第6話 古老の言葉

神崎トメの家へ行くことは、母にも恒一にも告げなかった。
朝食のあと、母が洗った茶碗を伏せ、恒一が書斎で紙をめくる音を聞いているうちに、家の中にいることが急に息苦しくなった。誰もが何かを知っている顔をしている。けれど僕が尋ねると、答えの代わりに食事や戸締まりや解体の日程の話を始める。
沈黙は、何も言わないことではなかった。言うべき場所を、少しずつずらしていくことだった。
外へ出ると、庭の空気は家の中より軽かった。蝉の声が柿の葉にまとわりつき、濃い緑の隙間からこぼれた光が、濡れた石畳の上で細かく揺れている。夏の陽射しは強いのに、足元には夜の湿りがまだ残っていた。
町へ下りる道は、昔より短く感じられた。その代わり、途中にあるものが少なくなっていた。
酒屋だった建物は、窓に板が打ちつけられている。道の向かいの家は屋根だけを残して更地になり、雑草の間から、かつての基礎らしいコンクリートが覗いていた。小学生の頃、僕はその家の前を通るたび、庭にいた白い犬に吠えられた。犬の名前は覚えていない。けれど、鎖が伸びきる直前に鳴る金具の音は、いまも耳の奥に残っている。
町から消えていくのは、人間より先に音なのかもしれない。
盆地の底では、夏祭りの準備が進められていた。提灯を吊る人、櫓の足場を確かめる人、道路の端に寄せた古い机を拭く人。昔なら子どもたちが走り回っていた場所に、今は大人の手だけが残っている。人の気配を、行事の手順でかろうじて繋いでいるようだった。
神崎トメの家は、町の外れにある。
裏手に小さな畑があり、縁側の下には薪が積まれていた。薪の間から乾いた木の匂いが立ち、庭の茄子の葉は、強い光を受けて裏側まで透けている。風はあるのに、家の周囲だけが風を避けているように静かだった。
玄関脇の戸を叩くと、すぐに返事があった。
「開いとる」
中へ入ると、奥の縁側にトメが座っていた。布を裂いてつないだ座布団の上で、茶碗の縁を細い指で撫でている。針仕事をしていたのか、膝元には白い布が畳まれていた。
「神崎さん」
「見れば分かる。入ってきたのは、あんた一人だ」
トメは手を止めずに言った。顔を上げたのは、僕が縁側へ腰を下ろしてからだった。鋭い目が僕の顔ではなく、まず足元を見る。それから膝、手、最後に守り袋へ移った。
「しげの孫か」
「はい。三輪透です」
「知っとるよ。子どもの頃、ここへ来たことがある」
「僕が?」
「来た。しげの後ろに隠れて、こっちの顔を見ていた。菓子をやろうとしたら、手だけ出した」
トメの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「そのときのことは、覚えていません」
「覚えとらんでも、手は覚えとることがある」
その言葉が、縁側の板を通って足裏へ入ってきた気がした。僕は膝の上で指を組んだ。考え込むと、指先で膝を叩く癖がある。今日は叩かないようにしていたが、右手の親指が左の爪を何度も撫でていた。
「まだ、そこを掘るのかい」
トメが言った。
声は乾いていた。棘はなかった。熱い湯をこぼさないよう、両手で茶碗を包むような慎重さだけがあった。
「掘りたいわけではありません」
「柿の木の下を掘った」
「見ていたんですか」
「見ていなくても、土の匂いは町へ流れる」
トメは茶をひと口飲んだ。ぬるい湯気が口元で消えた。
「下駄と、髪留めを出しました」
トメの指が茶碗の縁で止まった。
「白い髪留めです。土に埋まっていたのに、汚れていなかった。母は祖母のものだと言いました。自分が祖母に渡したものだとも」
「芽衣が、そう言ったのかい」
「言ったあとで、何も話さなくなりました」
「それがあの子の話し方だ」
「母は、話していないでしょう」
「話していないように見えるだけだよ。手を動かして、戸を閉めて、茶を淹れて、皿を拭く。あの子は、言葉の代わりに家を整える。整っているうちは、まだ誰も壊れていないと思いたいんだろう」
僕はトメの横顔を見た。祖母の名を出したときから、彼女の視線は何度も戸口へ滑っている。夕暮れにはまだ早い。それでも、家へ入る時刻を測るように、外の明るさを確かめていた。
「母は、僕の記憶を隠しています」
「隠しているのか、守っているのかは、見方によるね」
「僕にとっては同じです。自分の記憶なのに、自分だけが触れられない」
「触れられないものには、触れられない理由がある」
「理由を知らないまま、忘れて生きろというんですか」
声が思ったより強くなった。トメは怒らなかった。僕の焦りを受け止めるのではなく、その焦りがどこへ向かうのかを見ているようだった。
「知れば楽になると思っているのかい」
「楽になりたいわけではありません」
「なら、何が欲しい」
「祖母がいなかったことにされないための、何かです。足音を聞いて、跡を見て、帳面を読んで、それでも家族は黙っている。僕が帰らなければ、誰も話さないまま、家を壊して終わらせるつもりだった。祖母が消えたことも、僕が何かを忘れていることも、全部、家の解体と一緒に片づけるつもりだったんです」
トメは庭の茄子を見た。光を浴びた葉が一枚、風もないのに震えている。
「家を壊すのは、建物をなくすことだけじゃない。手順をなくすことだよ。戸を閉める順、夕暮れに誰が外へ出て、誰が中へ入るか。そういうものを古臭い迷信だと笑って捨てたあとで、家の中に何が残っていたのかを知る者はいなくなる」
「祖母は、家の中に何かを残したんですか」
「残したのかもしれん」
「何を」
「それを聞くために来たんだろう」
「はい」
トメは一度、短く息を止めた。それから縁側の板を指先で叩いた。
乾いた音が一つ。
間を置いて、もう一つ。
「音を数えるな」
僕の背中に、冷たいものが沿って流れた。
「帳面に書いてありました」
「しげが書いたんだね」
「なぜ、数えてはいけないんですか」
「音は、数えたとたんに形を持つ。聞こえただけなら、まだ板の軋みかもしれん。風かもしれん。人が歩いたのかもしれん。けれど数を与えれば、そこにあるものとして扱うことになる。名前をつけるのと同じだ。名前をつけたものは、呼ばれたと知る」
「僕は数えました。最初の夜に、十六往復」
「もう数えたことを、悔やんでも仕方ない」
「向こうが、僕に気づいたということですか」
「向こう、向こうと簡単に言うけれどね。あんたはまだ、何を向こうと呼んでいるのか知らん」
「では、何なんです」
「知らないものを、知っているふうに呼ぶな」
トメの言葉は冷たかった。けれど、突き放しているのではなく、僕が余計な形を与えないように止めているのだと分かった。
「夕暮れに家へ入るときは、戸を閉める順がある」
トメは茶碗を膝の脇へ置いた。
「玄関、勝手口、縁側、最後に仏間。西を先に閉めて、東をあとにする。外の風を先に抜く。戸口に立つ者は一人だけ。二人いるなら、片方は庭に残る」
「なぜですか」
「家が内と外を分ける順番だからだ」
「それを守らないと、何かが入ってくる?」
「入ってくるものだけなら、まだいい」
「出ていくものもあるんですか」
トメは答えなかった。山の斜面へ目を向ける。陽は少しずつ低くなり、庭の影が縁側へ伸びていた。夕暮れは、まだ昼の側にあるのか、夜の側にあるのか分からない。その曖昧さが、家の戸口に立つ人間を迷わせる。
「しげは、家を閉めるのがうまかった」
「祖母が、何を閉めていたのか知りたいんです」
「知ったら、あんたも閉める側になる」
「それでもいい」
「よくはない」
トメは初めて、僕を正面から見た。
「そう言う者は、閉めることを自分で選べると思っている。しげは選んだんじゃない。選ばされて、最後に自分で引き受けたんだよ」
その言葉のあと、トメは茶碗を持ち上げた。乾いた茶をひと口飲む。喉を通る音が、妙にはっきり聞こえた。
「祖母は、あの夜、ひとりでしたか」
「ひとりで歩いていた」
「それは、家の中で?」
「家の中と、庭の間を」
「何度も?」
「足音を数えるなと言っただろう」
「すみません」
「謝ることじゃない。知りたいなら、聞き方を変えな」
「では、どう聞けばいいんです」
「何があったかではなく、誰が何をしなかったかを考えるんだね。戸を閉めなかった者。返事をした者。振り向いた者。見たのに、見なかったことにした者。家の秘密は、起きたことより、起きなかったことの方に長く残る」
僕はその言葉を手帳に書き留めようとした。だが、ペンを出したところで、トメが僕の手元を見た。
「それ、毎晩つけているのかい」
「音と時刻を」
「時刻はいらん」
「どうして」
「夜に歩くものは、夜にしか戻れんからだ」
意味を問い返そうとしたとき、庭の奥で何かが擦れた。
茄子の葉ではない。薪でもない。
土の上を、布の端が引かれたような音だった。
僕は反射的にそちらへ顔を向けた。トメは動かなかった。視線すら庭へ向けない。茶碗を両手で包み、ただじっとしている。
「今のは」
「音を数えるな」
「数えていません」
「聞き分けようとするな」

「僕は、音を聞き分けないと」
「そうやって、聞こえたものを自分の中へ入れる癖を、しげは心配していた」
胸の奥に、鈴の音が一度だけ響いた。
実際には、守り袋は膝の上で動いていない。
「祖母が、僕のことを話していたんですか」
「お前のことを話さない日はなかったよ」
思いがけない言葉だった。トメはすぐに視線を逸らした。
「ただし、しげは人を褒めるときほど、名前を呼ばなかった。名前を呼ぶと、その人を自分の側へ置いてしまうからだと言っていた」
「僕には、何を残したんですか」
「残したかもしれない。残さなかったかもしれない」
「答えになっていません」
「答えを急ぐねえ」
「急がなければ、家が壊される」
「家が壊れる前に、あんたが壊れるかもしれん」
声は低かった。脅しではない。長い年月を見てきた人間が、起こりうることを手順の一つとして置いた声だった。
「僕は、祖母を戻したいわけじゃない」
「そうかい」
「戻ってきてほしいと思う気持ちはあります。でも、それだけじゃない。いなかったことにされたくないんです。僕は祖母に可愛がられていた。縁側で抱かれて、夏着の布の匂いを覚えている。鈴をもらった。なのに、いなくなった夜のことだけがない。大事なものをもらった記憶と、その人が消えた記憶が、僕の中で切り離されている。その切れ目を、誰かが見えないように縫ったみたいに」
言い終えると、口の中がひどく乾いていた。
トメはしばらく黙っていた。やがて、膝の上に置いていた古い布包みを手に取る。色褪せた布の端に、小さな白い糸の輪が縫い込まれていた。
「しげは、あんたに似たことを言ったよ」
「祖母が?」
「言葉は違う。あの人は、余計なことを口にせんかったからね。ただ、帰れないものを帰そうとする顔をしていた」
「帰れないものって何ですか」
「それを家の外へ持っていくのかい」
「持っていけないなら、ここに置いていきます」
「何を」
「知ったことを。僕が東京へ戻って、普通に暮らせなくなっても、なかったことにはしない」
トメは布包みを僕の方へ押し出した。受け取れという意味ではない。ただ、そこに置いた。
「知ることは、救いより先に負債になる」
「分かっています」
「分かっとらん顔だ」
「分からないから、来たんです」
「分からないまま、引き受けることもある」
トメは布包みを元の場所へ戻した。
「しげは、最後まであんたを外へ出そうとしていた。家の中に残すためじゃない。外で生きさせるために」
胸の奥が、急に空洞になった。
「祖母が、僕を逃がしたんですか」
「逃がしたのか、遠ざけたのか。言葉は似ているが、意味は違う」
「何から」
トメは答えなかった。
「神崎さん」
「もう帰りな」
「まだ聞いていません」
「聞いたよ。聞きすぎた」
「僕は何も――」
「分かっていない。それでいい。分からないまま帰って、今日は戸を閉める順番だけ守りな」
「それだけで、何かが変わるんですか」
「変わるかもしれん。変わらんかもしれん。ただ、順番を守る者だけが、変わらなかったものに気づける」
僕は立ち上がった。
縁側から下りると、足元の土が湿っていた。靴底にまとわりつく泥が重い。トメは僕を見送らず、戸口の方を見ていた。夕暮れが近づいている。家に入るべきか、まだ外にいるべきか、その境目を測っているようだった。
「今日は、日が落ちる前に家へ着きな」
「何かあるんですか」
「何もない日ほど、戸は早く閉める」
僕は門を出た。振り返ると、トメはまだ縁側に座っていた。白い布を膝に置き、茶碗を両手で抱えている。その姿は、そこに誰かが帰ってくるのを待っているというより、誰かが帰ってこないように見張っている姿に見えた。
帰り道は、来たときより湿っていた。
夕暮れが山の斜面から下りてきて、道路の端に溜まった水を青黒く染めている。空き家の軒先に吊られた提灯は、まだ灯っていないのに、赤い紙だけで人の気配を作っていた。
味噌汁の匂いが、どこかの家から流れてきた。犬の吠える声が一度だけして、すぐに消える。町は静かだった。人がいないのではなく、人が音を立てないように暮らしている静けさだった。
三輪家の門が見えたころには、空はほとんど暮れていた。
庭の柿の木の根元が、行きがけより少し沈んでいる。
その前に、恒一が立っていた。作業着のポケットに手を入れ、何かを待つようでもなく、何かを見張るようでもない。ただ、土を見ないまま、土の前にいる。
「叔父さん」
呼ぶと、恒一の肩がわずかに動いた。
「どこへ行っていた」
「神崎さんのところ」
「そうか」
「戸締まりの順番を聞いた」
恒一の手が、ポケットの中で動いた。鍵を確かめているのかもしれない。
「古い家には、いろいろある」
「玄関、勝手口、縁側、仏間。西を先に閉める」
恒一は僕を見た。初めて、はっきりと目が合った。その眼差しには怒りも驚きもなかった。ただ、見つかってしまった人間の疲れがあった。
「余計なことを聞いたな」
「聞かないで済ませるには、もう遅いと思う」
「遅いとか早いとかじゃない」
「じゃあ、何なんだ」
恒一は柿の木の根元を見た。見たくない場所を、今度は自分から見た。
「まだ、何も出ていない」
その言い方が気になった。
「何か埋まっているの」
「知らない」
「知らない人の立ち方じゃない」
恒一の口元が固くなった。指先がポケットの中で鍵束を握り直す。金属が布越しに小さく鳴った。
「透。家の中へ入れ」
「神崎さんは、祖母が僕を外へ出そうとしたと言った」
恒一の顔から、わずかに色が失われた。
「何を聞いた」
「聞いたことを答えて」
「トメは、余計なことを言う」
「叔父さんも、ずっと余計なことを言わない」
「言わない方がいいことがある」
「母さんも同じことを言った」
「だから、正しい」
「正しいのに、祖母は消えた」
恒一は返事をしなかった。
家の中で、障子が一枚、誰にも触れられないまま鳴った。
風の音ではなかった。
僕と恒一のあいだに、湿った空気が流れ込んできた。白粉と古い石鹸、それから、夏着の木綿が濡れたときの匂い。縁側の方から、何かがこちらを向いた気配がした。
恒一は土から離れた。
「中へ入れ」
「順番は」
「黙れ」
初めて、叔父の声が荒れた。
その声のあとで、家の奥から足音が聞こえた。
裸足が板を踏む。
少し遅れて、草履の底が擦れる。
ひとつ。
また、ひとつ。
僕は音を数えなかった。数えないようにした。それでも、足音が柿の木の根元から縁側へ近づいてくることだけは分かった。
恒一は玄関へ向かい、鍵束を取り出した。手が震えている。普段なら決して見せないほど、はっきりと。
家の中で、足音が止まった。
その静けさの中で、僕の守り袋の鈴が、布越しに一度だけ鳴った。
恒一が振り返った。
僕も、縁側を見た。
障子は閉じている。
その向こうに影はない。
ただ、障子の下端だけが、濡れたように暗くなっていた。
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