」
「母さん、今どこにいるの」
「台所よ」
「何を持ってる」
「包丁」
「どうして」
「戸を閉めるため」
母の声は平らだった。けれど、その平らさの下で、呼吸が細かく揺れている。
「僕を守るため?」
「そう」
「何から」
母は答えなかった。
「答えてよ」
「今すぐに答えたら、あなたは振り向くでしょう」
「振り向くことが、そんなに危ないの」
「見てしまうからじゃない。見たあとで、あなたが自分を責めるからよ」
障子の向こうで、何かがわずかに身じろぎした。
足音ではない。衣擦れのような、紙を撫でる音だった。
「僕はもう、何も知らないことの方を責めてる」
「それでも、まだ生きているでしょう」
母の言葉が、暗い庭へ落ちた。
「知ることは、いつも生きるために必要なわけじゃない。知らないことで生き延びられる夜もある。あの夜、私たちはあなたにそれを選ばせた。選ばせると言っても、あなたは子どもだった。だから私たちが決めた。決めたことを、正しいとは言えない。でも、間違いだったとも言えない。あのとき他に方法がなかったから、私たちはその方法を何度も繰り返した。あなたが町を出ても、東京で暮らしても、祖母の話をしない。家へ帰れと言わない。写真を見せない。全部、同じ夜をもう一度起こさないためだった」
「その結果、僕は祖母を失ったままになった」
「そうね」
母の声が、初めて折れた。
「あなたから、しげを奪ったのは私たちよ」
縁側の板が、僕のすぐ横で鳴った。
裸足の気配が、障子の前まで来ていた。
僕は手を伸ばせば、桟に触れられた。障子紙の向こうに祖母がいるなら、その指先に触れられる距離だった。白粉の匂いは、子どもの頃に僕の頬へ触れた夏着の布と同じだった。
「透」
恒一が言った。
「障子を開けるな」
「叔父さんは、僕を抱き上げたんだろう」
「ああ」
「そのあと、何をした」
「しげが、お前をこっちへ寄こせと言った」
「どうして渡さなかったの」
「渡した」
「嘘だ」
言葉が出た瞬間、縁側の気配が消えた。
音も、匂いも、湿気さえも、一度に引いた。
僕は自分の声を聞いていた。
「祖母は、僕を外へ出そうとした。叔父さんは、僕を家の中へ戻した。母さんは、僕に忘れさせた。だったら、誰が祖母の手を取ったんだ」
恒一の沈黙が答えだった。
僕は障子を見つめた。紙の下端に、濡れた跡が浮かんでいる。そこから、薄い汚れが縁側の板へ続いていた。裸足の跡と、草履の擦れた跡。だが今夜は、いつものように往復していない。
祖母の足音は、僕の前で止まったままだった。
「透」
母が、背後から言った。
「今日は、もう中へ入って」
「足音が、まだそこにいる」
「だからよ」
「祖母なら、僕に何か伝えようとしている」
「しげは、何も伝えようとはしていないかもしれない」
「じゃあ、何をしているの」
「帰すために歩いているのよ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがほどけた。
帰す。
祖母は帰ってくるのではない。僕を帰そうとしている。僕を家の外へ戻すために、夜ごと縁側を歩いている。そう考えた瞬間、足音の間隔が、かつて抱かれていた時間と同じだった理由が分かった気がした。
あれは呼び声ではなかった。
眠れない子どもを、家の外へ連れ出さないための歩幅だった。
僕は障子の桟から手を離した。
すると、向こう側で、足音が一つ鳴った。
裸足。
続いて、草履。
今度は障子から遠ざかっていく音だった。
左へ。
戻る。
右へ。
戻る。
僕は目を閉じた。白粉の匂いが薄れ、代わりに湿った土の匂いが強くなっていく。柿の木の根元から、庭を横切り、縁側へ戻る歩幅。祖母は今も、家の境目を確かめている。
朝になっても、音は消えなかった。
縁側の板には、裸足と草履の跡が残っていた。昨夜までよりも濃く、歩幅がはっきりしている。濡れた跡は、庭から縁側へ続き、障子の前で途切れていた。
僕はしゃがみこみ、指でその跡に触れた。
冷たい粉が、皮膚の上で崩れた。
仏間の方から、芽衣の短い呼吸が聞こえた。
何かを見たのではない。
何かを見ないようにした、そんな息だった。
僕は振り返らなかった。
代わりに、手帳を開いた。いつものように時刻を書こうとして、ペンを止める。トメの言葉が、耳の底に残っている。
時刻はいらん。
僕は日付だけを書いた。
それから、音のことは書かなかった。
縁側に残った歩幅のそばへ、僕の裸足を置いた。祖母の跡に重ねるのではなく、その少し外側へ。踏み荒らさないように、けれど見失わないように。
板の冷たさが足裏から身体へ上がってきた。
その冷えの奥で、鈴が一度だけ鳴った。
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